民俗学

キツネとタヌキと東京五輪

東京五輪のマスコットとして、キツネとタヌキが、ロボット系に圧勝されてしまった。
残念だが、まあ、そうか、、
ところで、改めて思うけれど、日本では、妖怪的な意味で、キツネとタヌキは圧倒的な重み持っている。
たとえば、多くの市町村で、地域の民間伝承をまとめた刊行物が発行されているが、これらにちなむ話は実に多い。
彼らは、海外に向け日本らしさを表現するうえで、この件にもめげず大いに活用してもらいたいキャラクターだと思う。

奥三河 田峯田楽レポートと小学校のこと

伝承のとおり雪が降った。雪と炎の祭典は、杉の巨木が立ち並ぶ中、一つの鐘の音とともにしめやかに幕を閉じた。
 
観音様も気が利いている。降雪の程度が心配だったが、翌日の自動車の運転には支障がなかった。雪の降る中で山を下り、新城市までくれば雪がないどころかもう晴れていた。
都合により早めの出発だったので、翌日の奉納歌舞伎を観ることはできなかったが、盛況だったと思う。豊橋の駅には、バスツアーのパンプレットがあるほどだから。
 
中世以来(1559年~)の伝統の中で新しいこともあった。田楽の中で使われる聖なる捧げもの「べらべら餅」が、一般向けに商品化されたことだ。これは、駐車場脇の売店で見つけた。ついでに言えば、ジビエ食材の販売も最近のことだ。
 
ただ、気がかりなのは、歌舞伎の主役である田峯小学校の生徒の数が少なくなっていることだ。そのため、演目数も切り詰めていると聞いた。恒例だった生徒による海外公演もなくなったそうだ。
 
ところで今話題の伝統あるブランド小学校といえば、イタリアの高級ブランドを制服にした例の銀座の小学校。制服の値段はさておき、セレブ趣味の満喫ではなく誇りをもって通学するならその意義は認めうる。
 
一方、田峯小学校の誇りとは、何かといえば朴訥な「義」である。
そもそもこの奉納歌舞伎とは、360年前、村を救ってくれた観音様との盟約による(そして田楽に歌舞伎が加わった)。
また、この小学校に展示されているアメリカ人形「グレース」も義によってここにある。
 
 
 
 
 
 

お正月とアンドロイド

新年が始まってしばらく経った。お正月とはいつまでか、換算の仕方はいろいろあるけれど、俗な時間ではなくて、ハレの神聖な時間を過ごすというのが、お正月ってものだろう。だから成人式もこの時期に関連していると思う。
こういった神聖な感覚、今ではずいぶん低下しているが、高度に人間的な心の作用であろう。
人工知能が、囲碁、将棋の名人を打ち負かすとしても、自動車が人より速いことと別な次元なのか?いや、自己学習できることがスゴイってわけか?
いずれにせよ、人工知能を搭載したアンドロイドが人に近づくことには間違いない。
つまり、機械に心が生まれつつある?
 
しかし、演算で可能な領域とは別に、神聖さや、超越的なものへの畏敬の念はどうだろう。
突飛なようだが、プラトンがそのお話でソクラテスに語らせたイデアも、まさにこういった次元の問題である。
 
プラトンは、次元の異なるあっちの世界を常に畏敬をもって意識していた。たとえていえば、プラトンにとって人間の頭脳とは、この世のもでない世界に通じる一種の通信器のようなものである。
とすれば、いくら自己学習能力を高めたとしても、アンドロイドの人間化には、ここに大きな壁があるだろう。
 
AIが、人間への脅威となるって話もある。が、僕的には、人間が高度な感性を失い効率優先の機械化していくことも脅威である。
 
ごく卑近な話だが、成人式用の着物あつらえ業者が、多額の前払い金とともに失踪し、数百人を途方に暮れさせ、なぜか大量の着物がメルカリで売られていた。
ハレの舞台を台無しにされた数百人の心に共感性を持ちえなかったわけだが、メルカリ出品を関連づけるとすれば、収益的に高度な演算能力は持ちえたようだ。
 
ついでにいえば、”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”に描かれたアンドロイドと人間との違いは、まさにこれである。
 
 
 
 

お盆について その2 祖霊の訪問と疑問点

東京は、いわば移民の大集落みたいなものなので、新暦の7月のお盆もあるし、旧暦の8月のお盆もある。

今日の朝、出勤途中のとある家の門口に、ナスとキュウリの馬を見ることができた。この時期だから旧暦なのだが、この馬には蕎麦が乗せられていた。これは、僕の知らない風習だ。どこの地方の風習なのだろう。

さて、祖霊(精霊、しょうりょう)を迎える、送ることがお盆の本旨のようだが、どこから彼らは来るのか、この点は微妙である。というか、理屈では整理されていない。

家の仏壇は、ご先祖のお盆滞在施設なのか、だとしたら、留守である平時に、手を合わせているのは、意味がないのか?

墓って、何だ?ご先祖は普段ここにいて、お盆になると、元の家に戻るのか?

