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2014年8月

自然災害と民俗学、ゲニウス・ロキの声を聴く感性

民俗学の素養が、少しは役に立つかも知れないという話。たとえば、貴方の住む場所を選ぶ場合とか。

民俗学をかじると、その土地を歴史的に掘り下げてみようとする気になる。その場合、地名や寺社仏閣、祠や石碑などが参考になるだろう。植生、植栽も意味も大きい。それらは皆、過去の住人たちの語りかける声、魂の残留物である。

先の大震災で劇的なことがあった。古い石碑が大津波の到達点を示し、より低い場所に家を建てることを警告していたが、これが多くの人命を救ったそうだ。

ある大きな川のほとりに、水神の祠を見つけたことがある。水神の祠の意味は両義的だ。水源への感謝の意味もあれば、水害のないことを願う(事実あったからそこまでして願うのである)意味もある。それは、その場所を見れば、「やはり!」と感じることだろう。

新しい地名も気になる点だ。もともと人の住む地域でなかった可能性がある。なぜ住まなかったのか?

それとも、わざわざ変えたとしたらどうして変えたのか?元の地名を見て、これも、「やはり!」だったりする。

民俗学は、人の言葉を真摯に聴くことが技法(この場合、不動産屋さんは利害関係ありすぎだが)。住居表記には出なくても、昔からの俗称は公的なものより重要な土地情報だったりする。

考古学の範疇にも関わるが、今も人が住み、かつ古い住居の遺跡のある場所は原則望ましい。単純にいって、安定して人が住み続ける環境があった証拠である。生活が不便であった昔の人ほど、住まい選びは慎重だったのである。無理な造成もしない。

気候が異常だ、というより異常が普通になりつつある。十分に安全を考慮したはずの土木工法が災害に追いつかない様子じゃないかな。こんなときほど、古い言葉にこだわる民俗学である。

カッコよく表現しよう。「ゲニウス・ロキ/Genius Loci(地霊)の声を聴け」。GPSの機能を拡張しスマホでも聴けたらよいのだけどね。

バイオリンとティンホイッスル

うちの娘は、鈴木メソードでバイオリンを習っているが、ようやく教本のバッハのメヌエット1~3までたどり着いた。正確にいうと、バッハ作曲は推測で、バッハ?と教本にある。

そこで、僕がティンホイッスルで合奏してみた。アイリッシュ系でクラシックするのも面白い。

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やはり、笛は調の問題が大きい。特にティンホイッスルは、調に応じて楽器をD管とか、C管など楽器自体を使い分けるのでよく分かる。

それに比べ、音階が固定されていないバイオリンは格段に融通が利く。裏を返せば、その分操作の難しい楽器なのである。

たとえば、習い始めは、先生が指で押さえる場所に色つきテープで印をつけてくれたりするが、これがなくなると全くの手探りだ。笛のように所定の穴はないから。

あと思うのだけれど、メヌエット、すなわち舞曲の様式ということ。

通常、クラシックは、聴くものと理解されているが、バッハの時代は、メヌエットは文字通り舞曲だったのだろう。こんなことを考えるのは、アイリッシュとの比較を意識したからだ。

当時ダンサーを意識したそれらしい弾き方もあったに違いないが、譜面上の表現の域ではなかろう。

一方、アイリッシュ(アイルランド音楽)は、かなりポップス化しているとはいえ、ダンスを意識した音楽である。譜面にはないが、ダンスの様式に合わせたリズムや間の取り方がなくてはアイリッシュとはいえない。

現地の音楽家が来日し、ダンスに合わせる機会があったとき、日本のアイリッシュ・ダンサーたちが改めて本物を認識したことはこの点だった。

大げさにいうと、特定のダンス様式に身体感覚を覚醒させる音楽のあり方。ただし、アイリッシュでメヌエットはかなり例外だけれど。

ところで、写真の楽器を説明すると、

バイオリンは、鈴木バイオリンで子ども仕様、大きさ3段階で一番大きなもの。

ティンホイッスルは、ティン(=錫)製ではないが、木製(ローズウッド)、製作者グレン・シュルツである。

日本でも普及してきたマイケル・バーグの金属製ティンホイッスルのように、高音域のキレはないものの、温かみのある音が持ち味だ。

ショウリョウバッタとお盆

旧盆が過ぎて、また首都圏には人が戻ってきた。最近の傾向では、帰省組は減少しつつあるそうだ。そして、遅ればせながら、あと一つお盆ネタ。

子どものときからずっと気になっていた。ショウリョウバッタの”ショウリョウ”って何だ?トノサマバッタなら、その大きさからしても、バッタの殿様級というのはわかる。

最近知った。ショウリョウ=精霊だ。つまり、お盆に帰ってくる魂。なんとも、スピリチュアルである。何か見えてきそう?

