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2016年1月

逆説の社会史 その4 パタハラと十七条の憲法

育児の責務を全うしようとする父親に職場で嫌がらせする、これがパタハラである。

家庭に幼い子供をかかえ、残業時間の会議に消極的な父親社員に対し、

「君がいないと会社の業務に大きな支障がある」と、引きとめるなら考慮すべき合理的な理由があるかも知れないが、

「君は会社のを乱している」と非難するような例も多いそうだ。

これは、日本国憲法の理念に反し、労働法規上も問題がある。が、聖徳太子の定めたとされる十七条の憲法の内、「和を以て尊しとなす」には形式上整合する。

会社とは、実に近代的な制度であるが、その内情は、現憲法より、古代憲法が優先されたりもする。

そもそも、マタハラ、パタハラは憲法を超えた自然法違反なのであるといえる。

ヒトって、哺乳類の中でもとりわけ育児期間が長いのだ。種の存続に不可欠の義務に圧力をかけることは人類の存続を妨害する罪に相当するだろう。

ついでにいうと、知育的には、小学校低学年までに、子どもの将来の学力はほぼ決まる、といっていい。

また、教育投資的にも、この時期の投資効率は絶大である。この場合、投資とは、親による子どもへの生活全般への適正な関与である。

逆説の社会史 その3 真田丸と裏切りの作法

つまり、大河ドラマの話。武田勝頼の最期は悲壮であるが、魅力ある描き方だった。家臣団の離反の様子はそのまま史実に近い。

そこでこの家臣たちの気持ちを考えてみよう。

封建主義の根幹は、忠義。しかし、これは集団的契約関係の一側面のようなものだ。君主の保護があってこそ忠義の裏付けがある。

家臣は、一族の利益を代表して君主に忠義を示す。大切なものは、自分の家族、一族である。君主が滅亡に向かっているとなれば、裏切りも考える。これが家長の責任だ。

けど、タイミングが早すぎれば不忠義のそしりを受ける。この推定を覆すための大義名分も必要だ。敵方としても、あまりにあっさり裏切るヤツなんて今後信用できない。「この不忠義者!」とか理由づけして、成敗すべきじゃないかとも考える。

まだ君主の力のあるうちに、大きな合戦で華々しく戦死するのも一族のためになったりする。勝頼でいえば、長篠の合戦である。

この合戦では、武田を支える多くの武将が戦死したが、その分歴史に名を残すことができた。長篠の合戦では、武将たちが勝頼の無謀な戦術を諌めたが、聞き入れられず、勇敢に散っていったとされる説話もあるが、これは、個人の名誉の問題だけではなく、家名が一族にとって有益なブランド名ともなった。その分、勝頼の評価が低くなっているようで彼が気の毒である。

家康は、信玄を武将として尊敬していたし、後の徳川幕府は、武田の遺臣、関係者をそれなりに厚遇した形跡がある。では、政策上、裏切り派と忠義派の待遇の違いはあったのだろうか?いろいろエピソードがあるのかも。

ラテン語の世界 その29 Dum Spiro Spero、命と希望

Dum Spiro Spero /ドゥム スピーロー スペーロー

国際性を掲げる私立小学校の広告に、この言葉をモットーとしたエンブレムがあったので書く。

それっぽく、訳せば、”命ある限り希望がある”。むしろ、ホスピス向きかな。

限界状況にある人を励ますような意味だ。

直訳では、

私が息をする間、私は希望を持つ。

内訳は、

Dum/~の間(接続詞)、Spiro/息をする(動詞)、Spero/希望を持つ(動詞)

主語はどこにもないけれど、動詞の変化形で、一人称=私が主語と決まる。

日本語のように、主語をあいまいにできない。

この表現は、良く知られたもののようだけれど、文法的に簡単な応用をしてみよう。

たとえば、私→私たち、貴方とか換えるにはどうしたらいいか?

