時代精神

大玉村とマチュピチュ 大いなる成婚(友好都市調印)

例えれば、このようなおとぎ話になろう。

世界中の王族、貴族、成り上がりの金持ちから求婚が殺到する娘がいた。でも娘はどの縁談も断り続けた。いずれも、心の琴線に触れる相手ではなかったから。

娘は、静かに古い思い出に想いを馳せた。「そうだ、あの方なら、きっと」

赤い糸は、途切れることなく、地球の向こう側に届いた。そこは、美しい山の麓の小さな村だった。

古風な青年がいた。地味だがすがすがしく誠実で、その足はしっかりと大地を踏まえ、その心には凛とした一本の筋が通っていた。

大地と風と空は、わが子のことのように二人を祝福し、この時、大地は金色の収穫を届け、風は、心地良くそよぎ、太陽は、二人を温かく照らし出しましたとさ。

pax hominibus bonae voluntatis/良き心映えの人々に平和を

2015.10.30日経、春秋からのアレンジ

大いなる田舎、大玉村のサイトはここ、

https://www.vill.otama.fukushima.jp/

社会史を考える その1 少年非行集団

今回の川崎の事件で改めて少年非行集団について歴史的に考えてみた。

過去から遡ってみる。

戦後の混乱期

これは、日本の社会が崩壊状態にあったころで、当時の名称では、愚連隊など。警察もあてにならない社会状況なので、やりたい放題。子どもというより、大人的犯罪組織で凶悪事件も多発。

高度成長期

暴走族の時代だ。トップダウンの組織型。男っぽい団結が美学。

バブル崩壊後

チーマーの時代。少人数のゆるい組織だがとりあえずチームではある。”悪さ”を個性的に競い合うような関係性。かつ都市型で繁華街が活動地域。

そして現在

スマホを使用したネットワークが集団の要でとらえどころのない点が特徴。女子も結構いたりする。統制が取れず、そのときの状況で場当たり的に重大な非行もありうる。

今回の事件は、一見、組織を抜けようとする行為への制裁と解釈されやすいが、むしろその場のノリで集団のイベントを行ったような観がある。この未熟さとはそのまま凶悪さである。”状況”を動画撮影している可能性も高い。