お盆になると、地底の地獄の釜の蓋が開く音がするって伝承がある。お気の毒に、ご先祖は普段地獄にいるのか?

そもそも、人を成仏させあの世に送ることが世俗的な仏教の本旨じゃないか?だったら、毎年お迎えするのは、成仏できていないってことか、これはお寺の怠慢じゃないか?

靖国神社に英霊として祀られている人は、お盆に際し、どんな具合にイメージしたらよいのか?神仏の二重の立場があるのか。

なんて具合に、素直になるほど、疑問が湧いてくる。この点は、素直に、真っすぐ日本の文化を理解しようとした、小泉八雲=ラフカディオ ハーンの著作にもある。

お盆について その1 祖霊信仰

8月13日の午前中だよね、和尚さんくるのは?って心配になり、実家の方の寺に電話して確認する。

この時期、お寺は大忙しで、去年なんか、朝の6時にいらっしゃった。

とはいえ、お盆=仏事、これは微妙な問題である。

理屈は後にして、結論をいえば、まず日本には祖霊信仰が基本にあって、表現の仕方として、神道の形をとったり仏教の形をとったりする。

そもそもの祖霊信仰の原型が残る地域は、西南諸島だ。知れば知るほど興味が湧いてくる、と僕は感じる。

西南諸島の端っこ、宮古島あたりでは、寺自体がほとんどない。でも、ご先祖はとても大切に扱われている。

祖霊ってキーワードを元に、日本の文化を見直してみたいので、柳田國男を読んだりしている。

これは、国際化の時代の中でも必要なことだ。たとえば、「日本人にとって、仏教と神道の関係って一体どうなってるの?」と、外国人に質問されたらどう答える?

労働の民俗学 PTAが田植えする光景

子どもが小学校に入学する(当然の義務教育)と、当然に、PTAに加入となる(法律論では任意のはずだが?)。

そして、PTAからいろいろ役務を申し渡される。

その役務として田植えもあった。

昔ながらの村社会で、伝統行事とかあって、住民がそれなりに労力を提供する。って、それは正しい風習と僕は思う。しかし、、、。

みなさん、言っておくけどここ東京の市街地だよ!

PTAとは、戦後アメリカから導入された、”民主的”で”近代的”な、制度のはずだが、相当に日本的にローカライズされていると考える。悪くいうと形骸化した村社会の受け皿にもなっている。

昨年は、PTAの当番で田植えをした。このとき、ドイツ人がうちに滞在していたが、この光景は不思議に思ったようだ。「これって義務なの?」

この労働を説明することはなかなか難しい。

法令に基づいた公の制度の枠の外の出来事なのだから。

でも民俗学の視点からは明快だ。これは、村落共同体の儀式である!

思うのだけど、田植えに関わらずPTAとはとても土俗的な組織だ。

個人的感想では、田植え体験そのものはいいものだけど、先祖伝来の村でもないのに、労働奉仕ってのは、違和感がある。

ひな祭りと呪術

今日のグーグルのトップページは、流し雛。雛壇のお雛様ではない。凝ってるね。

流し雛の方がずっと古い形態らしい。そしてその本来の意味は、呪術といってもいい。

人形って近代的には、かわいがるものだけれど、呪術では、身代わりだ。女の子の健やかな成長を願い(これは今も同じだけれど)、その身に降りかかる災厄をこっちにそらせて流してしまおうとする儀式だ。

もう一つ呪術的な要点といえば、水。日本の伝統的な儀式として穢れを祓う水のイメージはとても重要だろう。

ひな祭りを説明する英文にこんなものがあった、「water purifitice ritual」/水で穢れを落とす儀式。本質を突いた表現と思う。

人形をにんぎょう、と読めば、英語のdoll に相当するが、ひとがた、と読むとサイキックな意味合いがある。英語なら、figurine か。

いずれにせよ、お雛様は、しかるべく正しく扱おう。

幼児が仏壇に感じること

あれはうちの娘が2歳のころだったか、実家に帰ったときのことだ。仏壇の扉が、まさに観音開きに開いていたのだが、娘は、その前でおびえたように中を凝視し、固まっている。

「大丈夫だよ、おじいちゃんとか、ほかにもいろいろいるかも知れないけれど、みんなお前を護ってくれるひとたちだよ」、と教えで抱きかかえてやった。

何が見えたかは知らないが、子どもにしか見えないものがあるという伝承は(あのトトロもその筋の話だ)、古来ある。幼いときほど、あっちの世界に近いという理屈だ。

そしてこの春、実家で法事があったとき、娘は、「おじいちゃんに手紙を書いたよ」と、祖父の遺影の前に手紙を添えた。内容は、「おじいちゃんだいすき」だった。

娘と祖父の命が重なった期間は、1月しかなかった。だから、娘はささやかな埋め合わせをしたのだろう。

今回、実家に帰ったら、真っ先に「なむなむするー」という。線香を立て、手を合わせるだけでなく、木魚をボカボカやりだした。

そこまでやるなら、フルコースもいいだろう。

なので、般若心経を読ませてみた。これ、全部ひらがなのルビつきなのでこの保育園児でも読める。これで、一人でボーカルと伴奏でき、それなりの仏門デビューとなった。

が、娘はさらに要求する。「これってどうゆう意味の言葉?」って、それはお経(中身)である。

いきなり保育園児に般若心経(=古代インド哲学)の解釈か、、、

適当に、「むかーし、むかーし、シャーリープトラって人がいました。この人が教えてもらったんだよ。この世界の本当のこと、そうすると心がとっても自由になるんだ、、」とかなんとか、、、。

