民俗学

労働の民俗学 PTAが田植えする光景

子どもが小学校に入学する(当然の義務教育)と、当然に、PTAに加入となる(法律論では任意のはずだが?)。

そして、PTAからいろいろ役務を申し渡される。

その役務として田植えもあった。

昔ながらの村社会で、伝統行事とかあって、住民がそれなりに労力を提供する。って、それは正しい風習と僕は思う。しかし、、、。

みなさん、言っておくけどここ東京の市街地だよ!

PTAとは、戦後アメリカから導入された、”民主的”で”近代的”な、制度のはずだが、相当に日本的にローカライズされていると考える。悪くいうと形骸化した村社会の受け皿にもなっている。

昨年は、PTAの当番で田植えをした。このとき、ドイツ人がうちに滞在していたが、この光景は不思議に思ったようだ。「これって義務なの?」

この労働を説明することはなかなか難しい。

法令に基づいた公の制度の枠の外の出来事なのだから。

でも民俗学の視点からは明快だ。これは、村落共同体の儀式である!

思うのだけど、田植えに関わらずPTAとはとても土俗的な組織だ。

個人的感想では、田植え体験そのものはいいものだけど、先祖伝来の村でもないのに、労働奉仕ってのは、違和感がある。

ひな祭りと呪術

今日のグーグルのトップページは、流し雛。雛壇のお雛様ではない。凝ってるね。

流し雛の方がずっと古い形態らしい。そしてその本来の意味は、呪術といってもいい。

人形って近代的には、かわいがるものだけれど、呪術では、身代わりだ。女の子の健やかな成長を願い(これは今も同じだけれど)、その身に降りかかる災厄をこっちにそらせて流してしまおうとする儀式だ。

もう一つ呪術的な要点といえば、水。日本の伝統的な儀式として穢れを祓う水のイメージはとても重要だろう。

ひな祭りを説明する英文にこんなものがあった、「water purifitice ritual」/水で穢れを落とす儀式。本質を突いた表現と思う。

人形をにんぎょう、と読めば、英語のdoll に相当するが、ひとがた、と読むとサイキックな意味合いがある。英語なら、figurine か。

いずれにせよ、お雛様は、しかるべく正しく扱おう。

幼児が仏壇に感じること

あれはうちの娘が2歳のころだったか、実家に帰ったときのことだ。仏壇の扉が、まさに観音開きに開いていたのだが、娘は、その前でおびえたように中を凝視し、固まっている。

「大丈夫だよ、おじいちゃんとか、ほかにもいろいろいるかも知れないけれど、みんなお前を護ってくれるひとたちだよ」、と教えで抱きかかえてやった。

何が見えたかは知らないが、子どもにしか見えないものがあるという伝承は(あのトトロもその筋の話だ)、古来ある。幼いときほど、あっちの世界に近いという理屈だ。

そしてこの春、実家で法事があったとき、娘は、「おじいちゃんに手紙を書いたよ」と、祖父の遺影の前に手紙を添えた。内容は、「おじいちゃんだいすき」だった。

娘と祖父の命が重なった期間は、1月しかなかった。だから、娘はささやかな埋め合わせをしたのだろう。

今回、実家に帰ったら、真っ先に「なむなむするー」という。線香を立て、手を合わせるだけでなく、木魚をボカボカやりだした。

そこまでやるなら、フルコースもいいだろう。

なので、般若心経を読ませてみた。これ、全部ひらがなのルビつきなのでこの保育園児でも読める。これで、一人でボーカルと伴奏でき、それなりの仏門デビューとなった。

が、娘はさらに要求する。「これってどうゆう意味の言葉?」って、それはお経(中身)である。

いきなり保育園児に般若心経(=古代インド哲学)の解釈か、、、

適当に、「むかーし、むかーし、シャーリープトラって人がいました。この人が教えてもらったんだよ。この世界の本当のこと、そうすると心がとっても自由になるんだ、、」とかなんとか、、、。

