文化・芸術

多言語学習の基本と楽しみ その1

久しぶりに渋谷を歩いて、外国人の多さに気付いた。

この先、オリンピックもあるし、彼らとの接触に興味もあるし、ビジネスを考える機会にもなりそうと考える。

ところでこのブログは、国際化なら英語教育って風潮に抵抗している。だから、多言語にこだわる。

とはいえ、アジア系の言語は不案内なので、ヨーロッパ系の言語に限定される。

どんな国の人だって、その国の言葉は歓迎してくれる。米英の人に「ハロー」と言ったって対してサプライズはないが、少数派の言語話者は、率直に感動さえしてくれる。

でも、挨拶表現は確かに重要だが、応用が利かない。気持ちを伝えることが中心の決まり切った表現で、本来の意味は通常さほど考慮されていないからだ。

たとえば、日本語の「こんにちは」に突っ込んだ説明を加えることは至難の技である。

その先は文法の領域、となる。

でも、本当に関わるとなると、時間と労力が多大だ。そこで、広く浅く多言語を楽しむ方法を考える。

その1 同系列の言語でいく

たとえば、英語とドイツ語の親和性は、フランス語より高い。また、ドイツ語とオランダ語は密接である。

ラテン語と聞くと、マニアック過ぎてとんでもない、と多くの人は考えるが、この言語は、フランス語、イタリア語、スペイン語などの源である。なので、ヨーロッパ南部の言語をざくっとものにしたいなら、強力なツールだ。

その2 言葉をつなげる最低限の文法

特定の言語を最低限文法で理解したいと考えるなら、まず、名詞+名詞、名詞+形容詞の文法をものにしたらどうか。通常の外国語教本は、文章を成立させるために、動詞の使い方に重点が置かれるが、そこが挫折の基である。

赤ちゃんが最初に話す言葉は、一言名詞、たとえば、わんわんとか。

そして、おっきいわんわん(二連語)、に発展すると、親は感動する。

この場合、並べただけ、だが、英語で、My home と言うべきところを、I home と言ったらすごくカッコ悪い。これが最低限の文法。

音楽批評 マグナムトリオ ライブの感想

お笑い芸人みたいな名前だが、3人の正統なフルート奏者のユニットである。小さなライブがあったので書く。

フルートの奇抜な演奏、というか、笛の可能性を極めた演出、それはれっきとした演奏であり、また”芸”でもある。

子どもたちにも大うけであった。ここが肝心なのだが、子どもには、乳幼児も含む。歩き始めの1歳児?が、立って踊りだした様子はサプライズである。

メンバーの内、多久潤一朗、彼の曲集、「フルートデュオ ア・ラ・カルト」はよくできた構成だ。とかく、フルート奏者は、ナルシスティックに独奏しがちであるが、フルート同士を合わせてみることもまたいいのではと思う。

「独奏しがちって、それって、お前だろ」、と、突っ込みを入れる方がいたとしたら、本望である。

「ハープ弾きと組みたいなぁー」なんて、春の夢のような妄想してるフルート吹きにも、より現実的な選択の一助としてこの曲集をお勧めする。

音楽批評 TSUKEMEN ライブの感想

最初は思ったんだ、あのウィーンの大ホールでライブしたには、軽すぎる名前だ。これラーメンのカテゴリーだろ。

入った会場は、メンバーと同世代から親世代の女性ばかり、、男はその他家族連れのオマケみたいなもの。あー、場違いな場所に来たー、とも思った。

家族連れの成り行き上、握手会まで参加した。男は自分だけ、、イイのか?

メンバーの手はがっしりして大きかった。とりわけピアノのSUGURUなんて、ほぼ武道家である。以前、柔道5段体重120キロの人物と腕相撲したことを思い出した。握った途端、「参りました!」って感じ。この感覚は男どうしだから分かるものだ。彼には別途、お礼を言う必要がある。娘(このときヴァイオリンを背負っていた)を励ましてくれたことだ。

あのすさまじい演奏を奏でる手とは、こういうものだった。どれほど練習したのだろう。

それにしても、ヴァイオリンなんて繊細な楽器が、あれほど激しい演奏に耐えられるものだとこのライブで知った。

超絶技法の連続である。しかし、スピーチで練習の苦労なんて片鱗も臭わせない。ひたすら観客を楽しませること、音楽によるもてなしに徹してくれた。すがすがしい暴風のようなライブである。

