思想

アニミズムについて その1 ぬいぐるみと刀剣

子連れで女子高の文化祭に行ったりする。ゲームの企画があったりすると、その景品としてやたらにぬいぐるみが多かったりする。
子ども的には、うれしいものだが、親的には、続々増加するので勘弁、という気持ちもある。
おまけに、アニメの「トイストーリー」、このせいでどれだけ人型・動物型玩具のリサイクルが推進されたのだろう。
馴染みのぬいぐるみを捨てるに忍びず、せめて景品として新しい持ち主にもらってもらう、この乙女心は理解可能だ。
命のない物体に命や精神性を感じる、これがアニミズム。
一方で、個々の刀剣の精神性に魅入られるおじさんもいる。
これもアニミズムの範疇だと思う。
アニミズムは、人とその文化を深く理解するためのキーワードだ。
こんなわけで、この概念を掘り下げてみよう。

多言語の学び方 その2 英語の偏重

司馬遼太郎の受け売りだが、福沢諭吉は、英語の必要性を自覚し、「英語が少しできる」幕臣のもとへ、その出勤前の時間に教えを受けるため、夜明け前、文字通りの野原であった秋葉原を駆け抜け通い続けたという。
西南戦争に参加した薩摩の若者たちは、自らの命とともに英単語帳も散らして死んでいった。
そして、明治維新から150年。
昨日の日経新聞には、3割の公立小学校で、英語授業を2020年度の本格導入前に増やしているとされる。
このように、今でも、数ある外国語の中で、英語だけが突出した重要視をされている。
これからの社会は、そこまで英語中心になっていくのだろうか?
実利的にも根拠はあるのか?
東京23区に入ると外国語の会話を聞く機会の多さに驚くが、中国語の割合は英語を凌駕していると実感する。
それは、経済のデータにも合致する。
どこの国が好きかって?そんな問題ではないだろう。
薩摩の若者は、その志のための必要性として英語を学んだはずだ。
ドライに語学は手段と考えるならば、外国語学習は、もっと多様な選択があった方がいい。その方が、国益にもかなうと感じる。
ついでに、小学生の親として言おう。
最近の小学校はやること多すぎである。
自身のころと比べ、複雑で過密なスケジュールになっているようだ。
確かに、時代に合わせた課題があり、教育も対応する必要性があるとしても、これが累積していくのではないか。
国語力の低下が深刻、といった話は新しいが、すると”試み”が始まるだろう。
単純にいえば、足し算ばかりで、引き算をしない。
教師は疲弊し、親も巻き込まれる、、、
長くなるので、今日はこのへんで。



ショーペンハウアーのまんが化(幸福について)

実に小気味よい。新聞の書籍広告でこのことを知った。
今時、これぞという出版である。
この哲学者を知らない方は、写真を検索してみることをお勧めする。
そのまま劇画になる毒気にみちた偏屈爺、顔が思想を語っている。
思えば、アドラー、ニーチェも流行ったけれど、ついにボスキャラ登場といった具合。
書店山積みの、「君たちはどう生きるか」はどうかって?
真面目すぎ。
優等生より、高度に知的なひねくれ者が大切なことを教えてくれてくれたりする。
自由になりたきゃ、孤独になれ。
学んだことをすべて憶えていようなんて、食べてウンコしないのと同じだ。
世界とは願望が作り出す幻のようなものだ。
こんな発想の人。
では、この人の晩年はどうだったか?
生活保護で孤独死、、、3月後発見とか?
たしか、ニーチェは、狂死だったけど(梅毒の末期)、哲学者ってこんなもの?
答、、、
彼の説く、人生のむなしさがバカ受けとなり、
ドイツ社交会の花形ゲスト待遇。
礼賛の言葉の中で美食三昧、パーティの席上では、余興として、自身で華麗なフルート演奏をしてましたとさ。
なかなかまねのできないことだけど、覚えておこう。
”極めれば道あり”と。
PS
そうだ、来週の仕事上の飲み会だが、やっぱ、やめよう。
くそおもしろくもない、おじさん、じいさんの相手なんてまっぴらだ。
よし、これで、人生(2時間と少し)と飲み代を取り戻すことができた!
哲学は役に立つ。

