時事問題

PTAと日本の社会、ボランティアの本当の意味

朝からメールが携帯電話に入る。その趣旨は、「明日、子どもにPTA会費を持たせるべし」。

もちろん、持たせる。が、支払を怠ったとしてもPTAから退会を強いられることはない。というか、任意団体という発想が欠落している。

新学年が始まると、子どもがPTA役務の申し込み用紙を持ってくる。通年のPTAの役職、これは6年間に一度が「義務」とされ、毎年就く必要がないものの、より軽微な役務として、子どもの農作業を手伝えとか、盆踊りを運営せよとか、その他学校間のイベントを手伝えとかである。

それらが、良いこととは理解している。つまり、しないより、した方が望ましいという意味で。しかし、人件費の予算、のような歯止めがない。

ここで、僕なりに信じる健康な見解を述べておきたい。

保護者が、子どもをきちんと学校に通わせ、狭義の勉強以外に、学校主体の運動会とか遠足とかにも保護者なりの関与をすることは義務である。

しかし、PTAがPTAの名のもとに行うオプション的な活動は、ボランティア活動である。

さて、、、ボランティアの意味なのだが、今の日本では、「タダ働き」の意味が前面にあるようだ。そこで、このサイトらしく語源を確認しよう。

その語源は、ラテン語のVolo~私は望む、である。つまり、自ら「それ、私やりますよ!」って気持ちが重要なのだ。

ところがPTAなどでは、極めて念入りに、全ての関係者に、有無を言わせず、できる限り均等に役務を割り振る仕組みが確立している。

これ自体、社会学の研究対象になりそうだが、それはさておき苦役の度合いが高まっていると思う。

PTA って、一見洋物だが、日本古来の村落共同体を基盤にしたものだろう。それは、等質な家庭の集まりを前提条件にしていた。また、戦後昭和の時期には、専業主婦の活躍も期待できた。

だからうまく動員できたのだが、共働きの家庭、一人親の家庭、日本的な暗黙の前提にうとい外国人の家庭なども昭和の時代に比べぐっと増えている。だからいつまでも昔ながらってわけにはいかない。

学校の教育現場も大変だ。いじめを根絶するために道徳教育、グローバル化だから英語教育、日本の伝統を見直す教育、地域とのつながりを深める活動、自然にもっと触れ合おう、、続々課題が増え、子どもたちのランドセルは重くなるばかり。PTAへの期待も大きくなる。

さてどうなるPTA。根本的な発想の転換が期待される。

おまけの話。以上に関連し、スマホの普及は、生活の利便性に貢献しているというより、より仕事を増やすことに活用されている。動員に便利だからね。

 

 

 

女性学長と被篭絡公務員

あの!東京医科大に初の女性学長が就任した。林由起子先生おめでとうございます。
社会的、文化的にも健康なバランスを保って、立派なお仕事ができますように願っています。
一方で、あの!篭絡された政府高官のみなさんだが、”篭絡”されるなんて、公務員として最大の恥辱であるのに切腹はしていないらしい。
”切腹”なんて大げさな表現かもしれないが、幕末に訪れたあるヨーロッパ人が驚いたそうだ。
「この国の役人は、賄賂を受け取るなど切腹に値すると本気で考えているらしい(当時の中国とは似て非なる国として)」、とか。
ところで医学部への女性合格者抑制措置の根拠は、医師としての女性は出産、育児とかあるので使い勝手が悪い、ことにあった。
男の方が使い勝手がよい?のか。というより入学の段階から使い勝手か!医師といえば、最高位の資格の一つだが、入学の段階で労働者としての選別が行われていたわけだ。
男社会は、それほど効率がよいのだろうか?一見効率的のようでも社会総体ではマイナス面が大きいように思う。
厚労省の事例は、をぢさん特有のねちっこい接待文化である。
篭絡とは、最悪の結果であるが、事実上酒席が仕事の裏側として機能し、正当な手続を踏まないやり取りの場になっている。
ほんとに、いるんだよね。酒席が本業以上に重要だと信じているをぢさんが。
仕事が終わったら、とっとと家に帰って、家族に尽くしたらどうか。最近の事例にあったように、大学に圧力をかけて子どもを入学させるより、正当に入学できるように教育すればいい。
そもそも、「仕事が終わっても、まだをぢさん仲間の顔を見ていたい。夜中の2次回までずっと一緒に遊びたい」なんてどういった美意識なのだろう。
もちろん、性的少数派なら特段の考慮をするけれど。
余談、おじさん→をぢさん とした理由は、特有のキモさの表現としてである。
2018.10.03 追記
厚労省といえば、、あの、村木厚子さんが、本を出した。
「日本型組織の病を考える」。
こういった動きを歓迎したい。

