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2015年1月

世界観という言葉について

思わぬ場面で耳する言葉として、少し気になっている。たぶん、○○の世界、なんて表現されてきたものに、幾分思想的な深みを多少加えた感じかな、っと思っている。

僕自身定義すると、

個人の具体的な作品等の背景となっている一つのまとまりのある観念的背景。

思想といったら大げさだし、強く主張を表現するものでもない。

だから、こっちの世界観が正しいとか、間違っているとかそんなことは野暮であって、この世界観おもしろいよね、共感できるよね、なんて軽い批評に向いている。

鋭く批評するとお互い傷ついてしまったりするから、それもアリかもね、で済ましておく。

この感覚、とても今風に感じる。

ただし、本来の意味で世界観とは、個人においては価値観や生き方を決める要因だし、国家も特定の世界観で成り立っている。

あのイスラム国をめぐる問題は、世界観の衝突でもある。

改めて世界観を意識して、このブログも続けてみようと感じる。

挨拶の意義について その3 挨拶の魔力につて

思うのだけど、大人社会では、しかるべき挨拶は当然。それをしないで平穏な社会生活は続かない。けど、幼児の元気な挨拶は、強力な心理効果がある。魔力と言ってもよいほど。

気持ちに裏のない、率直な他者肯定のメッセージだから。そして大人も明るい挨拶を返してくれる。そして、プラスの連鎖が始まる。

子ども的には、自己肯定感の厚みが増していく。この厚みは、社会で生きていくうえで自分の心を守るシールドとして機能していくものだと僕はイメージしている。

ところが残念なことに、小学、中学、高校へと進むに従いはつらつとした挨拶が少なくなっていくように感じている。

統計的に、日本の子どもは、世界基準で自己肯定感が異様に低い。その背景を明らかにすることが非常に意義のあることだと思われる。

少なくとも挨拶のスキルは必要である。その実践には、ささやかな勇気が必要だが、挨拶で失うものなど本当はない。そうしないとマイナスの連鎖が始まる。

著名な心理療法家アルバート・エリスは、引っ込み事案な若者だったそうだ(モテないダメ男という思い込みによって)。

ある日、思い立ち、積極的な挨拶攻勢を実践してみた。そして、彼の対人関係は劇的に変わった(挨拶と表現したが、具体的には女の子に声をかけることである)。これが彼の心理療法家としての原点である。

要旨は、「実践し、検証し、自分の誤った信念を粉砕せよ」である。

子どもたちの魂をこの世につなぎとめるささやかな自然

なんだかアブナイタイトルにしてみた。これは僕なりの危機感の表現だ。

保育園のお友達たちにねだられて、うちの娘が、庭の植物を摘み、プレゼントの包みを作る。そして保育園へ。

包みの中身は、レモンバーム、ローズマリー、日本水仙、少し紅葉したアイビーの葉、フウセンカズラの種(ハートマークが明瞭でかわいい)。

全て生きた自然の対象物で、いくつかは独自の香りを楽しめる代物である。

ささやかなアレンジなのだが、子どもたちはとても興味を持って受け取ってくれるようだ。

そういえば、娘がクリスマス会で髪に差した西洋ヒイラギにも大きなインパクトがあった。

このように、子どもたちが、この世、つまり自然界に、関心をつなぎとめる文化を広めてみたい。

もうすぐこの子どもたちは小学校へと進学する。

いまどきの小学生は、ゲーム機などを通じてサイバー空間に”魂”を封じ込められがち、と僕は解釈している。そこに追い込む力はなかなか強大でもある。

それは事実上必要な経験とも考えるが、行ったきり、では問題だ。文字通りの依存症である。

だから予防策として、娘とともに植物を配る。生まれながらにある豊かな感性を通じて”この世”とつながる楽しみを持ち続けさせるために。

教養の法学部

最近は、法学部の人気が低下気味。その理由の一つは、国際関係何とか学部とかグローバル系に人気を取られているからだそうだ。しかし、僕は、法学部を応援したいのでこの記事を書く。

特段、法曹を目指さなくても、国際的にも、教養的にも法学部で学ぶ価値は大きい、と、心理学科卒業後、わざわざ法律学科も卒業した僕がお勧めする。

国際性といえば、

法律学って、元は欧米の学問なんだ。東京六大学など、その輸入窓口である。そもそも憲法や法律で緻密に国家、社会を統治しようとすること自体、日本古来の発想ではないが、近代化に必須と考えられたからだ。

フランス法系、イギリス法系など大学別に色分けもあったりしたが、日本の社会に適用できるように、改良を重ね今のような法体系が出来上がった。多くの日本人が、中国やイスラム法圏とかは別として、国際的な基本的な価値観を共有できているのは法律学の成果である。