イネ科の植物が大好きだから、当然稲も食べる。稲作文化の中では害虫として敵視されかねないが、この神聖な名前は別格である。同じバッタ仲間でも、イナゴなんて佃煮の素材扱いだ。

ところで、お盆には、ナスとかに足を4本付けて、精霊を迎える習わしがある。つまり、精霊さんたちの乗り物に見立てているわけだ。

これのバッタバージョンが、ショウリョウバッタではないのかな。ウキペディアでは、「精霊舟」にこのバッタを見立てたとあるけれど、そのまま乗っていただく方が自然。

ショウリョウバッタといえば、オスメスのサイズの差が著しい。また、移動力も全然違う。

オスは小さくて、飛行力に優れているけれど、メスはかわいそうなほど鈍重だ。でも、大きくて乗り心地はこっちの方がよさそう。あのドタッ、ドタッて跳び方、何かを乗せているように見えないか。

昔の人は、お迎えする精霊を小さなものとイメージしたらしい。ナスとか、バッタに乗れるくらいに。これ、西洋の妖精画みたいで、コミカルで楽しい。お盆は、小さな家族が増えるイメージかも。

これとは別に、この季節、テレビ番組の心霊モノの季節でもあるけれど、この手の恐ろしい悪霊のイメージもまたある。

じゃ、この違いはなんだろう。

日本の伝統文化では、あの手この手で死者を鎮魂してきたわけだけれど、この重厚な文化もほころびつつあるのだろうね。手厚く迎えられる精霊が悪霊になるわけはない。一方、無縁仏なんて伝統生活の脅威であった。

だから、旧態依然として続けるべき、とはいわないが、死と向き合う文化はそれなりに必要だとは思うし、新しい形があってもいい。

この題材はあまりに大きいので今日はこのくらいで。

ともあれ、この時期、ショウリョウバッタを見つけたら好きに行かせてあげよう。それは、魂の循環の途上にあるのかも知れないのだから。

宮古島紀行 その14 墳墓

お盆である。今日の日経の”春秋”には、東日本大震災後、「人々が真っ先に再建したものは失われた命の居場所だった」とある。それは、真新しい墓石の群れ。今頃は、多くの人が手を合わせているに違いない。

死者への向き合い方、それは重要な文化。この文化を失うことは、野蛮、と僕は感じる。東京あたりでは、墓なしで亡くなっていく人がとても多くなっている。墓があればいいわけではないけれど、葬送の文化自体がなくなっていく、これが無縁社会の一つの形だ。

でも、宮古島ならまだまだ有縁社会が健在だ。だから墓へのこだわりは相当なものがある。地元の新聞広告を見て驚いたこと、それは、墓のニューモデルの発売だった!

そのニューモデル、撮影まではできなかったけれど、以下、宮古島の墓を探訪してみる。

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まずは、一般庶民から。これは、モダンタイプの破風墓の墓地。どれも比較的新しく、お墓のニュータウンといった趣。

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次は、歴史的風格のある大きな亀甲墓。一族で管理しているものだろうか。新しく入る人がいるたびに、入り口を壊し、また固めるのだろう。中央の新しいモルタルがその証拠だ。

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そして、観光ガイドにも記載された首長級の墓。まだ”現役”と聞いたことがある。とすると、その子孫が葬られることがあるのだろうか。

死者に配慮することは、新しい命にも配慮することだと思う。人の命は本来つながっていくものだから。それもあってこの島の出生率は高い?

持続可能な社会って表現、それは環境保護とかリサイクル運動の関連で語られるけれど、第一に人がいなくては成り立たないじゃないか。

その意味で、この島の風習には大いに学ぶべきものがあると思う。墓の話題から始まったが、最後に結ぶ言葉は、この島の子どもたちに幸あれ、である。

脳科学について その5 妖怪ウォッチと裁判員

こういった奇抜な組み合わせは、このブログの特徴としてご理解いただきたい。

アニメ、妖怪ウォッチでは、人の突飛な心理状態を「妖怪のせい」として解決がなされる。たとえば、異常にやる気がなくなるとか、やたらに気分が高揚するとか、いきなり寝ちゃうとか。

つまり、それは個人の責任ではなくて、外在的な何かのせい(原因の外在化)、というわけ。

主観の世界を物質的な脳に置き換える場合とよく似た発想だ。でも、脳科学はその全てを脳に置き換えることを目指している?としたら、妖怪ウォッチよりさらに進んだ外在化である。

