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2016年10月

逆説の社会史 その14 行きづまる日本のエリート

最近の事件をもとに書く。

最高の大学卒業、名だたる有名企業に就職、待っていたのは日々残業オリンピック参加とパワハラコーチ、結果20代で自殺。

僕の身近な例では、兄弟で同様なエリート境遇、結果、心を病み、どちらもずっとひきこもり。

高齢のお父さんいわく、「今頃は、孫と遊んでいたかった、、、」

一方、アメリカのシリコンバレーのエリートたちは、自由な服装、ソファーとかに座ってパソコンをたたき、創造力を発揮、家に帰れば家族で食事が当たり前。と、聞く。

アメリカの社会は陰の部分も濃いけれど、この差は一体どこから来ているのだろう。

日本の社会は、今、目の前にあるのだけれど謎だ。

社会を知る一つの手掛かりとして、社会史の変遷から今を浮き上がらせる手法もあると思う、だからこの社会史シリーズを続けている。

またこういった問題は、小学生の親としてもその対処は重要課題と思う。

子育てとは、巨大な長期投資なのである。お金ばかりでなく、人生そのものも費やしている。これは恐ろしいリスクだ。

少なくとも長期投資の大原則として、「市場の雰囲気に巻き込まれるな、地道に続けろ、分散しろ」がある。これは、子育てにもあてはまる。

逆説の社会史 その13 職場での旧姓使用認めず、の判決

日大の中高一貫校の先生が訴えた裁判の判決のことである。これは、そもそも学校の管理権の濫用だと思う。

その職場で、受け入れられていた名前がすでにあるのなら、職業人のアイデンティティを継続するうえでも、本人が望むなら旧姓使用を認めるべきだ。

アーティストの芸名、力士のしこ名など、職業直結の名前もある。また、郷里のある人なら、その地域での通称名がむしろ”真の名前”に相当する場合がある。

一方、近代的な法治国家なら、個人を特定しなければ法制度が成り立たない。なので、日本では戸籍制度があり、この”制度上の名前”が重大な権利義務関係を特定する。この先生も裁判上では戸籍名で呼ばれたはずだし、本人もこの立場での旧姓使用にこだわらなかっただろう。

歴史を学ぶ際、多くの人は歴史上の個人名がやたらと変遷することに困惑すると思う。ある意味、前近代国家は自由な社会であって、本人の希望と社会的役割場面によって名前を変えることが普通に行われてきたし、別名が並列することも同様だ。それは、合理的ですらあろう。

総括すると、社会の必要上定められた戸籍名はそれなりに重要だけれでも、一つの名前のあり方であり、必要以上に強いるべきではない。それは、法文化的に偏狭である。

当事者の日大系学園当局に嫌味を言おう。

日本大学の生んだ偉大な民法学者高梨公之先生は、古典と民俗文化に精通し、この基盤の上に民法理論を構築しておられた。先生なら、原告教諭の主張を受け入れたことだろう。

あと、ここまで読んでくれた方に一点ご注意。僕の論調は、原告側のリベラル派弁護士の「時代に逆行し不当」のような見方を敢えてさけていることに気づいてくれたらありがたい。

子育ての技法 その6 小学生の漢字学習

結論からいえば、学年ごとの漢字学習課題の順序はそれなりに意味があるので、順序を守るとしても学校の進度を越えてどんどん進むべき。この場合、子ども的に楽しく使える”小学校で習う漢字辞典”みたいなものは、とても役に立つ。

そして、僕なりに工夫をしていることは、筆ペンでもできるだけ書かせること。とめやはらい、書き順は、美しい字を書くことの基本であり、この素養は年をとるほどその価値が発揮されるだろう。特に小学生については、姿勢を正して、集中することの訓練にもなる。

いい年をして、それなりの立場なら、相応の書体が期待される。機械印字が普及するほど、むしろ手書きの価値が見直されていると感じる。

僕的には、手書きの署名とか、文化水準が問われそうで結構コワい、といつも感じる。慶弔の場面でお金を包む紙袋だが、何度も書き直していると実にみじめである。

本題に戻ってみると、漢字は英単語みたいなものだ。漢字がわからないと、文章を読むことが面倒くさくてたまらない。裏を返せば、漢字学習は読書量を加速させ、文章を書くこともより習慣づけられる。つまり読解力、文章力の基礎だ。これは、全ての科目に波及性がある。

たとえ算数、理科の問題でも、込み入った文章で設問がなされる場合がある。漢字についていえば、社会科では、地理、歴史の分野で”小学生の習う漢字”以上の漢字もありうる。

逆説の社会史 その12 ルネサンスと魔術

今日の日経、春秋の記事について。レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵図なのだが、人の両手両足の広げ方によって、円と正方形に対応するというものがあり、その解釈は天と地を象徴するとされる。

この記事では、この図は、、、ルネサンス期の人間中心の価値観を示すものという、とある。

確かに教科書的には、宗教的に硬直した、抑圧的な?中世から、ヒューマニズムが開示されるルネサンスへ、とされるが、裏の側面もある。

それは、ルネサンス期こそ、ヨーロッパの魔術の全盛期でもあったという一面である。そしてその思想的裏付けは、新プラトン主義。当時のイタリアの名だたる名門一族たちは、この研究に熱心であった。

幾何学的な設計が宇宙の背後にあると考えるプラトン主義、そしてこの理法がこの地上の万物に”流出”していることを強調する思想は新プラトン主義である。

応用的に、天体の動きが、地上に影響を与え(インフルエンスし)、疫病の流行をもたらすのではないか、これってとても魔術的な発想であるが、インフルエンザという病名として名残をとどめていたりする。

もう少し穏当に、大いなるコスモス(大宇宙)の理法は、小さなコスモス(小宇宙)たる人体にもある、レオナルド・ダ・ヴィンチのあの絵図はむしろこの意味だと思う(このビジョンの広さが彼の天才性なのだろう)。

だから人間って素晴らしい、と考えることもできるが、近代的なヒューマニズムとは異質に感じる。

よく似た話として、近代科学の先駆者ニュートンの逸話がある。ニュートンの遺品を調べたら錬金術ネタばかりであった、、なんて話もある。

魔術師ニュートンの片鱗を都合よく解釈し、科学者ニュートン像が出来上がったのか?これは、科学史の興味深い課題であろう。

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