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脳科学についてその2 音楽あるいはポパーの世界3

前回の記事では、脳波計の記録を楽譜にたとえてみた。「たとえ」ならいいが、それ以上に踏み込むと神秘主義の領域になろう。この点については、いずれ荘子を持ち出してみたい。

ところで、最近車の中で、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」をよく聴いている。これ、僕のフルート奏者(未だに初心者だが)としての原点みたいなものだ。

最初は、レコードだった。今はCDから車内の機器に移し替えたものを聴いている。また、そのとき自分自身の音楽の記憶と照らし合わせながら、「ここの部分は自分で演奏できそうだ」とか、考えながら聴いている。

音楽は、脳を含め、物質的に全く異なる媒体に全く異なる方法で記録できる。が、それでも音楽なのだ。ついでにいえば、中学生のときの僕の脳は、今の脳ではない。なぜなら、身体を構成する物質は、数年で入れ替わるからだ。

また、音楽は一定の時間の中で聴かれるからこそ、音楽なのであって、記録媒体の中にあるものは、そのもの、ではない。

したがって、音楽そのものが在る、とすれば、物理的世界にその居場所はない。

哲学者K.ポパーはこのような対象の居場所を世界3と呼んだ。もちろん、それはプラトンのイデア界のように超越した世界ではなく、人間の精神活動(世界2)の所産であり、また人間の精神活動も物理的世界(世界1)の上に成り立ってることも前提としている。

そして次は、世界3→世界2→世界1という具合にも因果関係がありうるのか、という問題だ。

K.ポパーは未来は過去から当然に決定されるのではなく、開かれている、という。

その一例は、世界3で起きるテクノロジーの開発が現実の物質世界に影響を与え、予測不可能な未来をもたらすこと。

ある意味、脳科学もそうだろう。この科学はまさに測定機器の進歩に依存しているのだから。

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思想」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
17世紀のデカルトの理性は、神の出張所としての完全で限界の無い理性だと思います。でも18世紀のカントになると不完全で限界のある理性になります。人間の頭脳から生み出された数学が何故自然界の秩序を明らかにするのかという問題に取り組んだ結果、デカルトやカントの考え方が出てきたのだと思います。この問題は未だに解決されていないのだと思います。

おはようございます。
「神の出張所としての完全で限界の無い理性」この表現はとても的確に思います。
こちら、絶対神を前提にしない文化との断絶すら感じます。が、数学の話は別。
「この問題」、、その解決がなされること、その明確な状況は、(カントの言葉を借りれば)、「超越論的」すぎてイメージもできませんね。
では、いっそのこと禅問答、確かに理性を超越はできますが、、、

エリウゲナさん
ブログでのお付き合いの日が浅い私がこんなことを今言うのは誠に気が引けるんですが、「脳科学」、「脳科学論議」はどうも眉唾で、遠からず雲散霧消するモノではないかと危惧しています。
20何年か前に右脳・左脳の解説本から始まった「脳ブーム」が起こり、マスコミもこぞって取り上げていつの頃からか「脳科学」なる科学ジャンルがあるかの風を呈しています。私も正直これまで無自覚に「脳科学」という言葉を使ってきたんですが、調べるとこれは“俗語”で正式には「(認知)神経科学」がこれに当たるようです。そして「脳科学者」を名乗る人に胡散な輩も多いということも分かりました。
‥‥まあブログですから“下世話”と割り切って、話題としてやっていくことには賛同しますが(このコメント自体その意味ですが)‥‥余計なお世話だということでしょうか?

私も「脳科学」は全くの俗語と理解しています。
心理学出身者として、一つの臓器だけで人の心の全てが分かるような風潮、非常に対抗意識を感じます。しかし、ブログは検索されてこそ、意味がありますので、この名称を使っています。
また、この風潮自体、社会学上の考察の対象となるでしょう。すなわち、「脳科学」自体、社会科学の対象として関心があります。

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