ピュアな心であるほど、仏壇っておもしろいのだ。

自然災害と民俗学、ゲニウス・ロキの声を聴く感性

民俗学の素養が、少しは役に立つかも知れないという話。たとえば、貴方の住む場所を選ぶ場合とか。

民俗学をかじると、その土地を歴史的に掘り下げてみようとする気になる。その場合、地名や寺社仏閣、祠や石碑などが参考になるだろう。植生、植栽も意味も大きい。それらは皆、過去の住人たちの語りかける声、魂の残留物である。

先の大震災で劇的なことがあった。古い石碑が大津波の到達点を示し、より低い場所に家を建てることを警告していたが、これが多くの人命を救ったそうだ。

ある大きな川のほとりに、水神の祠を見つけたことがある。水神の祠の意味は両義的だ。水源への感謝の意味もあれば、水害のないことを願う(事実あったからそこまでして願うのである)意味もある。それは、その場所を見れば、「やはり!」と感じることだろう。

新しい地名も気になる点だ。もともと人の住む地域でなかった可能性がある。なぜ住まなかったのか?

それとも、わざわざ変えたとしたらどうして変えたのか?元の地名を見て、これも、「やはり!」だったりする。

民俗学は、人の言葉を真摯に聴くことが技法(この場合、不動産屋さんは利害関係ありすぎだが)。住居表記には出なくても、昔からの俗称は公的なものより重要な土地情報だったりする。

考古学の範疇にも関わるが、今も人が住み、かつ古い住居の遺跡のある場所は原則望ましい。単純にいって、安定して人が住み続ける環境があった証拠である。生活が不便であった昔の人ほど、住まい選びは慎重だったのである。無理な造成もしない。

気候が異常だ、というより異常が普通になりつつある。十分に安全を考慮したはずの土木工法が災害に追いつかない様子じゃないかな。こんなときほど、古い言葉にこだわる民俗学である。

カッコよく表現しよう。「ゲニウス・ロキ/Genius Loci(地霊)の声を聴け」。GPSの機能を拡張しスマホでも聴けたらよいのだけどね。

ショウリョウバッタとお盆

旧盆が過ぎて、また首都圏には人が戻ってきた。最近の傾向では、帰省組は減少しつつあるそうだ。そして、遅ればせながら、あと一つお盆ネタ。

子どものときからずっと気になっていた。ショウリョウバッタの”ショウリョウ”って何だ?トノサマバッタなら、その大きさからしても、バッタの殿様級というのはわかる。

最近知った。ショウリョウ=精霊だ。つまり、お盆に帰ってくる魂。なんとも、スピリチュアルである。何か見えてきそう?

イネ科の植物が大好きだから、当然稲も食べる。稲作文化の中では害虫として敵視されかねないが、この神聖な名前は別格である。同じバッタ仲間でも、イナゴなんて佃煮の素材扱いだ。

ところで、お盆には、ナスとかに足を4本付けて、精霊を迎える習わしがある。つまり、精霊さんたちの乗り物に見立てているわけだ。

これのバッタバージョンが、ショウリョウバッタではないのかな。ウキペディアでは、「精霊舟」にこのバッタを見立てたとあるけれど、そのまま乗っていただく方が自然。

ショウリョウバッタといえば、オスメスのサイズの差が著しい。また、移動力も全然違う。

オスは小さくて、飛行力に優れているけれど、メスはかわいそうなほど鈍重だ。でも、大きくて乗り心地はこっちの方がよさそう。あのドタッ、ドタッて跳び方、何かを乗せているように見えないか。

昔の人は、お迎えする精霊を小さなものとイメージしたらしい。ナスとか、バッタに乗れるくらいに。これ、西洋の妖精画みたいで、コミカルで楽しい。お盆は、小さな家族が増えるイメージかも。

これとは別に、この季節、テレビ番組の心霊モノの季節でもあるけれど、この手の恐ろしい悪霊のイメージもまたある。

じゃ、この違いはなんだろう。

日本の伝統文化では、あの手この手で死者を鎮魂してきたわけだけれど、この重厚な文化もほころびつつあるのだろうね。手厚く迎えられる精霊が悪霊になるわけはない。一方、無縁仏なんて伝統生活の脅威であった。