多言語の学び方 その1 クセージュの気持ち

最近、多言語をテーマにした講演の機会があったので、この資料を基に、少し広げて書いてみる。
まずは、心がけから。
Que sais-je?/私は何をしっていよう?
あのモンテーニュが言うので、重みがある。
素直な開き直りの気持ちが大切だ。
特に、学び始めの段階は、結構、人目が気になったりするだろう。
言葉上、赤ちゃんレベルの自分に向きあう必要がある。
それに、ベタで地道な作業になる。
想像してみよう、車内とか、みなさんスマホをほじっているのが当然の状況で、単語帳やテキストを片手につぶやく自分を。
スマホの画面を眺めているようにはいかない。読んで、書いてみて、整理して、つぶやいて、忘れて、また同じことを積み重ねていく孤独な作業が続く。
うちの子が、九九を単語帳で覚えているとき、グダグダ言うので、自分の単語帳を見せてやったことがある。
「おとーさんもやってんだぁ!」
すると、「ヒェー!!」と応えてよい子になった。よしよし。
それにしても、世の中グローバルで、これから英語ができなきゃならない大変だぁ!
って日経新聞を読んでいると追い詰められそうに感じるが、電車の中で英語の勉強してる人さえまれだ。これが現実である。
というわけで、「とにかく、人に同調する」、この日本らしい処世術に逆らって、空き時間には、孤独な作業、動詞の変化形を憶えるとかする。
でも、少しでも同志がいたらいいかな、、、

植松被告と天網工程

NHKがあの植松被告にインタビューして、その主張をテレビ報道した。
 
ところで、この大量殺人犯は、一種の思想犯である。思想といっても、雑な思い込みレベルなのだが、自身の思い入れが報道されることは、本人にとって願ったりかなったりだろう。本人逮捕時のあの高揚した様子を考えてほしい。
 
もちろん、「それはとんでもないこと」である旨の関係者のインタビューが続いていた。その要旨は、障害者の人権思想の必要性と理解している。
また、僕としてもそれはそれで重要と考える。
 
ただ、あくまで一般論として、社会的に認められた価値判断があり、かつ絶対的に正しいとされ、個人の頭の中まで詮索し、誤った考えをあぶり出してやろうとする風潮があるとすれば、いやだな、と感じる。これが国家事業として推進されている実例もある。
 
今中国では、人工知能とインターネットの発展を基に、14億人を監視するシステムが稼働中だそうだ。それは日に日に精度を増しつつある。
犯罪者の摘発には効果大だが、政治の在り方を見る限り、その本領の発揮は、”正しい思想”を持たない人物の特定にあるといってもいい。
なんて書くと、この文章は、中国から閲覧できなくなるわけだ。
 
 
 
 

道徳教育について その2 教科化

小中学校で道徳教育が教科化されるそうだ。すると、道徳にも成績が評価されることになる。
一般の教科のように、明確な内容が体系化されていればよいのだろうが、道徳は、基本的に、知識ではなく価値観や生活態度の問題なのでかなり異質な科目である。
評価の表現方法は、それなりにあるだろうけれど、現場の混乱と苦悩が予想される。
 
ところで、道徳=徳を高める道、って古代哲学からの課題なのだが、額面どおりに考えれば、とんでもない深見に陥ることだろう。おまけに”価値観が多様化”している(その割にあれはダメ、これもダメってむきになっていないか)?ご時世なのだから。
 
とはいえ、背景は、いじめ対策(をした形を残すこと)が主眼のようであるし、とりあえず無難に対処する日本的手法が生かされることだろう。
 
が、ソクラテスならこういうはず。
「学校で徳を学ぶことができるって?ならば、教える者は、徳とは何かを知っているはずだ。では、聴こう。」
大丈夫、こんなクレームないから。
 
でも、これって中学なら高校受験の内申に直結するのですか?いじめ行為認定→受験不利?
派生的に、
いじめ行為を不適切に認定され、内申が不利になり高校不合格になった→行政訴訟、なんてことはありうるのかな?で、先生が証人として、法廷へ?
 
 
 

道徳教育について その1挨拶の意義

小学生の道徳教育が問題となっているので、このシリーズを始めてみた。
まずは唐突に、フランス語講座の話題。
NHKのラジオ講座なのだが、今期の最初が一ひねりある。
≪Bonjour≫,d'abord,non?/最初は、ボンジュールだろ、え、違うか?(僕の意訳を含む)
この状況は、タクシー利用者が、最初から行先のみを告げる様子に、運転手が応えたもの。
レッスン1は、どんな語学でも挨拶なのだが、こういったガツンとくる始まりは気が利いている。
つまり、社会生活の基本は挨拶なのだ。
そして、その意義は、”相手の存在を認めること”。
反対に、いじめの手口で無視はよくある話だが、その意味で挨拶は道徳教育にも関連する。
大げさに加えていえば、「礼」は、儒教の徳目の一つである。
童謡にあるように、社会性昆虫の”ありさん”だって挨拶する。あれは、「あんまりいそいで」いるわけでなく、彼らなりのコミニュケーションの表現だ。
 
 
 
 
 

