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2018年5月

部分社会について その3 ジャイアンの野放し

ジャイアンって、どらエモンのジャイアンなのだが、今の小学校なら最重要課題であるいじめの先頭に立ち、暴行、傷害、脅迫、恐喝を常習としてしている。なのに、スクールカウンセラーが対応するとか、新聞沙汰になって教育委員会がやり玉に上げげられることもないどころか、担任教師も被害児童の保護者も無関心である。

アニメといってしまえば、それまでだが、社会史を語る重要な資料である。
つまり、この時代は、子ども社会に親は介入しない。これが原則だったと分かる。もっとも、「ガキ大将」とは、恐怖で子どもたちを支配していたのではなく、その面倒を看ることで信頼を置かれていたものであるらしい。さらに年長の未成年の「番長」とは、ほんとうにいたそうだ。子どもを代表し、教師と渡り合うくらいの度量をもった子どものリーダーだったそうだ。

つまり、昔の子どもたちは、それなりに自律した部分社会を形成していたわけだ。子どもたちにとって、衝突、和解、リーダーシップ発揮などの実践を通じて自前の問題解決能力を学ぶ機会だったとも思う。

ところが、今時は学校の一元支配が周到に制度化されていて、いじめの摘発も強く奨励されている。いじめゼロ推進は結構なことだ、としても「子どもの部分社会」が消失したことによって何が失われたのか、少し考えてみてもいいだろう。
この点、習いごと漬けにしがちな親の姿勢も考えてみたい。
子どもたちのために何をするか、ばかりでなく何をしないでおくか、という発想も必要だろう。

ドラえもんだって、あえてのび太を助けない選択をする場面もある。



部分社会についてその2 日大アメフト事件2

部分社会話された言葉は、一般社会の言葉に翻訳が必要である。
「潰してこい」の翻訳が今問題となっている。

伝統的な社会の例では、
「育成した家畜を食材用に加工して、特別なもてなしに供しなさい」となる。盛大な村の祭礼などが思い浮かぶ。

今回の件では、人間が対象であるから全く事情は異なっているが、状況を加味した私の翻訳では、
試合の過程上のタックルで相手を負傷させなさい。それが相手のQB(最重要ポジション)なら、こちらが将来的にも相当有利になる」。となる。

試合の過程上の、これが重要だ。この暗黙の言葉で目的も含め免責になるかどうかは、アメフト界の流儀に任せたい。部分社会には、それなりの自律性があってもいいからだ。汚いやり方でもお互い様とか。

しかし、彼は、この含みを読み解けなかったのだろう。試合の流れとは独立してやってしまった(目的は理解していたが)。
コミュニケーション上の不備ではあるが、それ自体が、傷害事件と解釈できる行為を観客の面前でやってしまう背景(場の力)こそが問題である。

アメフトはマッチョなだけ?いや、高度に知的な洗練を伴う競技である。なのに、こうなった。これが部分社会の怖いところである。

部分社会について その1 日大アメフト事件

部分社会とは、もともと法律学用語なのだが、もっと一般化して考えてみる。
そもそも、大学も部分社会なのだが、さらに私学のスポーツのエリート部は、極端な部分社会だ。一般社会からは常軌を逸したことが、礼賛されていたりするし、一般学生から乖離した学生生活が当然とされている。
監督には絶対服従の状況で、この反則は「支持された」とされる。部分社会的には、正当な行為であったとしても、一般社会ではそうではないと、事の重大さが喧伝されるまで当事者は理解できなかった。
そして彼は、本来のハレの場ではなく、全く想定外の場で、勇気を試されることになった。この勇気とは自分の言葉を持つという勇気である。そして彼は、貫徹した。敬意を表しよう。
彼は、その言葉で、部分社会の常識を超え、良識を表現したわけだ。
そもそも良識とは、教養から派生するものであるが、これは大学教育の根幹ではなかろうか?大学当局も巍然としてほしい。
「国の名負いて巍然と立ちたる大学日本(校歌)」である。国内の大学としてだけでなく、日本の大学としての名誉もある。「火消し」はいいから、大学としての組織改革をしてほしい。手始めとして、総合大学としての特性を生かし、経営学科、社会学科、法律学科、体育学科の協働研究をしてはどうか。そのテーマは、「危機管理と部分社会」を推奨する。危機管理学部はどうかって?研究の主体ではなく、対象であろう。

