思想

山頭火と、存在と時間

山頭火お決まりの、ぼそっとした句の一つとして、「まっすぐな道でさみしい」。

なんだか、分かる、としても鋭い解釈もありそうだ。

「なるほど!」と、川上未映子のエッセイで知ったので書いておきたい。

そこで何が起きようが、だれが何をしようが、永続的に刻々と、冷徹に流れていく時間を「まっすぐな道」と考えればよいのだろう。

人の生は、後ろのどこかでなんとなく始まり、その死はその先にある。

ゴチャゴチャした日常にとらわれていると、そんな事実はかすんでしまうが、視界を超えるほど先のある道に出くわすと根源的なさびしさが沸き起こる。いつか自分はこの道を下りるが、道はでもずっとある。

M.ハイデッガーの存在と時間/Sein und Zeit この題名を思い出した。

書評1 子どもの読書 「ソフィーの世界」

就寝前のひとときに読ませているもの。北欧の10代の女の子が主人公で、日常の謎めいた出来事から、何と!西洋哲学史の全貌が語られていく。
この本は、相当なボリュームではある。でも、それなりに子どもを意識した語り口であり、食いつきは悪くない。なんとか、読破させてやりたく思っている。
今のうち、これだけの一貫したストーリーを読んでおくなら、本について恐いものなしにもなることだろう。
こっちも付き合いで、拾い読みしかしていなかった、B.ラッセルの「西洋哲学史」をもう少し真面目に読むことにした。「ソフィーの世界」に、エピソードとか、解説を付けるうえで役立つこともあるだろう。
余談だが、今日トイレで読んだ部分は、ローマ帝国の崩壊のあたり。これ、他人事ではないよ、まだ、アメリカの政府機関の多くの部分が停止したままだろう。アメリカ中心の秩序が、少しづつ崩壊に向きつつある。こんなときだから、しっかり考える習慣を鍛える。それは多分変化に適応するうえで有効だ。

子どもとの会話 論理階系をずらす

(久しぶりにシリーズ再会)
娘:おとーさん、超能力を一つ使えるようになるとしたら、どんな超能力がいい?
やれやれ、”斉木楠雄のΨ難”見すぎだよ
私:超能力を無効化する超能力!
娘:こわっ!
ところで、
新聞で読んだ。天才少年が人工知能の開発に関わる話だ。
人工知能が、天才が関わらなくてもより高度化していく傾向に変わりはない。
産業的利権が関わっているからだ。
”天才”と呼ばれる人たちは、これを加速するだけである。
単純にいえば、できなかったことを、できるようにしていく。より早く、できるようにしていく。
で、その先に、何があるか?
こういった月並みな”天才”、というのも変だが、もっと面白い天才が現れないかな?
人工知能・AIの効果を無効化する天才とか。
とてもイメージできないが、だから本当の天才なんだ。
PS:先の私の答えは、あとで考えてみたところ、藤崎竜の封神演義、老子のパオペエがネタ元だったかも。

A.E.ハウスマンの詩集 シュロップシャーの若者 から

秋が深まってきたので、しっとりと心に沁みる詩をご紹介したい。
...
From far,from eve and morning
And yon twelve-winded sky,
The stuff of life to knit me
Blew hither; here am I.
...
Now-for a breath I tarry
Nor yet disperse apart-
Take my hand quick and tell me,
What have you in your heart.
...
Speak now,and I will answer;
How shall I help you,say;
Ere to the wind's twelve quarters
I take my endless way.
...
私なりに解釈すれば、
wind's twelve quarters、/この十二方位の風とは神秘的だが、神様ではない。
一時も休まず変化を続ける宇宙の原理の描写だ。この風が万物を織りなしている。
東洋の思想として、一番近いものは、「造化」だろう。
そして、私たちの心ある出会いは、その中の一期一会である。
...
このような訳がある。
遥か彼方から、夕べの方、朝の方から
 十二方位の風ふきめぐらす彼方の空から、
私を織りなす生命のもとが、
 ここへ吹き寄せた、私は今、ここにある。
...
さあ-----一息の間、私はとどまる
 まだちりぢりにならずに----
疾く私の手をとり語りたまえ、
 君の心のうちを。
...
さあ話したまえ、私が答えよう、
 君の助けとなるように、さあ、
風の吹きめぐりゆく十二の方位へ
 果てしない道へ私が旅立たぬまに。
...
****************************************
小尾芙佐他訳
風の十二方位 早川書房刊
アーシュラ・ル・グインの小説集冒頭から