ブレードランナーの哲学 その1 プロローグ

思えば、20世紀も終わらないころ、哲学科の1年生に勧められたのがきっかけだ。その本の名前は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。原題もそのまま、「DO ANDROIDS DREAM  OF ELECTRIC SHEEP?」。これを映画化したものが、ブレードランナー。

そもそも小説の類は、あまり読まないのだが、今年の夏、なんだか思い出し、実家の書庫から探しだし電車の中で読んでみた。つまり、買った後、世紀を隔てて初めて読んでみたことになる。

ついでながら、CD(ヴァンゲリスの曲集)も発見したので、映画(旧作の方)の、テーマ曲も聞いたりした。

おもしろややこしく言おう。

過去の”未来の話”を、当時からすれば未来の、”今”に聴いてたらなんとも不思議ななつかしさ。それは、サイバーな電子音楽であり、当時のイメージによる未来風の音楽なのだ。

いつの間にか、最新作の映画も公開されている。なんとも不思議な共時性である。

暗殺者ディートリッヒと北朝鮮

あの件は、全面衝突もありうるし、その場合には日本も無事に済むわけはない。一応、物的、心理的に、できる人なら金融的にも準備が必要だろう。

一方で、意外にあっさり、例のあの人が内部で消される可能性もある。こういうことは、静かに水面下で進行するものだ。それはそれで、何が続いて起きるのか、って不安があるけど。内戦か?

ヒトラーの場合は爆発物との微妙な距離の問題で、軽傷で済んだ。歴史的悪運である。

極めて周到、緻密な計画だった。何しろ、ドイツ国防軍情報部のエリートたちが、関わっていたからだ。名付けて、ワルキューレ作戦。

そこに、ディートリッヒ、ディートリッヒ ボンへッファー/Dietrich Bonhoefferがいた。職業軍人ではない。秘めた志によって組織に迎えられた立場だ。

育ち的には貴公子、21歳で神学博士の学位を得た天才として知られ、現職の牧師であった。現代キリスト教神学入門 W.E.ホーダーン では、一つの章丸ごと彼に充てられているが、彼の思想的な大きさと解釈できるだろう。

彼の思想が、”神の死の神学”と表現されることもある。月並みな信仰の対象としての、神は、彼にとって死んでいたが、あくまで聖書に依拠しながら、彼は、信仰の表現を、生き方そのものに求めたと僕は感じる。この生き方とは、自らの処刑の受け入れ方も含む。

最近、彼の伝記を読んでいると、なんだか北朝鮮問題に目が跳んでしまった。”かもね”、って。

形はどうあれ、その日は来る。僕らも、その成り行きにより生き方の指針が問われるかも知れない。

大人の魔法入門 その3 錬金術

日経平均が、2万円を突破した。この先、大事が無ければ意外と跳ぶかも知れない。すると、強欲な人たち、すなわち、「元本割れ」を恐れ、多額の預金を抱えこんできた人たち株式投資とかを始め、手のひらを返すように、「やっぱり株よ!」とか、錬金術の成果を誇示するようになるだろう。これが社会が妖しい魔法に翻弄されだした兆しの一つである。

このとき錬金術師の必須のアイテム、”賢者の石”があるならば、この石が危険を警告してくれるはずだ。

そもそも、金融とは、社会の制度と人の心が織りなす巨大な魔法空間なのである。

預金が一見安全に見えることも、この魔法の成果、それも強力な成果である。たとえば、株式は、刻々と取引によって価格が変動するわけで、その価格自体にはリアルな根拠がある。一方、預金は、あくまで額面であるが、そのように、制度的に決められたのでそうなのである。

いかに額面が守られたとはいえ、この魔法が、背後から破られる事態は、おおむね2ケースだ。一つは、為替、もう一つは、インフレ・デフレである。

デフレになれば、預金が同じでも、より多くのモノが買える。インフレなら、その反対。

今の日銀は、インフレに誘導しようとしているが、なかなか効果が出ないので、”劇薬魔法”で一気にカタを付けようとする傾向にある。

しかし、インフレに収支がつかなくなるのでは、と、危惧する声も大きい。

かの大日本帝国が崩壊したとき、預金、国債の価値がどうなったか、実感を持っている人は少ない。

世界情勢的に、明日までの日常と今の日常が非連続的であることは、十分にありうる。

日本の財政も深刻だ。前、日銀総裁は、「金融環境は非連続的に変化しうる」と、言葉を残して去っていった。

金融の賢者の石は、こう告げる。

先の見えることは見えないこと

守ることは攻めること

分けるは得るの始まり

破滅は機会

進むは引くの始まり、引くは進むの始まり

魔法にかからないことが、かけること

矛盾を進めば、道ができる

前を見ないで後ろを見て進め

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