ピュアな心であるほど、仏壇っておもしろいのだ。

自然災害と民俗学、ゲニウス・ロキの声を聴く感性

民俗学の素養が、少しは役に立つかも知れないという話。たとえば、貴方の住む場所を選ぶ場合とか。

民俗学をかじると、その土地を歴史的に掘り下げてみようとする気になる。その場合、地名や寺社仏閣、祠や石碑などが参考になるだろう。植生、植栽も意味も大きい。それらは皆、過去の住人たちの語りかける声、魂の残留物である。

先の大震災で劇的なことがあった。古い石碑が大津波の到達点を示し、より低い場所に家を建てることを警告していたが、これが多くの人命を救ったそうだ。

ある大きな川のほとりに、水神の祠を見つけたことがある。水神の祠の意味は両義的だ。水源への感謝の意味もあれば、水害のないことを願う(事実あったからそこまでして願うのである)意味もある。それは、その場所を見れば、「やはり!」と感じることだろう。

新しい地名も気になる点だ。もともと人の住む地域でなかった可能性がある。なぜ住まなかったのか?

それとも、わざわざ変えたとしたらどうして変えたのか?元の地名を見て、これも、「やはり!」だったりする。

民俗学は、人の言葉を真摯に聴くことが技法(この場合、不動産屋さんは利害関係ありすぎだが)。住居表記には出なくても、昔からの俗称は公的なものより重要な土地情報だったりする。

考古学の範疇にも関わるが、今も人が住み、かつ古い住居の遺跡のある場所は原則望ましい。単純にいって、安定して人が住み続ける環境があった証拠である。生活が不便であった昔の人ほど、住まい選びは慎重だったのである。無理な造成もしない。

気候が異常だ、というより異常が普通になりつつある。十分に安全を考慮したはずの土木工法が災害に追いつかない様子じゃないかな。こんなときほど、古い言葉にこだわる民俗学である。

カッコよく表現しよう。「ゲニウス・ロキ/Genius Loci(地霊)の声を聴け」。GPSの機能を拡張しスマホでも聴けたらよいのだけどね。

ショウリョウバッタとお盆

旧盆が過ぎて、また首都圏には人が戻ってきた。最近の傾向では、帰省組は減少しつつあるそうだ。そして、遅ればせながら、あと一つお盆ネタ。

子どものときからずっと気になっていた。ショウリョウバッタの”ショウリョウ”って何だ?トノサマバッタなら、その大きさからしても、バッタの殿様級というのはわかる。

最近知った。ショウリョウ=精霊だ。つまり、お盆に帰ってくる魂。なんとも、スピリチュアルである。何か見えてきそう?

イネ科の植物が大好きだから、当然稲も食べる。稲作文化の中では害虫として敵視されかねないが、この神聖な名前は別格である。同じバッタ仲間でも、イナゴなんて佃煮の素材扱いだ。

ところで、お盆には、ナスとかに足を4本付けて、精霊を迎える習わしがある。つまり、精霊さんたちの乗り物に見立てているわけだ。

これのバッタバージョンが、ショウリョウバッタではないのかな。ウキペディアでは、「精霊舟」にこのバッタを見立てたとあるけれど、そのまま乗っていただく方が自然。

ショウリョウバッタといえば、オスメスのサイズの差が著しい。また、移動力も全然違う。

オスは小さくて、飛行力に優れているけれど、メスはかわいそうなほど鈍重だ。でも、大きくて乗り心地はこっちの方がよさそう。あのドタッ、ドタッて跳び方、何かを乗せているように見えないか。

昔の人は、お迎えする精霊を小さなものとイメージしたらしい。ナスとか、バッタに乗れるくらいに。これ、西洋の妖精画みたいで、コミカルで楽しい。お盆は、小さな家族が増えるイメージかも。

これとは別に、この季節、テレビ番組の心霊モノの季節でもあるけれど、この手の恐ろしい悪霊のイメージもまたある。

じゃ、この違いはなんだろう。

日本の伝統文化では、あの手この手で死者を鎮魂してきたわけだけれど、この重厚な文化もほころびつつあるのだろうね。手厚く迎えられる精霊が悪霊になるわけはない。一方、無縁仏なんて伝統生活の脅威であった。

だから、旧態依然として続けるべき、とはいわないが、死と向き合う文化はそれなりに必要だとは思うし、新しい形があってもいい。

この題材はあまりに大きいので今日はこのくらいで。

ともあれ、この時期、ショウリョウバッタを見つけたら好きに行かせてあげよう。それは、魂の循環の途上にあるのかも知れないのだから。

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