スピリチュアル

占いについて その4 占いとは、そして占いの未来の占い

シンプルに考えて、「将来を予測すること」。
では、気象予報士の天気予報とか、遺伝子解析による将来の疾病確率の推定とか、どうなるんだ?
”今では”占いの範疇ではない。理由は単純だ。科学の進歩の結果である、と社会的合意があるから。詳しい仕組みについてはほとんどの人は知らないけど。この点は、占いと大して変わらない。
でも、とりあえず占いとは別枠になる。
では、この先、人工知能の開発が進むと、占い業界は危機になるのだろうか。たとえば、カップルそれぞれのデータを解析し、離婚確率、幸福度の長期変化予測なんてもなされ得るようにもなるだろう。
しかし、僕の予測では、占い業界は安泰である。
社会史的に、20世紀においては、占いとか呪術の類は、科学がそれらを排除していくことが当然とされていた(啓蒙思想)。しかし、21世紀では、むしろ花盛り。インターネット上の占いサービスは、対面型のサービスの限界を超えたアクセスを提供している。また、聞いたこともない占いの開発も進んでいるからだ。
ただし、より人を引き付けるためのマーケティングが人工知能の応用としてなされうるとも思う。
この先、AIが多くの職域を奪っていくことが予測されているが、人類史的に占い師は最古の職業の一つである。結構いけるのでは。
電脳占い師(初音ミクみたいな)ものはありうるけれど、、、。
もうあるのかな。

占いについて その3 手相

うちの子がワンコイン手相占いをしてもらったところ、「徳川家康と同じ特徴があります。波乱万丈の人生となることでしょう。」となった。
解釈論的に、ずいぶん飛躍があるとしても、何らかの内面的なものが”手のしわ”に反映されると考える余地はあろう。というのは、手は最も複雑な動作をする部位なので、その人なりの特性がしわの痕跡として残る可能性があるからだ。
また、それなりの神秘的な解釈論があるとししても、知識の裏付けに依った判断なので、占いとしてはある意味「客観的」なのかもしれない。この点、その一時だけに表現されたカードの構成や霊感とかに頼る占いとは異質に感じる。
手相の傾向を数値化し、性格テストとの結果を統計的に検証するならば、立派な科学論文にはなりうる。
 ついでに、神秘主義一般について述べておこう。人生とその運命とか、マクロなものが、手のひらなどミクロなものに集約されて反映されているといった発想は神秘主義一般にみられる傾向である。

占いについて その2 子どもの教材として

うちの娘が悩む。友達からタロット占いを頼まれたが、結果、あまりに不吉。
対象はピアノの発表会。
どうやって伝えるかと悩んでいる。
そこで、、、うそはやめよう。でも、伝え方が肝心だ。結果は結果としても、本人にとってよいアドバイスであることが大切と教える。
一例として、
「思いがけないトラブルなどあるかもしれない。でも、落ち着いて慎重に弾くことが大切だよ」。
占いってものは、コミニュケーションの様式の一つと思った。
タロットは、試しに与えてみたが、それなりに教材としての価値があるように思う。
結果の解釈ストーリーを創ることなど、抽象的な思考力が必要になる。
また、伝え方には、言語表現力と共感力が問われるわけだ。
自前でクライエントを得ること、それは多くの職業一般にも通じるだろう。
つまり、アクティブラーニングである。

占いについて その1 だれでもできること

特定の人の将来を予見すること、ならだれでもそれなりにできるだろう。
そこそこの社会経験を積んでいる人なら、それなりの経験則を蓄積しているものである。
こういう人は、普通こうなるだろうね、、といった具合。
これをもっと体系的に、統計的な根拠を示すことができれば、科学の領域になる。
これじゃ、占いではないか?
加えて、霊感とか、霊視とか、意味深な技法の習得とか特殊能力をそれらしく表現できればとりあえず占いってことになるだろう。
そこまでいかなくても、こんな例がある。
大学卒業時の集合写真で、暗い表情をしている卒業生の将来について、そうでないものより社会的成功は望めない、って追跡調査結果があったそうだ。
これを卒業写真占いっていってもよい?