現実問題に置き替えてみよう。刑事裁判の法廷で、弁護士が、「この犯罪は本人のせいではなく、本人の脳のせいです」なんて弁護したらどうか。

それだけでは、受け入れられないだろう。しかし、脳科学を駆使して、実証的に弁護するなんてことは将来ありうる(そもそも脳のどこに責任なんて価値判断が発生するのだろう)。

で、なくても、異常な犯罪に対して、精神障害を理由とした責任の軽減が図られることは通常の弁護である。

とはいえ、特段に事件が「異常」でなくても、実務上、警察段階で大多数の犯罪は不処分になっているわけ。起訴までされる事件はそれなりに異常ではある。いちいち精神鑑定をしていられない司法上の経済問題があるから通常の裁判手続が優先されている。

今は、裁判員制度の時代だ。ほぼだれでも裁判員になりうる。妖怪を発見できる妖怪ウォッチがあれば便利だがそうはいかない。自分自身が”責任ウォッチ”になることが期待されている。

どれだけ責任があるかウォッチして、量刑まで考えなくてはならない。

スマホのある光景と予想できない未来 その1 朝のできごと

ある朝、保育園へのドライブ中のこと。車道でヨロヨロと自転車を走らせる青年がいた。オッと!アブナイ。尋常な運転ではない。

「危ない」をカタカナで表記した理由は、交通安全だけでなく、彼のメンタリティーの「アブナさ」も表現したかったから。

最初は、例のドラッグかと思ったほど。しかし、追い越しの瞬間で分かったことは、スマホの操作に熱中の様子。熱中というより、とりつかれたと表現すべきか。昨日から続けているのかも知れない。

うつろな目と半開きの口が印象的。あたかもその口から、魂が蒸発していくようだった。

実をいうと、あまり人のことを言えた立場ではない。電子的なゲームに熱中する気持ちは理解できるし、寝不足と後悔の気持ちで職場に通った経験もある。

しかし、最近は度が過ぎている。数年前には予測できなかった光景だ。自動車を運転するうえで、こういった例は脅威である。この先、スマホはどれほど人の行動に影響をあたえるのか。うちの娘の保育園のポスターには、携帯に子守をさせるのはやめましょう、ともある。乳児を標的としたソフトもありそうだ。

元祖といえば、昭和のインベーダーゲームだろう。ここから始まって、人を夢中にさせるための仕掛け、技術革新がずっと進行している。インターネットの端末がいつでも手元にあることが、これをさらに加速させている。

インターネットといえばゲームのソーシャル化、これ、少しだけかじったことがあるけれど、実にアブナイところがある。なかなかやめられない。

子どもの親世代なら少しは免疫があろだろうけど、これから、現世代のゲームを始める子どもたちへの影響はどれほど大きいか未知数だが、僕的には、「汚染」という表現を使いたい。

以上は心の問題。体への影響はどうなのだろう。

携帯電話などの長期にわたる電磁波の影響が、人体にどのような影響を与えるか、そのデータは放射能以上に分かっていない。

北海道紀行 その3 野付半島へ行く、オジロワシの羽音を聴く

それは、国後島に向かって伸び、海流が美しい曲線を形づくり、遠浅の入り江を内側に抱き込んだ巨大な砂嘴(さし)。

北海道の自然景観を求めるなら、僕ならここを第一に挙げたい。もちろん、壮大さなら、この北にある知床半島に及ばないが、観光的に濃密なコンパクトさならここだろう。かなり先端まで、道路が通じている。馬車に乗ることもできれば、歩道も充実している。

ハナナスなど北海道を代表する花々の原生花園、オジロワシの飛行、エゾシカの群れ、浅瀬に憩うアザラシたち、短い時間でも、これだけの情景を観ることができた。

この写真はクルーズ船からアザラシ。足をあげるポーズがくつろぎの姿勢か。

後ろにサギが立っているので水深が分かる、ここが彼らお気に入りの浅瀬スポットのようだ。海の中は、びっしりアマモが生えている。そこは、名物、ホッカイシマエビの棲家でもある。海が浅いこと、そしてアマモを守るため、ホッカイシマエビの漁は帆船(打瀬舟)を使用している。

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砂嘴、これが自然環境の要点。本来、海流が造った長い砂の堆積である。だから、陸地としては実に心もとない。実際、地盤の沈下も進行しているそうだ。