だから、それ自体、十分”国際”である。逆説的あるが、だからよその国との制度の違いもよく分かる。そして、”関係”、国際間の実務上なら相互の利益の調整が問題だが、これも法学の分野。具体的には条約や契約の約定と解釈のことだ。

社会人的教養としても、重要。

たとえば、大学生にとって就職とは、通常、組織に雇われることだ。多くの場合、株式会社なのだけど、それ何って具体的に答えられる学生ってどれほどいるだろうか。

正確に答えるためには、会社法の言葉が必要になる。

いいよ、経営側じゃないし、ってそれなら、労働法。

いずれにせよ、社会の中の自分のポジションをどれだけ自覚しているか、これが法学教養の問題。

僕は心理学を学んだ者として、つくづく感じる。社会に対してアクションを具体化できる点では、心理学的情報は法学的情報に及ばない。

たとえば、借金苦で自殺を考えている人がいたとする。

心理検査で心情を把握し、適切なカウンセリングをする?

急場をしのぐ意味はあるとしても、、、

債務はそもそも法律問題である。だから、その筋からの解決が正攻法である。要は、債務者ポジションをどうやって外すか、「時効が切れてますね」とか、「この契約は無効です」で終わる例もある。

ベイマックスを批評する 残された心

海外の視点だからできたサイバーな和、これがベイマックスの世界描写。外国人が注目しそうなコンテンツを、十分に消化して創造的なアレンジとして緻密に構成している。街の光景は、都内に思いつく場所があちこちあったりする。

ただし、基盤はアメリカンなおたく世界であって、この”風土”のテイストではあくまで洋物。

悪と戦うロボット物とありきたりの範疇に入れることもできるが、悪にもいろいろあって、かつ、どの悪もそれなりに了解可能なありうる悪なのだ。

悪は、三つ登場する。見えにくいところなのだが、このアニメの良くできた点は、悪の描写だと感じる。

企業の強欲、個人的復讐心、そして、与えられた才能の無駄遣い。最後の一つは、主人公の心の成長に関わるものだが、いずれも実はヒューマンなもの。

そして、これらに対するものが、ベイマックスに封じられた愚直な良心。

ベイマックスが、まさにロボット的に!良心を行動化する姿勢が観る人の心を打つという筋書きだ。

以下ネタばれの要素を含むけれど、、

クライマックスで、うちの娘が大泣き始めた。「ベイマックスかわいそう!!」。僕の隣のお姉さんもグスグスしている。

でも、残されたベイマックスの右手に握られたものがあった。

僕、「ベイマックスは心を残してくれたんだよ。」

娘、「その心は命なの?」

僕、「そう、命でもある。だから大丈夫」。

なんて、やりとりがあったりした。

このアニメはとことんサイバーで、破壊の描写も激しいが、死の描写は一つしかない。けど、その死は、善き魂の不滅を表現している。

そして、、、

映画館を出たら、”人身事故”で電車のダイヤが混乱していた。これが東京の日常である。ある意味、これも心の残し方なのだけれど、現実はむなしいね。

ラテン語の世界 その27 慶応大のエンブレムと英語教育

先日、慶應大学の大学院生(経営学)から、一経営者(だったんだよね僕)として、研究上のアンケートを依頼された。その用紙のデザインのことだ。

しっかり、盾形のエンブレムが記載された大学所定の用紙なのである。なんだか、大学からの正式依頼みたいでしっかり「お答えいたしましょう」って気になる(権威主義も感じるが)。

盾形のエンブレムって、欧米の大学ならどこでもそれなりのものを持っているが、日本の大学ではそれほど普及していない。

やたら英語にこだわって「スーパーグローバル」!?化を目指しているくせに、こういったツールのことは無頓着のようだ。

で、そこには、なんとか大学って自国語で分かりやすく表記するが、通常、MOTTOがラテン語で別途記載される。そうしないと、普遍性のある学術性が疑われるだろう。

慶應大学の場合、

CALAMVS GLANDIO FORTIOR/ペンは剣よりも強し 

こんな具合。勉強に気合が入りそう。

大学関係者に言いたい。よくわからない名称の学部学科を乱造するより、ビシッと決まるモットーを考案し、世界に発信したらどうか。

最近まで、即戦力(とりあえず就職できる技)が教育目標のようだったが、最近はリベラルアーツだそうだ。リベラルアーツって、ラテン語を基盤とした教養の体系なんだけど、、、

以下余談。

今あるかどうかわからないけれど、ある英会話学校が、エンブレムを掲げていたそうだ。

そこには、ラテン語で!このようにモットーが掲げられていた。

VOX ANGLICA VINCIT OMNIA/英語はすべてを打ち負かす

だってさ!

