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2017年11月

生徒の髪染めについて

この問題、時々報道されているが、視点を広く考えてみたい。
人種としてモンゴロイドなら直毛、黒髪が多いとはいえ、生物学的多様性がありうる。
なので、もともと赤毛(俗にいう茶髪)の子はいる。そこで、地域的な学校側の風潮なのだが、高校が黒く染めることを強要し、裁判沙汰にまでなった。では、余計にいえば、縮れた髪(俗にいう天パー)なら、直毛に矯正されなければならないのだろうか。
ヨーロッパ系、アフリカ系の子どもはどうする?
これに関連する管理は、生来の髪の色のままであることの申告制度。
これも異様に感じる。
生徒の同一性に偏執的にこだわるのは、どうしてだろう。
かつてのナチスのように(彼らが崇高と信じた)人種主義の確たる思想がある?
いやいや、世間体を重んじる俗文化の流儀らしい。
 
でも、少し、この件に該当する教育委員会をフォローしてみよう。
集団的に人を管理するためには、同一性が必要である。
(嫌味を加えれば、日本の刑務所の管理術でもある)
たとえば、同じ制服を着せることによって、集団は格段に扱いやすくなるものだ。
ただ、服装は社会的な立場、役割を求めさせるものであり、一方、髪とは身体=自分の一部だ。
つまり、髪は、より人格に直結している。
 
僕の意見として、
管理・運営の必要があったとしても、身体への介入は慎重であらねばならない。
極端な例、入れ墨なら当然の禁止でかまわないが、髪のことにことさら血筋をあげるべきではない。
取り締まりより、マナー・美意識の涵養なら学校にふさわしい。
学校の領分として、制服の改造に厳格に対処しても、それはむしろ容認できる。
身体は、原則、家庭の領分と思う。
 
より包括的な問題も指摘したい。
たとえば、リベラルに、性的少数者へ配慮しましょうって時代の雰囲気。当然、学校の教育へも反映されるわけだが、一方で茶髪生徒の洗い出しと摘発に駆り立てられているとしたら、はなはだしい”価値観の統合失調”にある。
教員の精神疾患の増加の背景には、こういった統合失調もありそうと考える。
 
 
 
 

道徳教育について その2 教科化

小中学校で道徳教育が教科化されるそうだ。すると、道徳にも成績が評価されることになる。
一般の教科のように、明確な内容が体系化されていればよいのだろうが、道徳は、基本的に、知識ではなく価値観や生活態度の問題なのでかなり異質な科目である。
評価の表現方法は、それなりにあるだろうけれど、現場の混乱と苦悩が予想される。
 
ところで、道徳=徳を高める道、って古代哲学からの課題なのだが、額面どおりに考えれば、とんでもない深見に陥ることだろう。おまけに”価値観が多様化”している(その割にあれはダメ、これもダメってむきになっていないか)?ご時世なのだから。
 
とはいえ、背景は、いじめ対策(をした形を残すこと)が主眼のようであるし、とりあえず無難に対処する日本的手法が生かされることだろう。
 
が、ソクラテスならこういうはず。
「学校で徳を学ぶことができるって?ならば、教える者は、徳とは何かを知っているはずだ。では、聴こう。」
大丈夫、こんなクレームないから。
 
でも、これって中学なら高校受験の内申に直結するのですか?いじめ行為認定→受験不利?
派生的に、
いじめ行為を不適切に認定され、内申が不利になり高校不合格になった→行政訴訟、なんてことはありうるのかな?で、先生が証人として、法廷へ?
 
 
 

道徳教育について その1挨拶の意義

小学生の道徳教育が問題となっているので、このシリーズを始めてみた。
まずは唐突に、フランス語講座の話題。
NHKのラジオ講座なのだが、今期の最初が一ひねりある。
≪Bonjour≫,d'abord,non?/最初は、ボンジュールだろ、え、違うか?(僕の意訳を含む)
この状況は、タクシー利用者が、最初から行先のみを告げる様子に、運転手が応えたもの。
レッスン1は、どんな語学でも挨拶なのだが、こういったガツンとくる始まりは気が利いている。
つまり、社会生活の基本は挨拶なのだ。
そして、その意義は、”相手の存在を認めること”。
反対に、いじめの手口で無視はよくある話だが、その意味で挨拶は道徳教育にも関連する。
大げさに加えていえば、「礼」は、儒教の徳目の一つである。
童謡にあるように、社会性昆虫の”ありさん”だって挨拶する。あれは、「あんまりいそいで」いるわけでなく、彼らなりのコミニュケーションの表現だ。
 
 
 
 
 

ブレードランナーの哲学 その1 プロローグ

思えば、20世紀も終わらないころ、哲学科の1年生に勧められたのがきっかけだ。その本の名前は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。原題もそのまま、「DO ANDROIDS DREAM  OF ELECTRIC SHEEP?」。これを映画化したものが、ブレードランナー。

そもそも小説の類は、あまり読まないのだが、今年の夏、なんだか思い出し、実家の書庫から探しだし電車の中で読んでみた。つまり、買った後、世紀を隔てて初めて読んでみたことになる。

ついでながら、CD(ヴァンゲリスの曲集)も発見したので、映画(旧作の方)の、テーマ曲も聞いたりした。

おもしろややこしく言おう。

過去の”未来の話”を、当時からすれば未来の、”今”に聴いてたらなんとも不思議ななつかしさ。それは、サイバーな電子音楽であり、当時のイメージによる未来風の音楽なのだ。

いつの間にか、最新作の映画も公開されている。なんとも不思議な共時性である。

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