世界観という言葉について

思わぬ場面で耳する言葉として、少し気になっている。たぶん、○○の世界、なんて表現されてきたものに、幾分思想的な深みを多少加えた感じかな、っと思っている。

僕自身定義すると、

個人の具体的な作品等の背景となっている一つのまとまりのある観念的背景。

思想といったら大げさだし、強く主張を表現するものでもない。

だから、こっちの世界観が正しいとか、間違っているとかそんなことは野暮であって、この世界観おもしろいよね、共感できるよね、なんて軽い批評に向いている。

鋭く批評するとお互い傷ついてしまったりするから、それもアリかもね、で済ましておく。

この感覚、とても今風に感じる。

ただし、本来の意味で世界観とは、個人においては価値観や生き方を決める要因だし、国家も特定の世界観で成り立っている。

あのイスラム国をめぐる問題は、世界観の衝突でもある。

改めて世界観を意識して、このブログも続けてみようと感じる。

沙羅とSARAH のネーミング論

ソチオリンピックの二人のライバル、二人のサラの話である。

沙羅って名前は、一見奇抜だけれど、しっかり、日本の文化に即している。広辞苑にずばり出ている言葉だ。

SARAH(サラ)は、欧米の正統な名前。正統というのは、標準的な女子名であるし、旧約聖書に由来している。

SARAHとは、もともとアブラハムの妻の名前である。ヘブライ語由来で、”王女”って意味があるらしい。

一方、沙羅も宗教的に重みのある名前だ。沙羅双樹といえば、釈迦の入滅に際し、白い花を満開に咲かせた二対の木のこと。

SARAHが聖書なら、こっちは仏典由来。まるで、漫画の「聖☆おにいさん」。

この神秘的なイメージとは別に、沙羅には庭木として知られている「ナツツバキ」の意味もある。これ、わりと身近な花である。

なかなか意味が深く、サラとして海外でもそのまま通用するなんて気が利いている。

似たような話がある。

アイルランドを旅行したマイコさんって女性が、思わぬ歓迎を受けた。

「Oh!俺もマイコ(Micho)だよ」。

ただし、このマイコ(マイコー)は男性名だ。

TOEFULとWASPそして古典の日

今日の日経、「一億総TOEFUL時代!?」とある。

国家公務員試験にTOEFULを使う指針が決まったからだ。

TOEFULの本来の意義は、北米の大学・大学院入試基準なんだけど。

このブログでは、グローバル化は、WASP化じゃないか、といろいろ書いてきた。つまり、露骨にいうとアメリカ基準に従うことの地ならしである。

一方、今問題になっているアメリカを中心とした国家的スパイ活動、メルケルが怒ってるあれだ。その参加国は、みなWASPな国である。

そこには、明確な枠があって日本やドイツは入る資格がない。この”スパイ同盟国”すべてに多くの移民を送り続けてきたアイルランドも入っていない。アイルランドは、「WCC」だから(白人、ケルト、カトリック)。内輪で「入れようか」と話したこともあったかも、しかし、イギリスは強く反対だろうね。歴史的に。

とはいえ、英語は大切である。このブログ(英語に対抗的)の書き手が言うのだからほんとうだ。

でも、自分たちの根っこ、固有の文化を守るってことがその条件。そうだ、今日は「古典の日」である(古典の日に関する法律、平成24年9月5日制定)。

アイルランドの例は参考になるだろう。数百年の植民地支配で浸透した英語を第二共通語として活用している。ユーロ圏で英語圏の国はアイルランドしかない。

それでいて、古来の言語、ゲール語は相当無理して守り続けている。

この時代、「古典」を失った国は、文化的植民地になってしまうだろう。先の法律でいう「古典」とは、源氏物語とか、ばかりではなく、「価値のある継承された生活文化」も含まれることが肝心なところ。

デジタルな感性、アナログな感性

最近の日経記事で知ったこと、それはカセットテープが音質的に見直され復権しつつある事実。

大きな音楽ショップの片隅に、その多くは演歌系だがカセットテープのコーナーがあって、「まだ、カセットで聞いてんの?」と思ったことが恥ずかしい。あー時代に遅れていた。

新しければ、よし、って、それは20世紀的な限界なのかも。

そういえば、最近写真家の方と話したことだ。写真の質上、デジタルとフィルムの違いについて。

確かに、デジタル一眼レフの最新機種の画像はすばらしいが、我々自体、画像を見る感覚が、すでにデジタル慣れさせられている、と聞いた。

なるほど、注意してみよう。と、思った。

鈍感さと利便性は、相補的な関連があるのかも。

仮面ライダーの変遷 そして仮面ライダーウィザード

娘に付き合って、オーズ、フォーゼ、そして今週始まったウィザード。この最新の仮面ライダーだけど、なかなか面白いかも。

バイクを交えたアクションは、オーズ、フォーゼより正統か。一応ライダーなんだから。格闘技はなかなか華々しい。特に足技のキレがいい。戦闘モード、アイテムの多様さ、これは最近の仮面ライダーの特徴。

目新しいものは、魔法。というか、仮面ライダーが魔法使いってこんなのアリ?魔法陣で人の心まで入り込み戦闘継続、これは今までにない趣向。おまけに、使い魔まで登場。

フォーゼは学園ドラマパロディだった(それはそれで面白い)。古典的ツッパリ高校生が主役だったけれど、今どきいるわけなかろう。意外に、今のこどもたちにとって、魔法使いと似たようなものか。