カトリックとその問題について その1報道

つまり、ペンシルバニアの司法当局が、少なくとも300人の聖職者が、千人以上の未成年者性的虐待をし、かつ組織的隠ぺいを図ったと発表した件について。
単純にいえば、悪事は見過ごされてはならない。裁かれるべきは裁かれなければならない。
それはそうだ。
とはいえ、前触れは数々あったが、不穏な先行きを感じる。
今後、世界中の多くの人々を精神的に束ねてきたこの巨大な組織の権威が大きく失墜していく。そして、世界はより混沌として、極端な思想が無謀な政治行動を誘発していくように感じる。
私、非信者的な視点からみたカトリックはこんなものだ。
①世界が共産主義と資本主義に分裂したときの思想的緩衝帯であった。
(金持ちのプロテスタントに比べ、基本的に貧者の宗教であったからである。)
②アメリカ社会にあっては、民族的少数派の社会的なシェルターの役割を果たしてきた。
(アイルランド系、イタリア系、ヒスパニック系などマイノリティー層と密接である。)
カトリックといえば、こんなエピソードがある。ローマ法皇が、就任後間もなくのトランプ大統領に忠告した。「人の間に壁を作ろうとする者はキリスト教徒ではない」。とか。
この発言は、キリスト教徒破門宣告みたいなものだが、(とりあえずプロテスタントとはいえ)トランプは全く意に介さなかった。この点、世界史で習った「カノッサの屈辱」を思い出してみよう。
この件の報道があったとき、時勢的に、教会の力もずいぶん落ちたものだと感じたが、今回の件では、内部崩壊的な問題が顕在化した。
今後の問題は、カトリックが力を失った空白をどんな類の集団の力が埋めていくのか、それとも真空地帯ができてしまうかだ。
以下余談である。
進歩的な人々、この場合性的マイノリティーの権利向上に熱心な人たちの意味であるが、この進歩派にとってカトリックは遅れた古臭い勢力であった。
ところが、カトリックの聖職者の中には、相当な割合で性的マイノリティーが存在することが顕在化した。問題はその「質」なのだが。

新幹線内殺傷事件について

憎悪の気持ちはわかるけど、「コイツ」の名を語るのは、よしておこう。それが「コイツ」の望んだことだから。
代わりに、特段の敬意をもって梅田耕太郎さんの名を心に深く留めておこう。
そして、できることなら、少しばかりの勇気を持って、普段は躊躇してしまう世の中によいことを実践してみよう。
それがみなさんができる梅田さんへの供養だと思う。

結愛さんの事件について

彼女は、胸のふさがるような、切実な言葉を書き残して殺されていった。数年前、大阪で、部屋に閉じ込められて餓死させられた幼い兄弟がいた。どちらも虐待死の事件であるが、質の異なる点に気を付けてみたい。
ネグレクト、放置されている子どもたちは、面倒な「物体」のような扱いを受けているので、概して言葉の発達が遅れている。それでも、なんとか切実に「ママ」位の言葉を話す。生き延びる最後の手がかりのようなものだ。
今回の事件で、おどろくことは、結愛さんの言語能力である。このおかげで、社会は、彼女のメッセージを受け取ることができた。しかし、両親には、”意味”が届いても、”気持ち”は伝わらなかった。この断絶が恐るべきことなのだと思う。
結愛さんの素養もあるのだろうが、(著しくバランスを欠いたものであっても)「教育熱心」な、家庭であったことが推測される。外面的にもとりあえず”普通”に見えそうだ。
結愛さんのメッセージの受け止め方を考えてみよう。まず両親を非難するのは当然としても、我が身を振り返ってみることも大切だ。
つまり、教育とかしつけの大義名分を掲げることにより、自身の暗黒面に気が付かなくなってはいないか?ということだ。
”暗黒面”とは、大げさかも知れないが、本当は自分自身の問題を子どもに投影しているような状況のことである。
僕自身の経験としても、子ども相手に思わずムキになって感情に振り回されるとうな場合、自分の子ども時代の経験に関連していると後から気づくことがある。

