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生徒の髪染めについて

この問題、時々報道されているが、視点を広く考えてみたい。
人種としてモンゴロイドなら直毛、黒髪が多いとはいえ、生物学的多様性がありうる。
なので、もともと赤毛(俗にいう茶髪)の子はいる。そこで、地域的な学校側の風潮なのだが、高校が黒く染めることを強要し、裁判沙汰にまでなった。では、余計にいえば、縮れた髪(俗にいう天パー)なら、直毛に矯正されなければならないのだろうか。
ヨーロッパ系、アフリカ系の子どもはどうする?
これに関連する管理は、生来の髪の色のままであることの申告制度。
これも異様に感じる。
生徒の同一性に偏執的にこだわるのは、どうしてだろう。
かつてのナチスのように(彼らが崇高と信じた)人種主義の確たる思想がある?
いやいや、世間体を重んじる俗文化の流儀らしい。
 
でも、少し、この件に該当する教育委員会をフォローしてみよう。
集団的に人を管理するためには、同一性が必要である。
(嫌味を加えれば、日本の刑務所の管理術でもある)
たとえば、同じ制服を着せることによって、集団は格段に扱いやすくなるものだ。
ただ、服装は社会的な立場、役割を求めさせるものであり、一方、髪とは身体=自分の一部だ。
つまり、髪は、より人格に直結している。
 
僕の意見として、
管理・運営の必要があったとしても、身体への介入は慎重であらねばならない。
極端な例、入れ墨なら当然の禁止でかまわないが、髪のことにことさら血筋をあげるべきではない。
取り締まりより、マナー・美意識の涵養なら学校にふさわしい。
学校の領分として、制服の改造に厳格に対処しても、それはむしろ容認できる。
身体は、原則、家庭の領分と思う。
 
より包括的な問題も指摘したい。
たとえば、リベラルに、性的少数者へ配慮しましょうって時代の雰囲気。当然、学校の教育へも反映されるわけだが、一方で茶髪生徒の洗い出しと摘発に駆り立てられているとしたら、はなはだしい”価値観の統合失調”にある。
教員の精神疾患の増加の背景には、こういった統合失調もありそうと考える。
 
 
 
 

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