« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

ラテン語の世界 その25 SONYの語源とネーミング

この記事は、この企業のウェブ上の記事を参考にして、僕なりに推測を交え詳しく書いたもの。

英語のSON/息子は基本の単語。これをかわいく愛称的に「坊や」とすると、SONNY。これも語源のようだ。しかし、音響機器をイメージできない。

で、ラテン語。辞書では、音響=SONUS(ソヌス)、SONITUS(ソニトゥス)とある。英語のSoundはここから来ているのだろう。

とりあえず、簡単なSONUSを応用しよう。

問題は、語尾の「US」。

世界へ進出しようとする企業としては、どこでも同じ名前で呼んでもらいたい。言語によっては、「ウス」以外にないが、英語圏では、「アス」とも読むだろう。

もうひとひねり。ラテン語は活用が豊富だ。

SONUSは、主格形、つまり主語に使う形だが、属格では、音響の/SONI(ソニー)もある。

これを英単語的に、SONY と換えるとすっきり決まる。

読み方も、ソニーしかないだろう。

たった4字だが、呼びやすく無理のない造語である。

やはり、それなりの企業は、名称にも相応のことを考慮していると思う。

以下、余談的にマズい例。

ときどき僕の事務所に電話営業する会社がある。それは、まあ、いい。思い切った飛び込み的営業も必要な場合がある。

しかし、この会社の名前、英語の辞書で引くと、俗語で「いかさま師」とある。

考えた上のことなら大したブラックだ。

が、そのウェブサイトには、そのなりの良い意味で名前の由来が記載されている(つまり造語のつもりである)。

結論。はっきりしない言葉を辞書で確認する地味な努力は重要である。

ラテン語の世界 その24 VENI VIDI VICI

去年の年末のこと、量販店のキャッチコピーでこんなものがあった。

来た、見た、買った、これはパロディーである。オリジナルを2000年を飛び越えて。

VENI VIDI VICI(ウィーニー、ウィーディ、ウィーキー) の訳は、来た、見た、勝った。全部「V」で語頭を押さえてあることに注目。

よく似た動詞の完了形が三つ並ぶ形であり、その活用の形には、「私は」の意味を含んでいる。これはラテン語だからできる技。

現在形なら、VENIO VIDIO VINCO 。VIDIOは、ビデオとして日本語化している(意味は少し違うけれど)。

結局、これ何?といえば、カエサル(シーザー)の凱旋の旗印だ(ポントスの戦い)。

戦場に到着した(来た)、戦況を把握し(見た)、勝利を収めた(勝った)、と、いうこと。

民衆に迅速な勝利を伝える政治的PRでもある。おそらく、民衆はこの言葉を連呼して彼を迎えたのだろう。

カエサルは、ただ有能な司令官であるだけでなく、このように民衆の心をつかむ技術も見事だった。で、ローマ史は帝政に向かう。

日本の政治家が見習ったらかえってヤバい?大丈夫だろう。

教養の宗教学 その1 医学部と動物供養

うちの娘が小学校の授業のことを気にしている。理科の実習では、生き物の解剖とかあるらしい、って知ったからだ(ただし、しないで済ます学校も多いらしい)。

これが医学部だったらさらに大変だろう。魚では済まない。人間に近いほど、”使える”わけだ。サルは一般的ではないだろうが、より無難な哺乳類、ネズミなら普通のことだ。

大義名分があるとしても、自分の操作で死に至らしめる過程を追っていくことは大きなストレスのはず。

ある大学では、学生参加で寺院に行き、実験動物供養をしていると聞いたが、、、。

ところがこの大学、キリスト教系の医大である。

だったら、その筋(カトリック)でやれば?って思うが、教義上はありえないはず。供養は仏教式なので、ミサか?いやいや、根本的に動物は対象ではない。

キリスト教を含め、一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)は人とその他の生き物について、厳格な区別をしている。人間は別枠で創造され、どうすれば救われるか秩序立って導くシステムがこれらの宗教の特徴なのだから仕方がない。

なので、死んでいった実験動物たちへのいたわりの気持ちを厳粛に表現するのなら、宗教のアウトソーシングをするわけだ。

このような使い分けは、いかにも日本的に感じる。

幼児の経験世界 記憶と言語、そして自分の物語

うちの娘がしばしば質問すること、それは自分の生まれたときのこと。自分の原点を確認したいってことだろうか。

当然、記憶がないから確認するわけだけれど、自分の記憶がどこまで遡れるか、これは言語能力に関連しているのだろう。

言語は伝達機能だけではなく、経験の構造化も担っている。それは、過去と未来も含んだその人の世界そのもの。

保育園の運動会のハイライトは、白組、赤組のくす玉割りなのだが、前年は負け、そして今年は保育園最後の運動会なので、なかなかの執念だった。

結果、負け。そして、この執念は小学校に持ち越されることになった。

こんな流れが、重なりあってだれでも”自分の物語”ができていく。

ときには、この物語が断絶しそうになったり、引き裂かれたりする危機があったりして、そのときは大変なのだが、それも後にはエピソードとして受け入れられ、物語のつじつまが合って今ある自分にとりあえずYESと感じることができるなら、これを幸せと呼ぶべきか。

認知症が進行し、混乱してしまった高齢者に、過去のできごとを回想させていくことで、心情の安定化が期待できるそうだが、これを”自分の物語の修復”と呼ぶことができるだろう。