アニミズムについて その1 ぬいぐるみと刀剣

子連れで女子高の文化祭に行ったりする。ゲームの企画があったりすると、その景品としてやたらにぬいぐるみが多かったりする。
子ども的には、うれしいものだが、親的には、続々増加するので勘弁、という気持ちもある。
おまけに、アニメの「トイストーリー」、このせいでどれだけ人型・動物型玩具のリサイクルが推進されたのだろう。
馴染みのぬいぐるみを捨てるに忍びず、せめて景品として新しい持ち主にもらってもらう、この乙女心は理解可能だ。
命のない物体に命や精神性を感じる、これがアニミズム。
一方で、個々の刀剣の精神性に魅入られるおじさんもいる。
これもアニミズムの範疇だと思う。
アニミズムは、人とその文化を深く理解するためのキーワードだ。
こんなわけで、この概念を掘り下げてみよう。

多言語の学び方 その2 英語の偏重

司馬遼太郎の受け売りだが、福沢諭吉は、英語の必要性を自覚し、「英語が少しできる」幕臣のもとへ、その出勤前の時間に教えを受けるため、夜明け前、文字通りの野原であった秋葉原を駆け抜け通い続けたという。
西南戦争に参加した薩摩の若者たちは、自らの命とともに英単語帳も散らして死んでいった。
そして、明治維新から150年。
昨日の日経新聞には、3割の公立小学校で、英語授業を2020年度の本格導入前に増やしているとされる。
このように、今でも、数ある外国語の中で、英語だけが突出した重要視をされている。
これからの社会は、そこまで英語中心になっていくのだろうか?
実利的にも根拠はあるのか?
東京23区に入ると外国語の会話を聞く機会の多さに驚くが、中国語の割合は英語を凌駕していると実感する。
それは、経済のデータにも合致する。
どこの国が好きかって?そんな問題ではないだろう。
薩摩の若者は、その志のための必要性として英語を学んだはずだ。
ドライに語学は手段と考えるならば、外国語学習は、もっと多様な選択があった方がいい。その方が、国益にもかなうと感じる。
ついでに、小学生の親として言おう。
最近の小学校はやること多すぎである。
自身のころと比べ、複雑で過密なスケジュールになっているようだ。
確かに、時代に合わせた課題があり、教育も対応する必要性があるとしても、これが累積していくのではないか。
国語力の低下が深刻、といった話は新しいが、すると”試み”が始まるだろう。
単純にいえば、足し算ばかりで、引き算をしない。
教師は疲弊し、親も巻き込まれる、、、
長くなるので、今日はこのへんで。



ショーペンハウアーのまんが化(幸福について)

実に小気味よい。新聞の書籍広告でこのことを知った。
今時、これぞという出版である。
この哲学者を知らない方は、写真を検索してみることをお勧めする。
そのまま劇画になる毒気にみちた偏屈爺、顔が思想を語っている。
思えば、アドラー、ニーチェも流行ったけれど、ついにボスキャラ登場といった具合。
書店山積みの、「君たちはどう生きるか」はどうかって?
真面目すぎ。
優等生より、高度に知的なひねくれ者が大切なことを教えてくれてくれたりする。
自由になりたきゃ、孤独になれ。
学んだことをすべて憶えていようなんて、食べてウンコしないのと同じだ。
世界とは願望が作り出す幻のようなものだ。
こんな発想の人。
では、この人の晩年はどうだったか?
生活保護で孤独死、、、3月後発見とか?
たしか、ニーチェは、狂死だったけど(梅毒の末期)、哲学者ってこんなもの?
答、、、
彼の説く、人生のむなしさがバカ受けとなり、
ドイツ社交会の花形ゲスト待遇。
礼賛の言葉の中で美食三昧、パーティの席上では、余興として、自身で華麗なフルート演奏をしてましたとさ。
なかなかまねのできないことだけど、覚えておこう。
”極めれば道あり”と。
PS
そうだ、来週の仕事上の飲み会だが、やっぱ、やめよう。
くそおもしろくもない、おじさん、じいさんの相手なんてまっぴらだ。
よし、これで、人生(2時間と少し)と飲み代を取り戻すことができた!
哲学は役に立つ。