部分社会について その3 ジャイアンの野放し

ジャイアンって、どらエモンのジャイアンなのだが、今の小学校なら最重要課題であるいじめの先頭に立ち、暴行、傷害、脅迫、恐喝を常習としてしている。なのに、スクールカウンセラーが対応するとか、新聞沙汰になって教育委員会がやり玉に上げげられることもないどころか、担任教師も被害児童の保護者も無関心である。

アニメといってしまえば、それまでだが、社会史を語る重要な資料である。
つまり、この時代は、子ども社会に親は介入しない。これが原則だったと分かる。もっとも、「ガキ大将」とは、恐怖で子どもたちを支配していたのではなく、その面倒を看ることで信頼を置かれていたものであるらしい。さらに年長の未成年の「番長」とは、ほんとうにいたそうだ。子どもを代表し、教師と渡り合うくらいの度量をもった子どものリーダーだったそうだ。

つまり、昔の子どもたちは、それなりに自律した部分社会を形成していたわけだ。子どもたちにとって、衝突、和解、リーダーシップ発揮などの実践を通じて自前の問題解決能力を学ぶ機会だったとも思う。

ところが、今時は学校の一元支配が周到に制度化されていて、いじめの摘発も強く奨励されている。いじめゼロ推進は結構なことだ、としても「子どもの部分社会」が消失したことによって何が失われたのか、少し考えてみてもいいだろう。
この点、習いごと漬けにしがちな親の姿勢も考えてみたい。
子どもたちのために何をするか、ばかりでなく何をしないでおくか、という発想も必要だろう。

ドラえもんだって、あえてのび太を助けない選択をする場面もある。



部分社会についてその2 日大アメフト事件2

部分社会話された言葉は、一般社会の言葉に翻訳が必要である。
「潰してこい」の翻訳が今問題となっている。

伝統的な社会の例では、
「育成した家畜を食材用に加工して、特別なもてなしに供しなさい」となる。盛大な村の祭礼などが思い浮かぶ。

今回の件では、人間が対象であるから全く事情は異なっているが、状況を加味した私の翻訳では、
試合の過程上のタックルで相手を負傷させなさい。それが相手のQB(最重要ポジション)なら、こちらが将来的にも相当有利になる」。となる。

試合の過程上の、これが重要だ。この暗黙の言葉で目的も含め免責になるかどうかは、アメフト界の流儀に任せたい。部分社会には、それなりの自律性があってもいいからだ。汚いやり方でもお互い様とか。

しかし、彼は、この含みを読み解けなかったのだろう。試合の流れとは独立してやってしまった(目的は理解していたが)。
コミュニケーション上の不備ではあるが、それ自体が、傷害事件と解釈できる行為を観客の面前でやってしまう背景(場の力)こそが問題である。

アメフトはマッチョなだけ?いや、高度に知的な洗練を伴う競技である。なのに、こうなった。これが部分社会の怖いところである。

部分社会について その1 日大アメフト事件

部分社会とは、もともと法律学用語なのだが、もっと一般化して考えてみる。
そもそも、大学も部分社会なのだが、さらに私学のスポーツのエリート部は、極端な部分社会だ。一般社会からは常軌を逸したことが、礼賛されていたりするし、一般学生から乖離した学生生活が当然とされている。
監督には絶対服従の状況で、この反則は「支持された」とされる。部分社会的には、正当な行為であったとしても、一般社会ではそうではないと、事の重大さが喧伝されるまで当事者は理解できなかった。
そして彼は、本来のハレの場ではなく、全く想定外の場で、勇気を試されることになった。この勇気とは自分の言葉を持つという勇気である。そして彼は、貫徹した。敬意を表しよう。
彼は、その言葉で、部分社会の常識を超え、良識を表現したわけだ。
そもそも良識とは、教養から派生するものであるが、これは大学教育の根幹ではなかろうか?大学当局も巍然としてほしい。
「国の名負いて巍然と立ちたる大学日本(校歌)」である。国内の大学としてだけでなく、日本の大学としての名誉もある。「火消し」はいいから、大学としての組織改革をしてほしい。手始めとして、総合大学としての特性を生かし、経営学科、社会学科、法律学科、体育学科の協働研究をしてはどうか。そのテーマは、「危機管理と部分社会」を推奨する。危機管理学部はどうかって?研究の主体ではなく、対象であろう。

