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2015年4月

北海道紀行 その4 アイヌ模様の意味

阿寒湖のほとりにあるホテルの展示なのだが、ここのコレクションは素晴らしかった。展示物の質もさることながら、アイヌ文化を内面的にも一覧できるように配慮が行き届いていた。

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そこで文様についてレポートしたい。ただし専門家でもないので、短い滞在で自分なりに気がついたことである。

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特定の文化の産物だから、それなりの様式があるし、意味もある。

コタンの民芸品の作者から伺ったことだが、重要な特徴は、棘状の突起をデザインに含むこと、文様に囲まれた地の部分として、左右対称に”目”を入れること、だそうだ。

これら2例のデザインは、一見対照的な曲線型と直線型であるが、このポイントをどちらも含んでいる。

意味的には、魔除けである。

他の民族にも例は多いが、突起や目に相当するデザインの要素はそういったものなのだろう。とくに、上着の背中の部分なら、防御的な感覚に添うものである。

自然相手の狩猟採集民の生活が、こういった呪力への期待をデザインとして洗練させたってこと、改めて気づかせてくれたのがアイヌ模様だった。

アイヌ模様が、現代的にアレンジされファッション的に活用されていく方向性も良いことだと思う。けど、本来そこに込められた感性への配慮があるならもっといい。

風のかたち石の記憶 アイルランドの立石

季節がら紀行物を再開。アイルランドが中心だが、その他近隣地域の風景、遺跡などもご紹介したい。

アイルランド南西部、この地域はケルト以前の古代のモニュメントが特に密集している。バントリーの街から南西に細長く伸びた半島部分、旅行者の足も途絶える地域だが、尋ねてみれは遭遇できるだろう。

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立石(スタンディングストーン)は、最も単純な遺跡だ。大小さまざま、尖ったものもあれがこのように板状のものもある。これは4m弱もあろうか。荒涼とした風景の中で特異な存在感を発出している。

古代人の意図は数千年の時を隔ててかき消されたままだ。ただ存在そのものになって立ち続けている。

子どもとの対話 魔法と不可知論、そして科学

うちの娘が尋ねる、「魔法って本当にあるの?」。

僕は質問で応える、

「どうしてもタネの分からない手品と、本当の魔法の違いって何だろう?」。

人の理解の及ばないことってある。超自然なできごとに素直な驚きを持つこと、これがまず大切なことだ。

日常、と表現される世界の中にも、神秘や謎が満ちている。「哲学とは驚きの産物だ」、これはアリストテレスの言葉だったっけ?

つまらない大人とは、この驚きの感覚を失った人の一例である。

科学、今、この言葉が非常に狭い意味で使われている。その理由は、”所定の手続”に縛られるからである。しかし、”所定の手続”自体を正当化できるものは科学ではない。

「科学的に証明が、、」なんて言い方は科学にはふさわしくない。なぜなら、科学は未知の領域に開かれた知の体系だから。

科学/science の語源は、ラテン語のscientia。”知識”なのだが、scisco、動詞もある。その意味は、”探求する”だ。

そして、探求心の源とは、素直な驚きである。

ラテン語の世界 その28 分かりやすい入門書

「ラテン語のしくみ」小倉博行著 白水社

最近読みだした本だが、「ラテン語の世界」を、分かりやすく見通すことができる点で、卓越した構成となっている。

146ページのコンパクトな本だが、読み方、アクセントに始まり、日常の使い方に即す形で文法構造が見えてくる。

軽い、しかし古典の深みはラテン語ならではだ。日常場面で、さらりと使ってみたくなる。

たとえば、「このデザートもっと食べてみたいけど、甘いもの食べ過ぎはヤバイかも?」

この気持ちを、

”Appetitus Rationi Obediant”/アッペティートゥース ラティオーニー オベーディアント

(訳) 欲望が理性に従いますように 

と、心の中でつぶやけば、もっと抑制がきくだろう。

そもそも、ヨーロッパの教育の伝統として、ラテン語の学び方は確立している。しかし、それはヨーロッパ系の言語が身についている人たちを対象としたもので、全く異質な言語である日本語を使う者にとってふさわしいとはいえないのではないか、と僕は感じてきたが、その答えの一つとしてこの本に出会うことができた。

エイプリルフールと自己言及のパラドックス

今日は4月1日なので、こんな話題。

たとえば、ある政治家が街頭演説でこんなこと言ったとする。

「みなさん、政治家の言ってることなんて、嘘ですよー」

一見、もっともらしいけれど、まじめに考えると思考にバグが出てしまう。論理につじつまが合わない。だって、この人も政治家だよ。だったら言ってることの意味どうなるの?

突っ込んで考えると、それは論理学・哲学の課題の扉が開くことだろう。

自己言及のパラドックスは、日常、時どき発見できたりする。

もっとも、「自分だけは別」として、自己言及を避ければ整合するわけだけれど(自分でこのパラドックスにハマっている人は暗黙にそのように考えているわけだが)、この「自分だけは別」感覚は、心理学の課題である。

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