ヘンテコな題名だけれども、かなり重要な話かも?
日本の文化は、「主語」にこだわらない特徴があると思う。法的な表現では、権利・義務の主体が不明瞭になりやすいってこと。
しかし、ラテン語を基盤としてきたヨーロッパ系の文化では、「主語」なくしては始まらない。それは、当然、言語の構造にも関連している、と、いうか言語が文化の形を造っているというべきか。
今、法務省が「法教育」に力を入れているけれど、つきつめれば「主語」をどれだけ意識しているかの問題にもかかわる。
一般市民が法律問題に巻き込まれるとき、この主語がいやおうなく出る。
そもそも、契約書の類って複数の「主語」が確定されないと意味を成さない。
こんな話がある。
かなりの資産のある家で、相続が発生した。
広大な土地は、当然、登記がなされている。ということは、国家がこの土地だれのものか、持ち主(主語)があるので、まあいい。
でも、仏壇の中には、長年の間に、多額の現金が詰め込まれていた!
これ、誰のもの?関係者は当然のように、かつ漠然と「一族のもの」という(民法上の主語不明)。
そんでもって、泥沼の相続紛争勃発。相続人の個人資産として仕切りなおす必要があるからだ。
民法って、それなりに日本の文化を受容しているけれど、その本質は、ローマ法由来のヨーロッパ文化の産物なんだよね。
やっと、ラテン語の話。
実は、ラテン語の文章では、(英語等と異なり)人称名詞は通常省略されている。
話が違う?
いや、「主語」の記載がなくてもよいほど、文法がガチガチに、「主語(主格)」に合わせて決められているからである。
日本語で、単に「愛する」とはいえる。「誰」が愛するのかは、前後の文脈で読み手が推測することが期待されるわけ。
でも、ラテン語では、動詞の変化自体で、「主格」が決まる。
私は愛する、Amo
貴方は愛する、Amas
彼、彼女は愛する、Amat
私たちは愛する、Amamus
貴方たちは愛する、Amatis
彼らは愛する、Amant
こんな具合。(余計なことをいうと、さらに過去完了、未完了未来、受動、命令とかの違いで変化しまくりまくる)
例外的な英語なら、現在形ならLove,Loves だけですむけれど、ヨーロッパの言葉の基本は「主格」の厳密さにあると思う。
こういった言語世界にある人たちは、法律文化になじみやすいのではないだろうか。そして、法務省の法教育推進って、明治政府の近代化政策の延長みたいなものだ。
それは、市民社会とか、グローバル化とかにも関連しているが、「主語」がむき出しになる社会って、あまり”肌触り”が良くなさそうにも感じる。