ところで、うちの娘と聴いたりする男腐塾の歌がある(BANANA ICE,はなわ作詞)。

これは、その引用。

だれにも言えない悩みや こころの中にあるものを

小さな声でいいから話してごらん

いつもそこには暖かい やさしい風が吹いている

ゆっくりでもいいから話してごらん

キミのものがたり

つまり、大切なことなのだが、始まったばかりの物語であれ、終わろうとする物語であれ、そこには聴き手が必要だ。

日本とイスラム 中田考氏のこと

昔、昔、若き日の中田氏が留学先から一時帰国したので、お話を聴く機会があった。道すがら、その姿に感激して話かけてくる外国人が印象深かった。なぜなら、イスラムの正装をしていたからである。

この日以来、お会いしていないが、このサイトのイスラム関連の記事は中田氏に負うところが大きい。そして、事件が発生してしまった。

イスラム圏は、世界の四分の一であるにも関わらず日本人にとって疎遠な世界であるが、今や無視できない存在である。大学の食事もハラル認証が課題になりつつあるし、国際的な金融も、イスラム法を取り入れる必要性に迫られている。

また、歴史的にイスラム圏と確執のある欧米に比べ、日本は優位な位置にあるといえよう。

しかし、この世界に深く通じた人脈はあまりに限られている。その意味、中田氏のような人は、重要だ。

が、イスラム国の戦闘員志願の学生に付き合わされ、当局の事情聴取を受けるなんて事態は残念である。

この学生、1年、2年のうちに、どの道自殺する予定なので、戦闘員(まるで特撮ヒーローもの)になってしまおう、なんて動機らしいが、あまりにマジメな対応である。これも立場、というもの?

この朝、通勤電車で見かけた学生は、印象的だった。彼は熱心にアラビア語の勉強に励んでいたから(まさか、戦闘員志願ではなかろう)。

日本の未来の国益は、このような地道な努力に励む若者が担っている、と、僕は考える。

フィンランド語のテイスト

うちの娘を連れて公園に行ったら、欧米系の父娘に出会った。同じく父親子連れなので、少し話す機会もあった。

「娘さんには何語でお話すればよいですか?」と、尋ねると、「家では、日本語とフィンランド語です」、とお答え。

うーん、フィンランド語か。かろうじて、「キートス(ありがとうの意味)?」と、言ってみたらよろこんでくれた。

思うのだけど、普段はいきなり英語で話しかけられたりしていると思う。それって、ある意味失礼だろうね。

家に帰って、偶然、買ったばかりのフィンランドの入門書を開いてみた。

この父が鉄棒にぶら下がる娘を励ます際、「ウーヴァ、ウーヴァ、」って、言ってたけど、この本で該当する言葉は、hyvá(ヒュヴァ・良い)だろうと確認。

僕は、初心者以前だけど、フィンランド語のテイストを少し書いてみたい。

この言語は、ヨーロッパの言語の中ではかなり異質だ。ラテン語由来の語源を探ることは難しい。また、近隣のゲルマン語系の言葉とも隔たっている。

しかし、名詞に性別がないことは、楽。彼と彼女の違いさえない(どっちもhán)。アルファベットの数は多いが(たとえばさっき書いた「á」など)、読みは素直に文字に従っている。この点は、実にありがたい。

独特の語感は魅力的だ。

あのトールキン、指輪物語の著者はフィンランド語に入れ込んでいたが、彼の創造したエルフ語の内、上エルフ語(Quenya)はフィンランド語を基にしたと聞いている。確かに、語感は似ていると思う。

幼児が仏壇に感じること

あれはうちの娘が2歳のころだったか、実家に帰ったときのことだ。仏壇の扉が、まさに観音開きに開いていたのだが、娘は、その前でおびえたように中を凝視し、固まっている。

「大丈夫だよ、おじいちゃんとか、ほかにもいろいろいるかも知れないけれど、みんなお前を護ってくれるひとたちだよ」、と教えで抱きかかえてやった。

何が見えたかは知らないが、子どもにしか見えないものがあるという伝承は(あのトトロもその筋の話だ)、古来ある。幼いときほど、あっちの世界に近いという理屈だ。

そしてこの春、実家で法事があったとき、娘は、「おじいちゃんに手紙を書いたよ」と、祖父の遺影の前に手紙を添えた。内容は、「おじいちゃんだいすき」だった。

娘と祖父の命が重なった期間は、1月しかなかった。だから、娘はささやかな埋め合わせをしたのだろう。

今回、実家に帰ったら、真っ先に「なむなむするー」という。線香を立て、手を合わせるだけでなく、木魚をボカボカやりだした。

そこまでやるなら、フルコースもいいだろう。

なので、般若心経を読ませてみた。これ、全部ひらがなのルビつきなのでこの保育園児でも読める。これで、一人でボーカルと伴奏でき、それなりの仏門デビューとなった。

が、娘はさらに要求する。「これってどうゆう意味の言葉?」って、それはお経(中身)である。

いきなり保育園児に般若心経(=古代インド哲学)の解釈か、、、

適当に、「むかーし、むかーし、シャーリープトラって人がいました。この人が教えてもらったんだよ。この世界の本当のこと、そうすると心がとっても自由になるんだ、、」とかなんとか、、、。

ピュアな心であるほど、仏壇っておもしろいのだ。

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