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大学と教養 その1 普通科高校で学ぶこと

最近の大学をめぐる状況は、ずいぶん混沌としている。リベラル・アーツを前面に出し、これこそグルーバル人材育成と謳う向きもあれば、大多数の大学は職業訓練中心でかまわないという有識者の見解もある。

でも、改めて思うのだけれど、では、高校で学ぶとされていることって何だろう。

こんな人イメージしてほしい。

外国語を理解し、自国を含めた世界の歴史を俯瞰でき、古典文学を観賞し、宇宙の仕組みを知り、身近な物質の組成、物体の力学を数式化・記号化でき、生物の営みをDNAレベルで把握可能、複雑な数式を解き明かし、体育で体を鍛え、芸術もたしなむ。

素晴らしい教養人でしょ。こころ豊かで幸福そうだし、人格も崇高な感じ。

これ、文科省が定める普通科高校の学習指導要領を基にした修了者イメージである。工業、商業などの高校であっても、科目は原則同じ。実務オプション付きと考えればいい。

高校の普通科目の構成は、ヨーロッパの伝統的なリベラル・アーツの基準に見事に対応している。ただし、いずれも仕事でそのまま使える素養ではないが、世界のどこでも胸を張れるだろう。だったら、大学のグローバル教育って何なんだ?

もちろん、現実離れしている理想である。が、目標にすることが肝心だ。これをゆがめているものがあるとすれば、今の受験制度。つまり、学業の受験手段化。

ところで、リベラル・アーツのリベラルって何だ?政治的な立場?

いや、元の意味は、「奴隷じゃない」である。その本質は、「自由人としての誇り」と解釈できる。

実際問題として、働く以上、「強いられて労働する」場合が大多数なので、こんな中世的発想をそのまま現代に適用させるわけにはいかない。とはいえ、教養それ自体を手段とのみするならば、精神の奴隷化である。

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