« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »

2015年9月

下北・青い森紀行 その5 ささやかに脇野沢観光

遠い夏の日のバイクの一人旅、当時は、村だった。今はむつ市の地区。歴史あるユースホステルがあり、今も当時と変わらない外観になつしくかつホッとすることができた。あっぱれ創設1965年である。

時間を超え旅のイメージを重層できる楽しみはリピーターの特権である。

基本は漁師町であろうが、山が深く北限のサルでも知られている。

ささやかだが、観光のコンテンツは豊富である。一般的な民宿は3軒ほど。フェリーや遊覧船の発着港がある。海水浴場、海のいけすで釣りを楽しむ設備(海釣り公園)、猿害対策として群れを丸ごと捕獲して管理している野猿公苑、温泉(銭湯的な小規模のもの)、道の駅、なんとかレストランも一軒確認できた(釣った魚の調理を依頼可)。

周囲20㎞圏内には、奇岩の名所仏ヶ浦が北にあり(佐井村)、むつ市方面に戻れば、川内地区に海水浴場「まりんびーち」がある。この海水浴場の設備は新しく整っており、地域おこしの情熱が感じられる(陸奥湾の海水は冷たいが)。

道について述べる。むつ市からの国道338は、脇野沢でほぼ直角に北上しするが、これが海峡ライン。厳しい山道だが、仏ヶ浦はその途中にある。

かもしかライン、という道もある。本当にカモシカに遭遇しうるだろう。海峡ラインと同じく佐井村に通じている。

この道は、川内の町から北上するルートで、渓流沿いの山道である。さほど曲がりくねっておらず、切り立った断崖、渓谷的な見せ場がある。紅葉の季節には綺麗だろう。途上に温泉もある。

途中左折すれば、ダム湖がある。川内湖だ。湖畔の森の中に道の駅があり、食事もできる。この湖の中央から微妙にさびしく一本の噴水が上がっていた。

脇野沢に戻ろう。

朝起きて、北の街の日常を楽しむ。海岸通りの散歩がいい。

折しも、漁港に魚が揚がっていた。普段はかなり静かな町なのだが、この時間はかもめも騒々しくにぎやかだ。

以下、海岸通りの景色。

Photo_2
漁に使う浮きである。ガラス細工の工芸品にも見える。

Photo
防波堤に、地域の生活の様子を描いたタイルや、ホタテの貝殻が埋め込まれている。子どもたちの絵がかわいらしい。

Photo_3
ところどころモニュメントを配置した海岸の歩道。モニュメントには、猿やカモシカがあしらわれていた。この花は薔薇ではない。ハマナスである。

Photo_4
ハナマスの実がたわわに実っていた。

この植物は、北国の短い夏と長く厳しい冬を象徴している。

下北・青い森紀行 その4 脇野沢へ

司馬遼太郎は、初めて陸奥湾を見た印象を、「陸奥のみち」で、このように語っている。

「この光景をさびしいとか際涯(さいはて)とかと感づる感覚は、われわれが二千年という長期間、弥生式水田農耕という暖地生産で過ごしてきたことからきた百姓式の感覚であるに違いない。」

これは当時1970年代の印象で、その後はそこそこ開けているはず。観光施設だっていろいろある。ただ、今や少子高齢化の波の洗う先端の地。これは、この旅で心底感じたことだ。いずれ、詳しく書いてみたい。

陸奥湾は、ホタテの養殖がさかんな内海だ。悪天候ともなれば、波頭が道路を洗うこともあるけれど、僕の印象では穏やかな北の海。外洋の荒波が打ち寄せる半島の向こう岸とは対照的に感じる。

浅虫を出発し、むつはまなすラインへ、そして一路陸奥湾沿いに脇野沢を目指す。下北の大都市、むつ市の市街地はそこそこ渋滞もするが、このルートは爽快である。

南部藩と津軽藩の境界のあった野辺地、広大な菜の花畑で知られる横浜町(横浜とは長い海岸線の意味だろう)、会津を追われた藩士たちがたどりついた大湊、今はむつ市に編入されている旧川内町、そして、これも今はむつ市の旧脇野沢村となる。その行程は4時間ほど。

ここまで来ると、その先は津軽海峡である。

Fiddle/フィドルとバイオリンそして津軽三味線

この記事は、「青の森紀行」の伏線でもある。

辞書で、fiddle と引くと、バイオリンと第一の意味がある。しかし、ぺてん、詐欺、ぶらぶら過ごす、とかの否定的な意味が隠語的に関連する。

欧州の音楽上、バイオリンは、クラシックの楽器であり、フィドルは民族的、土着的な音楽の演奏の楽器である。でも、「ブツ=楽器そのもの」は同じである。

この「ブツ」は、日本では、ほぼ前者の意味でしか使用されていない。なので、良家の子どもが習うイメージ。音楽大学の正統な教育課程でもある。しかし、後者の世界もそれはそれで奥が深く広大である。