フォーゼは科学と宇宙でイメージが作られていたが、戦っている連中は星座の精みたいなオカルトキャラであった。なんとも微妙なミスマッチ。

オカルトといえば、オーズの変身の仕組みは錬金術師たちが開発したメダルにあった。

そして、今回の仮面ライダーは直に魔法。仮面ライダーもここまで来たかと感じる。

ここまで、ってどういう距離感かといえば、初期の仮面ライダーたちは、理屈上、科学の悪用で生まれ、科学を悪用する組織と戦ったんだよね。

これは、20世紀の時代背景だろうが、21世紀になるとだんだんオカルト色が強くなっているようだ。このトレンド、20世紀の感覚では想定外だったろう。

科学にせよ魔法にせよ、どの道、非日常性の根拠として使えるわけだけれど。

それにしても、パンチとキックだけで戦っていた初期の仮面ライダーたち、今見ると実に素朴だ。

そのうち複雑すぎる戦闘が飽きられてしまい、「仮面ライダー・オリジン」登場とか。ダメ、関連商品が売れない、、、。

共生社会について

社会とは、当然、共に生きることによって成り立つ。でも、わざわざ、”共生社会”なんて不自然な造語を使いたがる人たちもいる。本当の”共生”を知らないのだ。

共生とは、もともと生物学の概念だ。

たとえば、イソギンチャクとクマノミの共生は、南の海の定番。宮古島では、足の立つ浅瀬でも見ることができた。

この場合、うちの娘に、「イソギンチャクさんとクマノミさんは仲良しだねー」とかお話してもいいが、イソギンチャクの危険度を教える方が優先事項。ある意味、これは恐ろしい光景である。

大型種のイソギンチャクの触手は、通常の小魚にとって致命的であるが、クマノミは特別な生理的仕組みによって、殺傷、捕食を免れている、と表現すれば正確だろう。

共生といっても、異なる種の共存として、利害の割り振りはいろいろある。たとえば寄生も共生の一つの形。寄生された側にとって、それは害を被るだけの関係になる。

明らかにクマノミは、イソギンチャクによって、捕食者から守られているけれど、イソギンチャクの利益はよく分からない。もし害も益もないとすれば、片利の共生関係と表現されよう。

もし相互に利益のある関係なら、お互いなくてはならないわけだ。生物の世界なら生存がかかっている。愛とか信頼の絆よりも、ある意味強固。

「嫌でもお互いを否定できない関係」といってもいい(そして平和が保たれる)。

共生という言葉には、本来、こういった抜き差しならないニュアンスがある。

これは、人間社会の平和、って課題を考える上で重要なことだと思う。多分、平和とは、心のあり方だけででもたらされるのではなく、むしろ、冷徹な社会の仕組みから実現できるものなのだろう。

水の安全性の科学について

すごい時代になったものだ。あの日以来、明けても暮れても、シーベルトとベクレルの数値から逃げられない。水道水は突然、毒水になったのだろうか?以下、東京での生活感覚で述べる。

そもそも、水の安全性とは何か。これは、とても包括的問題である。

僕の学生時代、借家にセールスマンがやってきた。彼の主張は、水道水の塩素は健康上極めて有害であり、多くの科学者が警鐘を鳴らしている。だから、今すぐ、この浄水器を買いなさい、というもの。さもなくば、がんになって死ぬよと脅された(科学的?データ提示あり)。

そんでもって、実験まで披露してくれた。試薬を入れると水道水が真っ赤になる、しかし、浄水器を通せば、大丈夫(やるねぇ)。

なかなか、劇的である。隣の学生は、ローンでこの浄水器を買った。バイトも始めた。彼の留年との因果関係は不明だ。

塩素、一点を絞っても先の例では深刻なイメージである。だが、鉛などを含んだ古い水道管から、体に入る重金属の影響はどうだろう?こっちの検査も必要じゃないか。

いやいや、集合住宅の貯水槽、これだって大丈夫か。定期的にメンテナンスしているのか。ネズミが浮かんでいたって話もある。これじゃ、浄水器どうこうの問題ではない。東京都の衛生部門の職員いわく、「必要性を認識していますが、とても検査、指導が追いつきません」。

