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2016年12月

子育ての技法 その7 本の読み聞かせ

子どもに自発的な読書習慣をつけるうえで、漢字学習を先行させることが効果的と先に書いたが、耳で聴く読み聞かせもよい事だと思う。目で追うことと、耳で聴くことが言語学習の両輪と考えている。

これは保育園時代から続けている子どもを寝かしつける方策でもある。思えば、遠くに来たものだ。

子どもが勝手に読むような本はさておいて、少し難しめの本、時節に合った本を選んでいる。

最近の本では、ハリーポッター。そのハイライトシーンを選んだりする。このシリーズは、学校が舞台なので食いつきがいい。同じくファンタジー系としてゲド戦記も試してみたが、これはシブ過ぎて中断、まぁ仕方ない。

K.ローレンツも自然科学分野として聴かせてみた。まさか、ノーベル賞受賞者の論文とはいかないので、その一般向けの著作、”ソロモンの指輪”。動物たちとのやり取りのおもしろさは、さすがである。

この親自身、この筋から影響を受けていると思い至ったし、子どももいつの間にかその影響を受けていた。そういえば、この前の学校の作文は、「ヤモリの飼い方」なのであった。

先のクリスマスイブは、新約聖書からイエスの誕生シーン。クリスマスの大元の意義を知ってもらいたいからだ。ここを押さえなくては、クリスマスにならない。と、親の思い入れあり。

以上の読み聞かせは、もちろん親の解説付きである。

ラテン語の世界 その32 スーパーグローバル大学構想

スーパーグローバル大学とは、文科省が指定する大学で、特段に外国人教員を招聘し、もったいぶって英語で講義を行い、外国人留学生をやたらに呼び寄せ、その為に税金をつぎ込む大学のことである。

Super Global University、略してSGV、だぁー!と文科省は当初考えたが、すでにとある大学がSGVで商標登録をしていたので、あわてて撤回したそうだ。残念!!印刷費の無駄となった。

ところで、globalって英語はあるとしても、super globalという表現はそもそも英語にはない。なぜか?

それは、語源的におかしいのであろう。

ラテン語の、globusは、”球”の意味である。ここから地球がイメージされ、英語のglobal/全世界の、国際的な、地球規模の、という意味が派生した。

super(これはそのままラテン語でもあるが)、をつけたら地球を越えてしまうわけ。

Super Global Universityは、銀河連邦の大学なのか?地球外生命体が教員や学生になるのか?って話である。

なわけないので、これは、心の問題である。

文科省的には、国際化では、いまさらインパクトないから、カタカナ(英語)にしよう、グローバルだ、いや、並みの大学でも、グローバルとかやたらに言ってるし、気合を込めてスーパーを付けよう。

こんな感じだろう。

でも、これって何かに似ている。

そうだ、アニメの戦隊ものの必殺技もこんな感じだ。

プリキュア・マーブル・スクリュー!→撃破

でも、だんだん強い敵が出てくると利かなくなる。

なので、プリキュア・マーブル・スクリュー・マックス・スパーク!!!

これでボスキャラを撃破できる。

こういった和製英語は、海外のアニメファンに受けがいいそうだ。

海外留学生来るかも!

、、、、話を戻そう。

日本の大学教育の偉大だったことは、最初は外国人教員で外国語の講義をしていたけれど、これを自国の文化として消化できたことだ。

今、普通に使っている日本語も、先人の努力によって、外国語の意味の本質から翻訳されたものが実に多い。こうして高度な自国の学問体系ができたのだ。自国の言葉で学問が語れることはグローバル基準で特筆すべきことである。それができるためには、物事の本質をつかむ態度が必要であり、これぞ学問である。

余談だが、東京6大学とは、この名誉を受け継ぐ一群の大学のことなのである(特に法学分野)。次世代の大学の筆頭は日本大学であるが、この”日本”には、日本独自の学問の自律性の意味合いがある。

という経緯なのだが、21世紀の大学の方向性は、スーパー戦隊ゴッコ?

日本とアイルランドの労働観の違いについて

経済統計によれば、個人所得は互角、労働生産性はアイルランドの方がずっと勝っている。日本では荷重労働が問題になっているけれど、命を削るような働き方が報われない、ってわけだ。

アイルランドを訪れておやっと思った言葉の使い方は、Lazy=怠惰の意味である。

日本で怠惰っていえば、人を非難する表現である。

でも、アイルランドでは、良い意味で使われる例が多い。

ジャガイモは、Lazyな作物だからお勧め、とか(手間をかけず収穫できるので)。

Lazyに分かる漫画中心のアイルランド語文法書とか。

自堕落な演出写真を競い合うLazyフォトコンテストとかもあったりする。

少なくとも、本質は非難の言葉ではないし、怠惰ばかりでなく効率の良さも表現することが多いと感じる。

少ない労力でより大きな効果を得られればそれに越したことはない、ってどこの国だろうと同意されると思うけれど、残念なことに日本に於いては、生活上、業務上阻害要因がずいぶんとありそうだ。

思いつく一つには、過剰な同調性。

仕事をチームワークで助け合うことは良いことだが、土台無理な仕事に対し、それ自体見直さずにみんな一緒に苦しむことそれ自体に価値を感じるような場面とか。

上司の残業にわざわざ付き会わされるような心理的圧力とか。

この時期、忘年会、新年会で忙しくなるけれど、これも仕事だったりする。ただ楽しむなら人生の元がとれるけれど、同調を強いる儀式とするならば、仕事どころか強制宗教行事だ。

この行事、何が御利益かといえば、ホントは業績に貢献していない人でも、その罪が赦される機会のなりうる点である。

まだまだありそうだけれど、原因探求は壮大な社会学の研究になりそう。

教養の宗教学 その5 カトリックとプロテスタント、テイストの違い

あくまで非信者の感覚であるが、僕的にはカトリックに親和性がある。その理由の一つは、多神教的要素があるから。プロテスタント的には、だからけしからん、となるポイントだ。

カトリックの施設を尋ねたなら、イエスだけでなく聖母マリアも崇拝の対象になっていると分かるはずだ。また諸聖人や天使たちも聖なるものとして、教義上は微妙であるが、神を仲介するものとしての崇拝の要素が強い。

こっちの方が、神仏の混淆した日本の土俗に親しんだ者として、性に合う気がする。

聖書の神は、父親原理を強烈に表現している。特に旧約聖書の神はコワい。悪い子たち(性的マイノリティーが主だが)のいる都市を丸ごと滅ぼしたりしている。

一神教の神とは元来そういうものだが、罰より受容の母性原理を聖なるものとして高めなければ、心のバランス的におかしいのではないか、だからカトリックは聖母を重視している。これは、C.G.ユングの見解だが、とても腑に落ちる。

その点、日本では、観音様信仰がこれに相応しているだろう。教義上、女性ではないけれど、その要素は多分にある。

以前こんなことがあった。

アメリカ人神父(つまりカトリック)と話していたとき、僕の志向に話が及んだが、彼は非常に興味を抱いた。「なんでカトリックの方が好き?」

答えていわく、「聖なるものがより構造化していることが魅力です」。

それなりに、深く通じた感じ。

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