①Spiro、Speroは、一人称現在なので、幸い、辞書にそのまま記載されている。

②辞書を引くと動詞の「不定形」を突きとめることができる。

③不定形を突きとめると、どんな変化パターンの動詞なのか判明する。

④特定の変化パターンに従ってその語を変化させる。

謎解きみたいな手続だが、これがラテン語の世界。現在形ならこれで済むけど、過去形が三種類あったりするので実に複雑。でも、その変化形は美しいほどに整然としている。

Dum Spiras Speras/貴方に命ある限り、貴方は希望を持てる(希望を失ってはならない)。

二人称型でかっこよく決めるとこんな感じかな。

ところで、辞書を引くって義務教育で学ぶよい習慣なんだ。

Spiro/息をする、Spero/希望を持つを引けば、同じ言葉の別な意味に出会うこともあれば、呼吸や希望といった名詞にも出会うことができる。

Spiroには、霊感を受ける、詩を作るの意味もある。これは、興味深い世界観を想定させるものだ。

名詞としてSpiritus(スピーリィトゥス)/呼吸は、命や精神の意味もある。

それは英語のSpirit、Spiritual の明らかな語源と分かる。

 

逆説の社会史 その2 維新の意味

教科書的には、明治維新は、日本の近代化の大きな一歩と解釈されている。これこそ、先の記事で述べた進歩史観である。

広辞苑を引いてみると、この言葉は、儒教の古典、詩経に基づいている。

儒教的な世界観では、古(いにしえ)の聖人王の統治こそが理想であり、そこに改めて立ち戻ることが課題となるはずだ。つまり、全く進歩史観とは逆方向。

そして、明治維新の主役たちは、儒教の古典の素養を徹底的に学ばされた人たちでもある。事実、幕府を倒し、古の天皇中心の政治を復活させたのだし、明治政府の初期の段階では、存続していたが形骸化していた律令制(大化の改新で確立したあれである!)を復活させている。

なので、文明開化と讃えられる明治の近代化は後の成り行きの問題である。

明治維新の志士のファンの方は多い。

僕は逆に佐幕なので、志士に憧れて政治家になったり、実業家になろうとするタイプを”維新ゴッコ系”と呼んでいる。

”維新”は、政党名にもなっている。政策上注目すべき点もあるのだけど、この政党は特に地方分権を志向している様子だ。

ちょっと待って。それって変じゃないか、幕府の政治体制はとても広範囲に自治を認めていた。中央集権化を強力に推進したのは、明治維新の政策である。

逆説の社会史 その1 新年と進歩の思想

さて新年らしく、新しいシリーズを。

お正月がなぜめでたいのか、といえば、民俗学の課題だ。そしてこんな理屈になるだろう。

過ぎし年の穢れを祓い(寒い中大掃除なんかして)、新しい歳神様をお迎えする時が到来したから。

日本の文化は、新しさにこだわる。元はといえば、神様たちが新しいものが好きなのだろう。なので、格式ある神社は、厳格な儀礼を以て一定期間ごとに社殿を建て替えるのが習わしだ。

とはいえ、これは循環的な営みで、年代を重ねるごとに一定の方向に歴史がしかるべき向かっていくという発想はない。つまり、歴史の進歩のことだ。

一方、西洋の思想では、歴史の進歩が重要な基調としてある。これまで、名だたる思想家、哲学者がこの裏付けを行ってきた。近代化、民主主義の発展、抑圧から解放、人権の拡張などこれらを総じて進歩史観と呼ぼう。これが、今では当たり前の正しい価値観となっている。

たとえば、「それは古い考えです!」という言葉の真意が、「貴方は間違っています!」という意味なら、この進歩史観を前提にしている。

でも、あえて距離を置いて考えてみるとどうなのだろう。これは、このシリーズの主題の一つなのだが、これから徐々に踏み込んでみたいと思う。

とはいえ、僕的には今の社会の価値観をひっくり返すような意図はない。ただ、見落とされている大切なことを発見したいと考えている。

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