これから問題になるのは、プール。もともと、念入りな消毒処置を施すのか通例。僕が小学生のとき、スイミングスクールをやめたのは、目が痛くて仕方がなかったからだ。

つまり、数値以前に体が拒否したわけだ。これだって科学的根拠である。

プールの水を消毒する理由は、感染症より少しくらい目が痛くなる方がまし。ということだろうが、それは程度の問題である。程度の問題といえば、個別の条件により、放射性物質より、塩素の方が有害である場合もありうる。

微生物も、ヒトも同じ生物には変わりない。これはベタな科学的事実である。放射性物質はすべからく生物に有害な点、これは塩素でも同様だろう。けど、わざわざ塩素は水道水にも、プールの水にも使われている。

もし、政府のいうことなど信用できない、行政上の措置などあてにならない、と考えて、放射能も含めた万全の検査機器を駆使して日常生活を営むとすれば、ビョーキだろうね。もちろん、本人の思考の筋道自体は筋を通すことができるだろうけど。

この場合、経済的バランスを欠くことになるだろうし、ひいては幸福感を低下させることになるだろう。けど、”命より?健康管理が大切”みたいな人はいる。

古い記事で記憶もはっきりしないが、北欧のとある国の疫学データ記事を思い出した。極端な健康志向の人は、そうでない人より、長生きできない!という結果だったと思う。

もともと、具合の悪い人が健康志向にこだわるからか、それとも、健康志向がストレスを高め、免疫力を低下させるからなのか、その点は分からない。

結局のところ、科学は、自然の事象の一部分を切り取り、信用可能な情報を提供できるが、あくまで部分情報でしかない。しかし、私たちの生活は、水を含め、極めて包括的に自然界と関わっている。

だから、科学的データを本当に活用するには、総合的な、ビジョン並びに重要性の判断基準が必要になるだろう。かつ、これを自分自身の生活スタイルに落とし込むこと。この作業を、名づけるとしたら、「良識」ではないかな。

大げさにいってみたが、少なくとも、特定のデータを偏重しないことだと思う。水道水の水質に限らず、実生活のリスクは他にいくらでもあるし、それは自然界の数値にも限らない。

仮面ライダー1号と脳科学の時代

すっかり仮面ライダーマニアになってしまったうちの娘と、仮面ライダーの第一話を勉強した(テレビ放映版を観た)。

本郷猛は、ショッカーに捕まり、まず身体改造を受けた。しかし、悪の組織の一員となるべき、脳改造の前に脱出できたので、正義の心を持つヒーローになれたのだ。これが事の始まり。

脳改造は身体改造とは別。これが興味深い。脳は心のよりどころだから、脳を変えれば心も変わるって発想がここにある。

そういえば、この時代、、、。これが脳科学の時代の始まりなのだろうね。僕の脳科学(生理心理学)の先生の若いころだ。先生は脳波計を駆使して、当時としては斬新な研究に取り組んでいた。しかし、中身(脳)そのものではない。

一方で、外科系の脳科学者たちは、粗暴な犯罪者の改善(改造?)に取り組んでいた。いわゆるロボトミーである。だから、仮面ライダーのお話は、れっきとした時代背景に基づいている。

あの有名なシーン、手術台の上でもがいている本郷猛、これはある意味実話である。このころ、多数のロボトミー手術が行われていたはずだ。また、自ら進んで、「善の心に変えてください」なんて者はいなかったろうから、強制である。

僕が、かつてある窃盗犯の事例を調査したとき、古い資料から、彼がロボトミー施術を受けていることを発見した。

なるほど、額に傷がある(あの有名な稲妻型ではないが)。しかし、ほとんど会話は成り立たない。魂の抜け殻に近いというべきだろう。かつては、激しい粗暴犯だったろうが、今は短絡的な窃盗程度の事件しか起こしていない、というよりこれしかできない状態だった。

古い映像を改めて観ると、当時の時代背景が見えてくるという話。

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