で、ネーミングに戻るけれど、結局、これでいい。輸入音楽であったクラシックが、日本で独自に昇華された背景を語りうるものだからだ。わざわざ外国語で名付けるとしたら、むしろ興ざめだろう。

注目すべきオリジナル曲も数あるが、ヴィヴァルディの四季から夏。これが一番印象に残った曲だ。それなりに耳にする曲なので、比較上彼らの音楽の位置がよくわかる。

この曲は夏の嵐を題材にしているが、華麗で大胆かつリアル。リアルとは、ヴィヴァルディがかつてその目で見た嵐の光景を幻視で見ているような感覚にとらわれるということだ。

このユニット、お勧めである。

フィンランド語のテイスト

うちの娘を連れて公園に行ったら、欧米系の父娘に出会った。同じく父親子連れなので、少し話す機会もあった。

「娘さんには何語でお話すればよいですか?」と、尋ねると、「家では、日本語とフィンランド語です」、とお答え。

うーん、フィンランド語か。かろうじて、「キートス(ありがとうの意味)?」と、言ってみたらよろこんでくれた。

思うのだけど、普段はいきなり英語で話しかけられたりしていると思う。それって、ある意味失礼だろうね。

家に帰って、偶然、買ったばかりのフィンランドの入門書を開いてみた。

この父が鉄棒にぶら下がる娘を励ます際、「ウーヴァ、ウーヴァ、」って、言ってたけど、この本で該当する言葉は、hyvá(ヒュヴァ・良い)だろうと確認。

僕は、初心者以前だけど、フィンランド語のテイストを少し書いてみたい。

この言語は、ヨーロッパの言語の中ではかなり異質だ。ラテン語由来の語源を探ることは難しい。また、近隣のゲルマン語系の言葉とも隔たっている。

しかし、名詞に性別がないことは、楽。彼と彼女の違いさえない(どっちもhán)。アルファベットの数は多いが(たとえばさっき書いた「á」など)、読みは素直に文字に従っている。この点は、実にありがたい。

独特の語感は魅力的だ。

あのトールキン、指輪物語の著者はフィンランド語に入れ込んでいたが、彼の創造したエルフ語の内、上エルフ語(Quenya)はフィンランド語を基にしたと聞いている。確かに、語感は似ていると思う。

ダンスの文化 その2 タイタニックと出会いの形

タイタニック、この映画は楽しむアイルランド入門にふさわしい映画でもある。なんたってタイタニック号はアイルランド製でもあるし。

ジャックとローズの踊ったダンス、詳しい人は、「あんなの本物じゃない」というけれど、雰囲気は良く出ていると思うし、音楽は正統である。

男女がペアで踊るアイリッシュダンスの様式、これをセットダンスという。いわゆる社交ダンスの範疇に入るのだろうけど、男女の役割が対等である。これは強調しておきたい。また、普段着で楽しむダンスでもある。

僕がセットダンスを習った団体は、CCE Japan (アイルランド音楽家協会日本支部)だ。ただし、最近の状況はよく知らない。

アイリッシュダンスの日本公演はしばしばあったりする。けど、当然、観客に見せるダンスであって、集まって自分たちで楽しむダンスではない。ただし、アイリッシュダンスであるわけで、足技が重要なところ。

相手がいる、ってことはさらに重要だ。相手に合わせた気配りが必要になる。一人の個人プレーで盛り上がっては×。

生身の相手に、一定の洗練された文化様式で対峙することの重要さ、これが僕の伝えたいことの核心である。そこには、相手の人格がはっきり現れるだろう。

ところで、最近あった凄惨な事件(三鷹市の事件)はまだ生生しいインパクトがある。フェイスブックで知り合ったサイコパス・ストーカーに高校生が惨殺されたあれである。

かなり異質な文化的背景を持った出会い、という点では、タイタニックのジャックとローズみたい?で、その意味、最初は刺激的なロマンスと感じていたと推測するけれど、彼女にとって早めに見極めるすべがなかった点が残念である。