子どもの自然体験 その1 庭のできごと

登校時、家の玄関先で、うちの子が騒いでいる。「かなちゃん、いたー!」捕獲を手伝えということだ(出勤時だからいそがしいのだが)。そこで、近所の小学生も興味を持って参加する。
かなちゃんとは、うちの庭のあたりにいるカナヘビのことである。
やもちゃん(ヤモリ)もいるが、こっちは夜行性なので遭遇が難しい。
うちのハーブで育ったキアゲハの幼虫たちは、そろそろと思っていたが、案の定、姿を消した。どこぞでさなぎになり、飛び立つ日に備えていることだろう。その光景は劇的である。
小さな庭であっても、毎日何かが起きる。
今月生まれの、メダカの子は、全長3mmだが、けなげにエサを食べている。今出産ラッシュなので、もうすぐ保育園状態になることだろう。
この時期、子どもキャンプの案内など来たりするが、気を付ければ、身近で豊かな自然もある。大切なことは、気づく感性を身に着けることだと思う。

小学生の理科 有胚乳・無胚乳そして教養問題

どの植物が有胚乳・無胚乳かを仕分ける、、試験対策的には、イネ、ムギ、トウモロコシおまけでカキを有胚乳として押さえておけば、大体よし。なのだが、、、
少し深く、広く考えてみる。
イネ、ムギ、トウモロコシこれは、人類の食卓を支える3大作物、なので、政治経済の問題にも直結する。
輸出国が、輸入国にいじわるする戦略なんてこともある。グリーンウェポン(緑の兵器)といえば、その怖さがわかる。
地球上、これだけたくさんの種類の植物があっても、人類の命を支える植物の種類は相当限られているわけだ。
あと加えるなら、ジャガイモに注目してもよいが、ジャガイモに頼り切っていたアイルランドの大飢饉の教訓は、もっと広く認識されるべきだろう。
イネ、これは、縄文→弥生の歴史的エポックをもたらした作物であり、イネの栽培の変遷から日本の歴史・文化をたどることも可能だ。
一例として、コメの生産量=藩の財力・戦力と考えすぎた徳川幕府の裏をかいたのが、長州藩、という見方もある。
そのおかげで、今の日本の首相も長州系である。
植物の種子の構造、それは小さいけど大きなビジョンを与えてくれる。


多言語の学び方 その2 英語の偏重

司馬遼太郎の受け売りだが、福沢諭吉は、英語の必要性を自覚し、「英語が少しできる」幕臣のもとへ、その出勤前の時間に教えを受けるため、夜明け前、文字通りの野原であった秋葉原を駆け抜け通い続けたという。
西南戦争に参加した薩摩の若者たちは、自らの命とともに英単語帳も散らして死んでいった。
そして、明治維新から150年。
昨日の日経新聞には、3割の公立小学校で、英語授業を2020年度の本格導入前に増やしているとされる。
このように、今でも、数ある外国語の中で、英語だけが突出した重要視をされている。
これからの社会は、そこまで英語中心になっていくのだろうか?
実利的にも根拠はあるのか?
東京23区に入ると外国語の会話を聞く機会の多さに驚くが、中国語の割合は英語を凌駕していると実感する。
それは、経済のデータにも合致する。
どこの国が好きかって?そんな問題ではないだろう。
薩摩の若者は、その志のための必要性として英語を学んだはずだ。
ドライに語学は手段と考えるならば、外国語学習は、もっと多様な選択があった方がいい。その方が、国益にもかなうと感じる。
ついでに、小学生の親として言おう。
最近の小学校はやること多すぎである。
自身のころと比べ、複雑で過密なスケジュールになっているようだ。
確かに、時代に合わせた課題があり、教育も対応する必要性があるとしても、これが累積していくのではないか。
国語力の低下が深刻、といった話は新しいが、すると”試み”が始まるだろう。
単純にいえば、足し算ばかりで、引き算をしない。
教師は疲弊し、親も巻き込まれる、、、
長くなるので、今日はこのへんで。



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