だから、旧態依然として続けるべき、とはいわないが、死と向き合う文化はそれなりに必要だとは思うし、新しい形があってもいい。

この題材はあまりに大きいので今日はこのくらいで。

ともあれ、この時期、ショウリョウバッタを見つけたら好きに行かせてあげよう。それは、魂の循環の途上にあるのかも知れないのだから。

ハローウィンの民俗学

うちの娘は、ハローウィンのイベントで味をしめ、保育園に着くなり大人を見れば「Trick or Treat」を連発している。

でも、まだ、この決まり文句までは普及していない様子。先生方は「???」。

このイベント、子ども的にはお菓子をゲットできる点がミソだが、秋のお祭りシーズンは、ハローウィン関連ではなくても、こういったお菓子をもらう機会がいろいろある。

先の地域のお祭りでも、もらっているし、地方の祖母まで「お祭りでもらったので、送ろうか」と言っている。

そもそも、日本の伝統行事でも、子どもたちが家々を練り歩き、古い様式では餅とかもらう風習がいろいろあったりする。

つまるところ、その本質は、

「子どもを受け入れる地域の信頼関係の表現」だと思う。これは、大切なことだ。

ところで、ハローウィンといえば、「古いケルトの風習で、アイルランドがその起源」なんて説明されているが、実際のところ微妙、と感じる。

特に、アイルランドが本場!で盛り上がっている様子はなさそうに感じる。あるとすれば、アメリカからの逆輸入じゃないかな。

とりあえず、アイルランドで撮影したそれらしい?写真を載せてみる。これ、撮影が9月だから早すぎ。かつ、「電柱にしがみついた魔女」というのも意味不明。

ちなみに、アイルランド・ゲール語でハローウィンは、Oi'che Shamhna(イー ハウナ)。

Oi'che が「夜」、「Shamhna」は11月の、を意味している(ハローウィンは10月31日のはずだけど)。

Photo

そして先のイベントの余談を一つ。

実は、僕もささやかに仮装してみた。仮装というより、「古い時代の正装」だけれども。インバネス(トンビ)は、けっこう好評であった。

家の民俗学 その1 水田

通勤電車で見る光景のことだ。ここ東京の郊外では、乾いた田んぼ水が引かれ、初々しい稲が植えられるようになった。

ところが、なじみの田んぼの一部は、冬の間に家が建ってしまった。よくある建売住宅である。

日本の家の10%は、統計上空き家だそうだが、東京ではまだこうして家が建てられ続けている。これも住宅市場の合理的帰結といえば、確かにそうなのだろう。

これはあくまで一般論のつもりとしてだが、田んぼってものは地質的に故あって(水利と土壌)田んぼなのだ。だから、入居するとしたら、僕的には少し気分がよくない。まぁ、それなりに地盤も整備して家が建つはずなのだけど。

おまけをいえば、水木しげるの描く妖怪に泥田坊なんてものがいた。これ、田んぼをおろそかにした怨念が怖い精霊になったものなんだよね。

地鎮祭も、田んぼオプションが必要って、これは冗談。

季節柄、気持ちのよい田んぼの写真を載せる。これは、奥三河で撮ったもの。手植えだ。この微妙な曲線と人の足跡もいい感じ。

Photo

座敷童子(ザシキワラシ)の棲む家 そしてバンシー

毎日、うちの娘から膨大な質問を受けている。中にはとりわけ難しいものもある。

たとえば、「ザシキワラシは、どうして古い家にしか棲まないの?」

民俗学的難題である。

少なくとも、数世代にわたる生活のドラマが無い限り、そういったスピリチュアル性が熟成される余地はない。また、建売住宅でも論外。

住宅が単なるモノになりつつある、そして合理性一辺倒の思考自体が問題なんだ。僕としては、そっちの方がぞっとする。そういった家には、恐ろしい住宅ローンがとりついていたりする。

どんな家に出そうかっていえば、これ。

この写真は遠野で公開かれている旧千葉家、この土間の様子はすばらしい。どれだけの人がどれだけの情念でこの上を歩いたか。踏み固められた土間の様子は、心の痕跡でもある。