、、、極端な話で深刻になってしまった。が、新しい出会いを求める人には、一つの正統な出会いの形がダンスであるとお勧めする。

もう少し広くいうと、出会う相手を文化のふるいにかけるということ。

ダンスの文化 その1 ダンサー信長

電車の中で思いついた企画を開始する。

日本の歴史を決定づけたダンスがある。あのとき、つまり織田信長が今川義元に攻め滅ぼされていたら秀吉も家康も世に出る機会なんてなかった。

迫りくる大軍団に家臣たちは縮み上がり篭城戦を献策したが、この若き猛々しい指導者は、「敦盛」を舞い謡うことで応えた。そして絶望的な桶狭間の決戦に臨む。

ほんと、かっこよすぎ。ビジュアル系の演出。

そして家康の人質開放とか、歴史の経緯はともかくとして、この舞は、劇的な演出、意志表現を持つ高度なコミュニケーションツールとして使用されたことに注目したい。

芸術的身体表現。こういった素養のある指導者って、今の日本では想像もつかない。というか、受け入れる素地もない。

信長の例でいえば、ならば!って、そこでザクッと起動する家臣団も素養がある。

歴史が下って幕末でも、京都のお座敷で新撰組の隊士が郷里の多摩の踊りを披露したって話がある。関東人はそれほど、、野蛮じゃないってPRになったかも。

日本人は踊らなくなった。これは、何か重要なものを失ったような気がする。

そんなことを念頭におきながら、このシリーズを続けてみたい。

ドイツ語のテイストを楽しむ、そして世界を観る

そもそも、自分のドイツ語能力といえば、大学の第二外国語履修、以前の仕事で多少の挨拶程度、ドイツ語検定3級受験勉強(結局受験もしなかった)位であって、しかもずいぶん間が空いてもいる。

しかし、先週末、故あってドイツ人が家に泊まることになり(日本ビール数種用意)、ドイツ語は事前に再履修となった。

以下、ドイツ語に興味のある人に紹介したいのだが、

この鋭い切れのある発音、やっぱり生に限る。あと特有のウムラウト(発音記号)付きの濁りもシブい。質の良い緑茶みたいだ(僕の発音は軽すぎの様子ともわかる)。

加えていえば、文法も整然としているし、読み方は規則どおりに読めばよく、英単語から類推できる言葉も多い。

確かに英語より難しいとはいえ、日本人向けの教授法が確立していることも、学習には望ましい(ゲール語はそうはいかない)。

で、マトモに話せるのかって?僕、ダメです。

ごくごく基本部分だけ、あとは英語。でもね、相手だって英語圏からすればガイジンなんだ(相当話せるけど)。だから崩さずきちんと話してくれるので、かえってネイティブよりわかりやすい。

しかし、よく考えてみよう。

日本人とドイツ人が、わざわざお互いの言葉ではない英語で、意思の疎通を計っている状況のこと。

この場合、共通点はお互い敗戦国ってことだ。つまり、第二次大戦後の世界秩序が英語の優位性を決定づけたということ。

さらに、最近乗り遅れてはならないって大騒ぎしている、いわゆるグローバル化。その本質といえば、WASP化かも知れない。

確かに英語は使える言語なのだけど(以上の例のごとく)、これができる、できないってこだわりすぎるとしたら、植民地の原住民の感覚に近いと感じる。

その点、ドイツ語は対等感覚の言語といいたい。文化的にあれこれお世話になっているし、その敬意の表明でもある。

以下余談。

彼から聞いた話だ。彼は、良心的兵役免除の替わりにイスラエルの病院で社会奉仕活動をしたそうだ。

なぜイスラエルかって?、、、ってことか。

映画スイートプリキュア批評 その2 世界観

この話、アフロディテ、ミューズなどギリシア神話的ネーミングがところどころ散見されているが、世界観もまたギリシア的である。

この場合、ギリシアとはプラトン主義のこと。音楽って審美的な題材が基礎にあるが、これってイデアな問題だ。

つまり、こっちの現実世界とは別に音楽の世界があって、音楽の源はそこにあるという設定がある。で、この映画では、そのイデア的な世界に不都合が発生したので、をプリキュアたちが救いにいくって話。