子どもたちの魂をこの世につなぎとめるささやかな自然

なんだかアブナイタイトルにしてみた。これは僕なりの危機感の表現だ。

保育園のお友達たちにねだられて、うちの娘が、庭の植物を摘み、プレゼントの包みを作る。そして保育園へ。

包みの中身は、レモンバーム、ローズマリー、日本水仙、少し紅葉したアイビーの葉、フウセンカズラの種(ハートマークが明瞭でかわいい)。

全て生きた自然の対象物で、いくつかは独自の香りを楽しめる代物である。

ささやかなアレンジなのだが、子どもたちはとても興味を持って受け取ってくれるようだ。

そういえば、娘がクリスマス会で髪に差した西洋ヒイラギにも大きなインパクトがあった。

このように、子どもたちが、この世、つまり自然界に、関心をつなぎとめる文化を広めてみたい。

もうすぐこの子どもたちは小学校へと進学する。

いまどきの小学生は、ゲーム機などを通じてサイバー空間に”魂”を封じ込められがち、と僕は解釈している。そこに追い込む力はなかなか強大でもある。

それは事実上必要な経験とも考えるが、行ったきり、では問題だ。文字通りの依存症である。

だから予防策として、娘とともに植物を配る。生まれながらにある豊かな感性を通じて”この世”とつながる楽しみを持ち続けさせるために。

命のつながりについて

今日は、遅めの時間帯で、保育園に行った。うちの娘の同級生たち、つまり本年度3歳の子どもたちと、沢山の挨拶をする機会があった。

若い命と触れ合うことは、実に、気持ちがよい。

この子どもたちは、命の流れの最前線にいる。思いっきりマクロに表現すれば、はるか数億年前、この地球に生まれた生命をこの子どもたちは引き継いでいる。

途方もない話だが、進化論に従えば、真実である。

命とは、バトンリレーのようにつながっていく。というと、のどかだが、走者はいずれ交代する。実際のバトンリレーでは、バトンの受け渡しは一瞬のタイミングでしかない。この一瞬のタイミングとは、子どもとこの世にいられる時間のことである。

人間の経験尺度を越えた、長い生命の流れの中でみれば、確かにそれは、一瞬である。

日日是好日 困難に向き合う言葉として

今年の夏休みは宮古島へ行った。ところが、台風が2つ接近中。事なきを得たが、泊まったホテルの部屋には、この言葉、渋い禅語があった。実際、好日続きであった。

現在、東京へも台風が接近中。もうすぐ暴風雨か?そこでこの言葉を再び思い出す。

雨風、洪水をしのぐ安全な場所があればとりあえず問題ないが、生きてればどんな災厄があるか分からない。けど、この言葉は、いわば、人生の絶対肯定を求めている。考え様によっては、とても厳しい言葉である。

たとえば、「なんで自分が!」なんてことは、いろいろあるけれど、誰かを恨んだり、自分を責めたり、現実回避の方策を思案しても始まらない。理不尽なことや、不運を正面から受け止め、乗り越えろ。この言葉は、そんなメッセージを含んでいると思う。

ただし、がむしゃらだったら、このテイストに外れるだろう。禅語だし。もっとスマート。

現実にうろたえず、耐えられないものも耐え、黙々と今できるなすべきことをなす。その姿は、清清しさを感じる、、、禅的にはこんな境地なのだろうね。

禅と子育て、イクメンは修行である

うちの娘は、オムツ外れ一歩前だが、昨夜は久しぶりにウンチによるオムツ交換を実施した。ほとんど、懐かしい作務である。娘もいつになく、神妙、、。

今、作務と表現してみた。作務とは、禅的な言葉だ。なぜって、禅では日常生活に伴う諸般の雑務を修行の一環として考えている。

禅といえば、道元。この人、教科書的にはひたすら座禅をすることを薦めたとされているが、一方では、日々の生活すべてが禅であるとも言っている(行住坐臥)。つまり、あたり前の日常をまっとうすること自体、正しい”道”というわけだ。

残念ながら、道元が子育ての作法を語っている形跡はないと思う。けど、これほどヒューマンな日常作業が、修行の対象にできないわけはないだろう。

ある意味、子育ては苦役である。新生児なら、夜昼かまわずオムツ替えやら、ミルクの調合なんかで忙殺される。明日は仕事だ勘弁してくれって感じ。

でも、人が人を育てることは、本当に人間の基本的な行為だといっていい。親としても、初めて親になったのならなおさら、人としての成長の機会にもなりうる。つまり、修行である。