Photo アイルランドにも旧家に由来の精霊の話が伝わっている。その一つとして有名な”バン・シー”。

バン(bean)は、女性、シー(sidhe,sheeなど)は妖精の意味。つまり、とりあえず妖精族なのだが、昔早世したその一族の女性の霊、という解釈もある。

だから家族の誰かの死に際して、泣き叫ぶわけだ。家の守り神たるザシキワラシと一脈通じるところがあろう。

いずれにせよ、世代がつながらなくては出ようがない。無縁社会とは、これらの精霊の住まう、いわば、”心の生態系”を脅かすものでもある。

民俗学への招待 市町村の文献を再発見する

どこの市町村でも、地域の歴史、史跡、民俗など、教育委員会などが主体となって、まさにローカルな情報の刊行物を公にしている。

こういった刊行物は、庁舎の隅っこの方で細々と販売されているが、なかなかのお宝があったりする。

民俗学といえば、いわずと知れた柳田國男の遠野物語。たしかにスゴイ記録なのだけれど、だから遠野がズバ抜けた民話の宝庫だったのかといえば、むしろ柳田國男の手腕によるところも大きいと思う。

最近見つけた資料がある。とある東北の村で編集されたものかといえば、いやいや東京都内、稲城市である。

里山と梨畑の残る都内では小さめの市だが、それなりの大規模開発だってされている。つまり東京のベッドタウンと考えればいい。

”稲城の民俗(二)”とある。新品なのに年季が入っている。これがまたそそられる?で、中身なのだが、土地の古老(明治、大正生まれ)の伝承レポート、キター!

出てる出てる、数々の伝承キャラクターたち。狐は主役級。これは関東の特徴だろう。狢(むじな)もいるが、狸との境界が微妙。

遠野物語でおなじみ、河童も登場。近くに多摩川やその支流があるので、水関連の妖怪ならやはりこいつである。ただし、その容貌にとりたてて言及なし。河に現れる童のイメージである。

小豆洗い、といえば水木しげるがキャラクター化しているが(ネタ元はどこなのだろう?)、これに相当する妖怪も伝えられている。こっちでは老婆の姿で現れ、小川で小豆をとぐわけだが、すると、小川の水が真っ赤に染まるという。人に何をするわけでもないが、なかなか怖い。

特筆すべきは狼。関東の山岳信仰の中で狼は特別な地位にある。たとえば、狼が狛犬の代わりを務めている神社もある。

つまり聖獣なのだが、ここの伝承ではかなり現実的だ。幼児が食べられる話等が記録されている。この身近さ。ここ、今では東京なんですけどね。話はかなり生生しい。

生生しいといえば、人柱。まさか明治期ではないだろうが、このあたりは治水が切実な課題であったと理解できる。

明治以前の庶民の生活世界はこんな感じなんだろうね。

また、今の私たちの生活リアリティって、どうしてこうなったのかとも考えてもよいだろう。

星に願いを、妙見菩薩とか

おそらくこの冬最後の寒波だろうが、そのおかげで昨夜は星がよく見えた。保育園の帰り道、うちの娘は星に願いを掛け始めた。

見える星が多いので喜んでいる。その願いはいつも同じ。「ママの具合がよくなりますように」である。自分ばかりでなく、父親にもこれを薦めている。

どこでこの習慣を身につけたのか分からない。が、古代からの人間の心性に根ざしている行為だと思う。

日本の文化として取り入れられているもので、一番一般的なものは、七夕だろう。これならっ保育園でも取り入れられている。

星にまつわる文化、これは一つのテーマになりうるだろう。占星術なんてのもそう。

呪術といえば、「妙見菩薩」ってものもある。これは、密教上の供養の対象。北斗七星のことだ。夜空を大きな曼荼羅みたいにイメージしているわけで、なかなかスケールが大きくてご利益もありそう。

江戸時代に書かれた密教寺院のテキストをみたことがあるが、それなりの手の込んだ技法も確立しているらしい。

マニアックな話はさておき、うちの娘と一緒に、今後も真摯にお願いしてみよう。

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