NHK名曲アルバムでアイルランド音楽

今月のNHK名曲アルバムで「サリー・ガーデン」(Down by the Sally Gardens)がスライゴーの風景とともに放送される予定、とその筋から連絡があったのでご連絡。

放送日
8(木) Eテレ10:25
20(火) Eテレ6:20
25(日) 総合4:20

興味のある方はご覧ください。


教養の宗教学 その4 元旦の日の出

今年は太平洋側でも雪が降るような天候だった。なので、元日の日の出を観に行ったとか、そんな話題は乏しかったようだ。

この習慣は、素朴な太陽信仰に基づいている。日ごろは、日の出なんて気にしない人でも、元旦なら少しは有りがたく感じるものだ。

小泉八雲、ラフカディオ・ハーンは、明治時代の日本人について多くの記述を残してくれたが、毎朝太陽に向かってかしわ手を打つ人たちに感銘を受けている。

当時は、毎朝日の出を拝む人も多かったのだろう。

「日月無私照」って言葉がある。太陽は、誰にでも光をもたらす有りがたいもの、普遍的な恩恵だ。日ごろからこういった恩恵を受けているという生活感覚は、倫理観と密接に関連していると推測する。

朝日を浴びながら悪いことしようなんて人は、なかなか想像できないじゃないか。

ところで、イスラム教徒なら、日の出ばかりでなく、日没も礼拝の時間となる。だからといって太陽を拝んでいるわけではない。太陽を含め、世界は神の創造物なので、太陽そのものを拝んだら重大な違反だ(多神教になってしまう)。

一神教とは、そういうものである。ここから始まる世界観の違いは、歴史とか、文化とかを語るうえでとても重要になる。

教養の宗教学 その3 お正月の意義

若水って言葉がある。定義は、元旦の朝に初めて汲む水。この水は神聖とされ、一年の邪気を除く意味合いがある。

水道の蛇口にしめ飾りを結ぶ習慣のある家庭もある。水道水ではそれらしくないけれど、これはとりあえず若水を迎える意味。本来なら、井戸水や湧水のある場所なのだろう。

西洋の社会では、新年にことさら宗教性を求めないけれど、日本の習俗では、世界がリセットされ、新しくなるような特別な意味合いがある。

旧暦ならもう少し遅いけれど、だんだん日が長くなり、自然界の命が新しくなる様子に、人間もあやかろうとする素朴な信仰なのだろう。これを基盤として、神道とか、仏教にも関連付けられた行事が派生したと考えれば自然だ。お札を新しくしたり、初詣したりそんな具合。

前年の穢れを祓い新たな年を清らかに迎える、といえばより神道的だが、忘年会の憂さ晴らしも、年末の大掃除も(実施は気候的に最悪だが)もこの信仰にしっかり附合しているし、前者は精神性、後者は物質性に対応している。

日経新聞で、お正月の意義について的確な英文を見つけたのでご紹介したい。

”...a time to clear away the impurities we accumulated over the past year,so that we can start with a clean slate in January”

ところで余談。

ある大みそか、近所の神社へ初詣に行ったが、そこでは厄年の人たちが日本酒をふるまっていた。で、いただいたのだが、その後ひどい発熱となり、寝たきり正月になってしまった。まさに厄落とし!こっちは、厄受けであった。

勇気と障害、ある鳩の生き方

「ゆうきのはとさん」と、娘はその鳩に名づけた。以下、エピソード。

とりあえず餌やり禁止のない公園、少しばかりのパンくずを持って行く。

娘は、身近にパンくずを置く。間近に鳩を見たいからだ。前にも記事にしたが、鳩にも個性がある。人間が怖くて近づくことができないタイプもいれば、手のひらから餌をついばむ強者もいる。

そいつは彼か彼女か知らないが、もっとも大胆な鳩だった。鳩の群れの先頭で悠々と餌をついばんでいた。

ふと見ると、足の様子が酷い。先天的か、後天的か知らないが、半分溶けたようになった足だった。生きるうえで、不利になっていることは明白だろう。歩く様子も痛々しい。

だから隅っこに生きるかって、そんな選択はしなかった。正面切って人間に対峙する生き方を選んだ、いや、だからこそ生きていると、その結果を称賛しよう。

特に若くて五体満足な鳩たちは、一番遠巻きにおこぼれが飛んでこないか、わらわらこっちを見ている。この連中は、何かと食っていく上で有利だからあえてリスクを取らない。

「ゆうきのはとさん」に対し、障害で逆境なんて言い方は失礼だ。逃れようのない現実に、合理的な選択をしたのだ。けど、どうしても感情移入をしてしまう。新年早々、鳩に勇気ってものを教えてもらった。

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