昨今の風潮によれば、終身雇用に期待するなど、時代遅れで、一生仕事のスキルを高めましょうって、それはそれでいいけど、産業に期待された労働生産性の向上、だけが人間生活のすべてではない。

かの、道元。エリート修行僧だったから、海外留学もできたわけだが、そこで大きな転機を経験している。

それは、食事係の老僧との出会いだ。若い道元にとっては、スゴイ教理とか、カッコイイ座禅修行にあこがれていただろうけど、この老僧との出会いから、男のクッキングも崇高な修行になりうると悟った。そして、やがて本当に悟ったとされる。

ぼくは、この逸話が大好きである。

登山とスピリチュアル 高尾山エピソード

まだ夏なので、もう少し夏物を書いてみよう。テーマは登山。忘れてはいけない。日本は、先進国の中で、(多分)最も登山が身近にできる国なのだ。登山には、近代的な登山もあれば、伝統的な登山もある。

東京のスーパー観光地。ミシュランのお墨付きの高尾山に登ったら登山か?ケーブルカーとか使って、ビアガーデンで楽しんだら、該当しないだろうけど、ここは特別な山ではある。

なぜって、本来、修験道の聖地だから。あるとき、高尾山の裏ルート(蛇滝コース)から登ったことがある。中腹を越えると、何やら、女性の絶叫が聞こえた、、って、これは事件ではない。よく聞くと、それは般若心経であった!

つまり、滝に打たれて修行中の人だった。高尾山は、スーパー観光地なのだけれど、こういった本来の営みも続けられている。

いわゆる(本格的な)登山は、西洋の文化である。明治以降に導入されたものだ。モダンな文化といってもいい。

山とは、山にもよるが、本来神聖なもので、わざわざ行く奴なんてカタギではなかった。修行僧とか、修験者とか、あっちの世界の人たちの世界と認識されていた。これは、民俗学の見地である。

かの、源義経も、山の中で預けられて(剣術指南は天狗とされる)日本史上のヒーローになれたし、空海だってその筋の勢力が背後にあったとされる。

さらに、高尾山エピソード。あるとき、夕暮れ近く。下山途中の山道(琵琶滝コース)で、ハイヒール履き、ワンピース姿のファッショナブルな女性(大丈夫か!)に道を尋ねられた。

山の中にいれば「山ガール」というわけではない(実感、、)。いわく、「これからお祓いをしてもらいに行きます、お寺はこっちの道でしょうか」。

「もうすぐ日が暮れますから、後日の方がいいかと、、云々」。合理的な説得を試みたが、行ってしまった。

お祓いって、、改めて、普通の山ではないことを実感。

大震災とエピソード 思い出探し隊

自宅の瓦礫の中から何を探すか?多くの人が家族のアルバムを探している。また、「思い出探し隊」など、ボランティア活動として、これを支援する人たちもいる。

町、村ごと物理的に壊滅するような事態は、個人のまとまりのある経験世界の崩壊でもある。その後は、現実味を失った混沌とした安住できない世界が広がっている。「現象学的社会学」の視点では、このような記述になるだろう。

人は、それぞれ自分の世界を持っていて、その中で、自分の位置を確認しながら生きている。しかし、この”世界”が壊れてしまうと、生きる指針を見失ってしまう。いきなり、「罹災者」ってラベルを貼られてもそれだけでは、困る。

このラベルがあれば、とりあえず衣食住を確保する契機とはなるが、現実感のある自分の経験世界を立て直すことにはならない。

この点、家族を含めたアルバムは強力なツールになる。過去は、変えられない。だからリアル。瓦礫の山を見ても、自分が何者であるかの、手がかりはないけれど、アルバムを確認すれば明確だ。

その中には、亡くなった人たちもいるだろう。家族なら、今の自分への、”リアル”なメッセージを聴く事ができるはず。このメッセージは、恐るべき、認容しがたい現実に対抗しうる手段の一つ。

思い出探し隊って、いい仕事しているなあ。

あなたたちは、罹災者に慰めを提供しているだけでなく、その心の中に社会的現実感を回復させ、さらには、社会生活の再構築に向けた、心理的基盤を補強している。

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