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体罰の文化史

今、学校での体罰が問題になっている。柔道界もそう。少し前は、相撲界だった。これは、一連の流れのように思う。

法律学の用語で、「部分社会の法理」。もっときわどいものが、「特別権力関係」ってものがある。前者は、主に学校、後者は刑務所が主な適用場所だ。今では判例上、正統な主張と認められなくなっているけど。

つまり、社会を一律の基準で考えるべきではなく、それぞれの部分社会での「流儀」をそれなりで認めようとする立場もあったのだが、やっぱりそれはおかしいとなってきたわけだ。

封建主義社会なら、まさに公家社会、武家社会、町人社会とか、複合社会が当然だったわけだが、さすがに21世紀になって「社会一律の基準」が求められるようになったわけか。

すなわち、これが近代化の一側面。明治維新でいきなりってわけではない。

だからといって、体罰そのものが、封建主義の遺物というわけではないだろう。スポーツ界での体罰の伝統は、それほど古いものではなくて、軍隊から継承されたと考える方が自然だ。直接聞いてる話もあるが、やはりそれはすさまじい。

一方、封建的軍事制度で、足軽がボカボカ殴られ気合を入れられていた、なんて記録は聞いたことがない。元から絶対的身分関係が確立しているなら、こういった体罰はむしろ発生しないのだろう。

近代国民国家の徴兵制で、男なら当然に、軍隊に入れられ、一から上下関係を叩き込むうえで、おそらく日本流の体罰の伝統ができていった、と思う。

だとすれば、ある意味少なくともスポーツ界の体罰の伝統は(なんと女子まで対象)、近代化の副産物みたいなものじゃないかな。

こんな考察は体罰防止策には応用できないだろうけど、日本の文化の裏側に目を向ける機会がもっとあってもいい。

以下余談。

旧日本軍といえば、太平洋戦争中、連合国側まで感銘をあたえた駆逐艦の艦長がいた。その名は、工藤俊作。興味のある方はその経歴を調べてみるといい。この人、体罰否定論者でもあった。その部下をまとめあげた手法は、「徳」であったとぼくは理解している。

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