2017年の犯罪統計を読み解く

統計の要旨は、窃盗は大きく減少、全体的に犯罪件数は減っている(戦後最小)が、詐欺は増加。
解釈的なポイントを述べれば、
1 情報格差が犯罪を助長している。
2 物的設備は犯罪抑止に効果が大きい。
 
1についていえば、架空請求、ふりこめ詐欺の増加の背景。啓蒙活動がこれほど盛んであるのに、犯罪者側の”技術革新”が先を行ってるわけだ。
被害者側にとっては、情報を収集する能力、解釈する能力の低さが突かれていると思う。
典型は、孤立傾向にある高齢者だろう。
 
たとえば、存在しない役所とか、ありえない法的請求を確認する手段が限られているし、高齢者特有の思い込みの強さもある。
 
じゃ、スマホが日常の若年層なら大丈夫かといえば、勝手知ったる仲間内の情報のやり取りが判断の基準なので、SNSなど不特定の参加がありうる場合、悪意のある相手を見分けることが難しい面もあろう。そこで、SNS関連の犯罪は増加中。これも広い意味で情報格差。
 
2についていえば、昔ながらのプロ泥棒は割に合わなくなったってこと。防犯カメラ、住宅セキュリティー、自動車盗難防止装置の普及などが、これを抑止している。
代わって、仲間とうまくつるんでスマホで手軽に口先でできる犯罪の方が効率がよくなった。ただ、被害者をうまく誘導するには、それなりの言語能力の訓練が必要なので、彼らなりの”学校”があると聞いたことがある。
総括的に、情報化は、犯罪傾向と密接な関係がある。
 
ところで、犯罪防止の政策について。
犯罪者を刑務所に入れて、”正しい心”に矯正する、政策は旧来からのものだ。精神論だけでなく、職業教育もこの部類。つまり中身重視。
 
新しい視点として、人は環境に応じて犯罪をするのだから、犯罪に向かわせないような社会環境づくりをする、って発想がある。これが、環境犯罪学。
先の2についていえば、環境犯罪学を支持する内容だろう。ただ、環境といっても監視以外の方策もアリだけど。
 
 
 

生徒の髪染めについて

この問題、時々報道されているが、視点を広く考えてみたい。
人種としてモンゴロイドなら直毛、黒髪が多いとはいえ、生物学的多様性がありうる。
なので、もともと赤毛(俗にいう茶髪)の子はいる。そこで、地域的な学校側の風潮なのだが、高校が黒く染めることを強要し、裁判沙汰にまでなった。では、余計にいえば、縮れた髪(俗にいう天パー)なら、直毛に矯正されなければならないのだろうか。
ヨーロッパ系、アフリカ系の子どもはどうする?
これに関連する管理は、生来の髪の色のままであることの申告制度。
これも異様に感じる。
生徒の同一性に偏執的にこだわるのは、どうしてだろう。
かつてのナチスのように(彼らが崇高と信じた)人種主義の確たる思想がある?
いやいや、世間体を重んじる俗文化の流儀らしい。
 
でも、少し、この件に該当する教育委員会をフォローしてみよう。
集団的に人を管理するためには、同一性が必要である。
(嫌味を加えれば、日本の刑務所の管理術でもある)
たとえば、同じ制服を着せることによって、集団は格段に扱いやすくなるものだ。
ただ、服装は社会的な立場、役割を求めさせるものであり、一方、髪とは身体=自分の一部だ。
つまり、髪は、より人格に直結している。
 
僕の意見として、
管理・運営の必要があったとしても、身体への介入は慎重であらねばならない。
極端な例、入れ墨なら当然の禁止でかまわないが、髪のことにことさら血筋をあげるべきではない。
取り締まりより、マナー・美意識の涵養なら学校にふさわしい。
学校の領分として、制服の改造に厳格に対処しても、それはむしろ容認できる。
身体は、原則、家庭の領分と思う。
 
より包括的な問題も指摘したい。
たとえば、リベラルに、性的少数者へ配慮しましょうって時代の雰囲気。当然、学校の教育へも反映されるわけだが、一方で茶髪生徒の洗い出しと摘発に駆り立てられているとしたら、はなはだしい”価値観の統合失調”にある。
教員の精神疾患の増加の背景には、こういった統合失調もありそうと考える。
 
 
 
 

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