アイルランドの路上で、フィドルを弾き、投げ銭を稼ぐ人がいる。こんな”文化”がフィドル演奏の土壌だ。

物語的にいえば、飲んだくれの父がいて、病弱な母がいて、子どもが路上でフィドルを弾き、日銭を稼ぐ。

その技量に一家の生活がかかっている。だから、技術的には相当なものだ、客のリクエストにも応じるので臨機応変、でも、楽譜の読み方は知らない。

津軽三味線を世に知らしめた高橋竹山。この人は、まさにフィドルな人だった。

目が見えず小学校はほとんど行かなかった。そこで、親は14歳のとき、三味線弾きに弟子入りさせ、16歳のとき自立した。

自立、それは、日銭を稼ぎ自分で生きろ、ということだ。実質は放浪演奏。

竹山の伝記には、「門づけ」という言葉がよくある。これは、家々を尋ね、演奏し、米やわずかな金をもらうこと。極限的な演奏活動の形である。

竹山の同郷の人に「知ってます?」と尋ねたら、「あ、おもらいさんね」と言われた。つまり、「物乞い」としか見られていなかったことがよくわかる。

ところが、竹山の晩年には、大きなステージの独奏があり、海外演奏旅行も実施された。それは、彼自身の卓越性と支持者の成果だ。時代背景も大きいだろう。

こうして、一つの音楽ジャンルとして”津軽三味線”が確立した。楽器として津軽三味線は、太棹だそうだ。でも、竹山にいわせれば、それは舞台に立つからできること。というのは、毎日遠距離を歩く、「門づけ」に太棹では重すぎる。過酷な時代を生きた人だから分かる実感だ。

参考:「高橋竹山に聴く ―津軽から世界へ」 佐藤貞樹著 集英社新書

下北・青い森紀行 その3 青森あるいは麗しのSilvaCaerulea

この県名、率直にいえば、素敵である。

あの戊辰戦争の後、官軍に恭順的ではなかった地域は、よく知られた地名を県名として与えられることがなかった。これは正確な意味で嫌がらせである。

しかし、結果的に青森はよかった。だって、素直にイメージが湧く。美しい森、青森ならヒバの大木が静かに広がる光景が目に浮かぶ。こんな県名はあまりない。その意味もあって青森は小学生でも知っている県名のトップ3に入っているそうだ。

青森出身者がヨーロッパを旅して、故郷を尋ねられたなら、JapanのBlueforest?、いや、SilvaCaerulea (シルウァカエルレア)国から来ました。

と、青い森をラテン語に換えて答えてみたらどうか?

グローバル的にかっこいいだろう。北欧のような森林と歴史・文化の深みを相手にイメージさせることだろう。

ついでながら青森をそのままネーミングに生かし、「青い森鉄道」も走っている。地域の人たちの生活を感じさせながら、一両、二両でコトコト走るのもいい。運転手さんとの距離感も実に近い。

ちなみに、”鉄道むすめ全国マップ2015年版(パンフレット)”によると、青い森鉄道の八戸ときえさんが、筆頭のイメージガールである。

最後に一言、しくじったね官軍!

下北・青い森紀行 その2 浅虫温泉

長い八甲田トンネルを抜ける、そこが東北新幹線の終着、新青森駅。ここでレンタカーを借りた。

駅の構内は、さすがに地域観光色豊かだが、外に出ると空き地ばかりで、旅情もしぼむ。だが、これから、である。

青森の市街地を抜け、青森湾沿いに浅虫温泉を目指す。陸奥湾を二分する夏泊半島の西側の付け根にあたる場所である。アクセス的には、青い森鉄道の浅虫温泉駅も利用できる。旅の最終日にもう一度浅虫に泊まるが、このときはこの駅から降りた。

そこそこ大きな温泉地で、水族館もある。宿から青森湾(陸奥湾の西の一部)を望むと、大きな島が見えた。これが、湯ノ島。浅虫を景観的に象徴する島といえる。素朴なおにぎり型で、その単純明快さがかえって印象深い。

Photo

夕日のシルエットの中、よく見ると朱の鳥居が見える。地図で確認すると弁財天宮とあり、日本の神社として、この場所に弁財天を祀ることは実に基本に忠実と思う。つまりこの点では、鎌倉の江の島などと文化的に等質である。

温泉地に湯ノ島。なるほど、しかし浅虫って何だろう。元は、”麻蒸し”だそうだ。つまり、おそらくは温泉を利用した繊維加工にちなむ名称であり、少し奥が深い。

ここをベースに、下北半島へ行く。世俗的な場所から、異界的な聖なる場所へ。

« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