その媒介者となるのは、第4のプリキュアであるアコちゃんである。この子、本来こっちの世界の住人ではない。

あっちの世界とこっちの世界を媒介するもの、エリウゲナ的にいえば、天使。天使的イメージもこの作品には明確に活用されている。

あっちの世界とこっちの世界の交流というか、流れに注目すると、それは新プラトン主義の主題(相当にアバウトに)だ。つまり、この映画の世界観はこれである。

本来、哲学ってものは、汎用性と時代を超えた影響力を発揮できるもの。子ども向けアニメにだって使える。

プラトンなんかは、神話的記述のイメージを多用しているから、ぶっ飛んだお話には実に使える(と思う)。とはいえ、プリキュアの作者がプラトンの愛読者とは思わないけれど、間接的に影響を受けているのではないかな。

まぁ、一般の鑑賞する側にとっては、どうでもいいことだけれど、創造的な仕事をするなら、こういった古典に触れてみることはお奨め。

映画スイートプリキュア 批評その1 ハープの活用

この秋の映画版では、新しい主題歌が加わっている。この曲、ハープを伴奏に使っている(題名=「心の歌」)。ハープを使った”アニソン”なんてすばらしい。

この曲、ハープの使用が効果的で、かつ、歌にあわせたその奏法もトラディショナルに近いように感じる。間奏のリコーダーもいい。

歌詞の内容的にも、”子守唄”。覚えやすい曲なので、さっそくティン・ホイッスル、フルートのレパートリーに加えてみようと試みている(CD買ってしまった、、、)。

しかし、奏でて歌うわけにはいかない。アイリッシュ・ハープやってる方がうらやましい。

ところで、映画の中では、最後の戦闘シーンに使われている。かえってこういった使い方は壮絶さを引き立てる効果があるだろうね。

実をいうと、この美少女戦隊ものの系列、過去の作品は、僕はほとんど知らないが、少なくともスイートプリキュアは音楽の世界が基礎になっている。この点、もう少し次回に書いてみよう。

リサとガスパールのこと

Bonjour,Messieurs-Dames.

ボンジュール、メスィユ・ダム(今日はみなさん)。

娘との付き合いで観ているこのアニメ、なかなよろしいかと。公式ウェブサイトはここ。

http://www.lisagas.jp/introduction/index.html#top

ミッキーマウスの世界(ミッキーマウスクラブハウス)と似ているようで、かなり違う。違いとは、それが開かれた世界であることだ。

現実のパリがその舞台。僕は行ったことがないけれど、馴染みの風景と重なる方もいるだろう。リサとガスパールはまったく架空の生き物なのだが、それぞれに父、母、兄弟がいる。そして、地域の住民も登場する。そして、子どもにとってありがちなエピソードがそこに発生する。この日常的やり取りにエスプリが効いている。

ミッキーの世界には、おそらく周到な配慮によって、家族関係がない。またその世界は、自己完結していて、現実世界との接点もない仕組みになっている。

これは大きな違いだ。だからミッキーがどうだとは言わないが、観る側にとって共感性の質もかなり異なると思う。

たとえば、ガスパールの父は、自分の事務所で働いている。だから、うちの娘に「パパが働いているところはこんなところ」と画面で説明できる。これで、日ごろからの懸案事項がビジュアル的に解決した(三歳児に事務所の説明は難しい)。

さて、テレビのミッキーになじんだら次はディズニーランド。なかなかの出費、、附属のホテル、中身もいいが、料金も、、。

しかし、リサ(Lisa)とガスパール(Gaspard)の場合は、現物パリ!こいつはさらに難題だ。

以下長い余談。世の中カタカナ名を意識した子どもの名づけが流行りだが、ガスパールは漢字化が変。ところが、リサは使える。マトモに漢字化できる。

最後がaで終わるし、ラテン系の言葉の基準で女性名詞でもある。

で、問題はパスポート表記(そこまで考えるなら)。原則はヘボン式ローマ字だから、たとえば理佐さんは、Risaになる。LでなくR。あくまで欧風基準でいくなら、当局との折衝が必要になるだろう。

なんだか、所帯じみてきた。このへんで、Salut!(サリュ、またね)。

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