特にその内側は、海と陸地の境界が判然としない微妙な領域。つまり、広大な湿地になっている。訪れる水鳥も多く、ラムサール条約認定の湿地である。

かつての森が海水に侵食され、森の墓場となっている場所もある。これが見所のトドワラ、ナラワラだ。このトドとは、トドマツで、ナラとはナラ(楢)の木のこと。

この写真は、トドワラである(ワラ=原、か)。満月の夜には、ここに幻の森が出現する、、って僕の創作伝説。まことしやかに広めてここを宣伝してください。

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地元、別海町のパンフレットのコピーは、「日本東端のべつ・せ・かい」とある。お分りのとおり、別海と別世界をかけた表現。

僕はこの町も好きになったので、ウェブもリンクしておこう。

http://betsukai.jp/

このHPの右下にご注目。人口、牛の数!、そして魚の数!! まで記載されている。なにしろ、酪農と漁業の町である。

別海人の自慢の種は数あるけれど、東京人へのキメせりふは、「東京23区より広い別海」である。

北海道紀行 その2 イランカラプテ

これは、アイヌ語の「こんにちは」、そして元の意味は、「あなたの心にそっとふれさせていただきます」と、される。

挨拶の表現は、言語によってさまざまで、その意味の背景も奥深いものがあったりするけれど、アイヌ語の場合はとりわけ深い精神性を感じる。「呪力」すら感じるほど。

この言葉は、北海道観光のホスピタリティを表現するものとして、特に普及が図られている。

http://www.irankarapte.com/index.html これは、そのキャンペーンサイト。

けど、、、この短い言葉の中に、”あなた”とか、”心”とか、”触れる”とか、どこにあるのだろう。と、考えると言語学の深みにはまってしまう。

現地で正統なアイヌの人に尋ねてみた。すると、これは、部分に分けられない一つの言葉だという。なんと!

もちろん、もっと長い文の一部という可能性はある。日本語の”こんにちは”だってそうだ。

でも、アイヌ語自体、そもそも文法的にコンパクトにまとめる傾向のある言葉らしい。

調べたところ、この傾向、言語学上は、抱合語とされる。その特徴は、主として動詞に多数の意味的、文法的単位が複合して、一つの文章に相当する形になるうること(らしい)。

なかなか実感がわかないが、未知の言語に接触した知的感動が湧く。さらに言えば、アイヌ語の痕跡が、本州以北の地名に多く残されていることを考えると実に興味深い。

同じく抱合語として、関連するものは、北米のネイティブ・アメリカンの言語、イヌイットの言語らしい。僕にとって、壮大な未知の言語世界だ。

以下、余談である。

ノンノ/NON-NO、ってファッション雑誌がある。かわいい語感がそれらしいけど、これ、アイヌ語の”花”らしい。

北海道紀行 その1 Ainy な体験、ムックリを演奏する

アイヌ文化を体験する場として、アイヌコタン(集落)があり、観光地としてのアイヌコタンなら、阿寒のそれが大規模である。ショッピングは当然として、民族衣装を着ることもできるし、料理、歌と舞踊、そして人形劇も楽しむことができる。

そして、楽器。アイヌといえばムックリだ。価格は500円ほど。

楽器一般にいえることだが、ある程度演奏できなければ持つ意味がない。だから、買うだけでなく演奏を学ぶ機会も必要だ。心配はいらない。あっちこっちコタンの中で、買い物ついでに尋ねてみれば、基本的なことは教えてもらえるだろう。

Neo_iniy

実に単純な構造。左側には、左手に固定するための紐がついている。本体は竹製で、中心に細長くくりぬかれた部分(ここではリードと呼んでおこう)がある。この根元にまた紐がついている。

この根元の紐の先端を右手で持ち、勢いよくスナップを効かせて引っ張ることでリードが振動し、音がでる仕組み。かなりのコツが必要だ。

でも、それだけではごく小さな音にすぎないし、音の変化も加えにくい。だから、リードを口に当てて、口の中で音を増幅し、大きく響かせる、また口の形で音の変化をつける。

ただし、メロディ楽器ではない。アイヌ音楽の定番曲(あるのか?)、、、なんて目標にできればいいのだけど。

自然界の音を描写したり、自分の気持ちを表現し、伝える、そんな楽器のようだ。

高度なメッセージ交換ツールとして、たとえば、男女の逢引きにも使ったのではないかな。シンプルなだけ、かえって音のアレンジが多様にできそうだ。

写真の余談。

背後は、モダンなアイヌ模様をあしらったTシャツである。「Neo Ainy Akan」とある。

”アイヌ風な”、”アイヌ的な”を英語で表現する場合、僕はこれを”Inish”と勝手に考えていたが、かわりに”Ainy”って言葉を見つけることができた。以後、これを使おう。

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