多言語の学び方 その1 クセージュの気持ち

最近、多言語をテーマにした講演の機会があったので、この資料を基に、少し広げて書いてみる。
まずは、心がけから。
Que sais-je?/私は何をしっていよう?
あのモンテーニュが言うので、重みがある。
素直な開き直りの気持ちが大切だ。
特に、学び始めの段階は、結構、人目が気になったりするだろう。
言葉上、赤ちゃんレベルの自分に向きあう必要がある。
それに、ベタで地道な作業になる。
想像してみよう、車内とか、みなさんスマホをほじっているのが当然の状況で、単語帳やテキストを片手につぶやく自分を。
スマホの画面を眺めているようにはいかない。読んで、書いてみて、整理して、つぶやいて、忘れて、また同じことを積み重ねていく孤独な作業が続く。
うちの子が、九九を単語帳で覚えているとき、グダグダ言うので、自分の単語帳を見せてやったことがある。
「おとーさんもやってんだぁ!」
すると、「ヒェー!!」と応えてよい子になった。よしよし。
それにしても、世の中グローバルで、これから英語ができなきゃならない大変だぁ!
って日経新聞を読んでいると追い詰められそうに感じるが、電車の中で英語の勉強してる人さえまれだ。これが現実である。
というわけで、「とにかく、人に同調する」、この日本らしい処世術に逆らって、空き時間には、孤独な作業、動詞の変化形を憶えるとかする。
でも、少しでも同志がいたらいいかな、、、

植松被告と天網工程

NHKがあの植松被告にインタビューして、その主張をテレビ報道した。
 
ところで、この大量殺人犯は、一種の思想犯である。思想といっても、雑な思い込みレベルなのだが、自身の思い入れが報道されることは、本人にとって願ったりかなったりだろう。本人逮捕時のあの高揚した様子を考えてほしい。
 
もちろん、「それはとんでもないこと」である旨の関係者のインタビューが続いていた。その要旨は、障害者の人権思想の必要性と理解している。
また、僕としてもそれはそれで重要と考える。
 
ただ、あくまで一般論として、社会的に認められた価値判断があり、かつ絶対的に正しいとされ、個人の頭の中まで詮索し、誤った考えをあぶり出してやろうとする風潮があるとすれば、いやだな、と感じる。これが国家事業として推進されている実例もある。
 
今中国では、人工知能とインターネットの発展を基に、14億人を監視するシステムが稼働中だそうだ。それは日に日に精度を増しつつある。
犯罪者の摘発には効果大だが、政治の在り方を見る限り、その本領の発揮は、”正しい思想”を持たない人物の特定にあるといってもいい。
なんて書くと、この文章は、中国から閲覧できなくなるわけだ。
 
 
 
 

道徳教育について その2 教科化

小中学校で道徳教育が教科化されるそうだ。すると、道徳にも成績が評価されることになる。
一般の教科のように、明確な内容が体系化されていればよいのだろうが、道徳は、基本的に、知識ではなく価値観や生活態度の問題なのでかなり異質な科目である。
評価の表現方法は、それなりにあるだろうけれど、現場の混乱と苦悩が予想される。
 
ところで、道徳=徳を高める道、って古代哲学からの課題なのだが、額面どおりに考えれば、とんでもない深見に陥ることだろう。おまけに”価値観が多様化”している(その割にあれはダメ、これもダメってむきになっていないか)?ご時世なのだから。
 
とはいえ、背景は、いじめ対策(をした形を残すこと)が主眼のようであるし、とりあえず無難に対処する日本的手法が生かされることだろう。
 
が、ソクラテスならこういうはず。
「学校で徳を学ぶことができるって?ならば、教える者は、徳とは何かを知っているはずだ。では、聴こう。」
大丈夫、こんなクレームないから。
 
でも、これって中学なら高校受験の内申に直結するのですか?いじめ行為認定→受験不利?
派生的に、
いじめ行為を不適切に認定され、内申が不利になり高校不合格になった→行政訴訟、なんてことはありうるのかな?で、先生が証人として、法廷へ?
 
 
 

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