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ラテン語の世界 その10 愛と存在

cogito, ergo sum.「コギトエルゴスム」

私は考える、ゆえに私は存在する(直訳)。よく知られたデカルトの言葉だ。

哲学的には、「私」が重要だ。この言葉をもって近代的自我が思想史的に題材となったとされている。

でも、ラテン語の言葉として、この文章には「私」は直接出てこない。

それは、cogito(考える) 自体の活用形に「私」の意味が含まれるからだ。

sum、も同様。これがいかにもラテン語的。

いかにも哲学者が好きそうな「考える」を別な動詞にしたらどうか、って余計なことを考えてみるのも面白い。

たとえば、amo「アモ」。愛するの一人称だ。

amo, ergo sum. 私は愛する、ゆえに存在する。

いかにも愛に生きている感じで情熱的じゃないかな。存在することが、生きた実感として伝わる感じ。

別な哲学的意味が加わりそうだ。

愛する対象があってこそ、自分をはっきり意識する。

自分とは、それ自体で確立したものではなく、愛するとか心の志向性、他者との関連において存在するのだ、ってこと。

心理学に応用してみよう。

よくいわれる、「自分探しをする人たち」。その特徴は、自己愛じゃないか。

自分のことしか見ていないから自分が分からない、、か。

自分の殻を破る力、それはたとえば「愛」とか。

もう一ひねり、ラテン語を作文してみよう。

amas,ergo es.「アマスエルゴエス」。amo、sumを二人称にしてみた。

貴方は愛する、ゆえに貴方は存在する。

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ラテン語」カテゴリの記事

コメント

エリウゲナさん。
こんにちは、初めてコメントいたします。
この「コギト」、日本語ではどうもergoが強調されすぎている気がします。ergoは「すると」の意味もありますし、もとはergoはなかったという説もあります。
であれば「私は考える、すなわち私は存在する」‥この方が変な屁理屈が入る余地がなくシックリします。

皆空様、初めてのコメント、ありがとうございます。
辞書を確認すると、(強い論理性をもって)結論をつなげる場合もあれば、ご指摘のような意味合いもありますね。
またいろいろご教示いただければありがたいです。

こんばんは。
ラテン語は難しくてわたしにはわかりませんが、Cogito ergo Sumだけは知っていました。でも精神と肉体が全く別の存在であるとはどうしても信じられないことでした。肉体がなくても、精神だけで存在するなんてどうして信じられるのでしょうか。方法的懐疑の結果とはいえ、心身一如が常識にかなった考え方です。

まさに!ご登場を期待してました。
、、、ですよね。
デカルトって解剖学的なんですよ。はっきり身体を対象化している。つまり、物心の分離。それが今の脳科学に直結しています。デカルトを考え直すことは、とても現代的課題です。

脳科学の方が唯物論的で、合理的です。心の働き精神の働きは物質である脳の働きであると考えることで、デカルトよりは納得が行きます。確かに考えている私の存在は疑うことができないのですが、しかし「私」は肉体もない精神として存在しているというのは、私には納得がゆきません。世界精神とか絶対精神とかいうヘーゲルはもっと納得がゆきませんが・・。

とても巨大なテーマになってきましたね。とてもコメントだけでは扱えないので、また関連記事を書いていきます。
少なくとも、この記事に関連してみると、デカルトの「sum」の意味です。
同じ「sum」でも、自分の「存在」と個々の物体の「存在」は内容が異なると思います。
そもそも、ラテン語を含め、印欧語の特徴は、存在論を必然的に導くような気がします。

横槍を入れるようですが、唯物論的脳科学は心の仕組み(思考のカラクリ)を少しでも解明したでしょうかね。脳の感覚野の地図だけに留まっているんじゃないでしょうか。思考は決して物理的なものではなく、それは生命作用と同じで永遠に不可解なもののように思いますが。永遠に解明されない「概念」は数多くあるのだと思います。

皆空さんは、すでにメインゲストです。
私の見解の詳細は、別途テーマカテゴリーを造って述べて行きたいと思います。
で、少なくとも、私としては、精神活動に物質的基盤があるとは思っています。ただし、物質界自体、底がないものですし、その解明はより抽象的に形而上学化するものだと思います。
そもそも、科学の方法論自体は、科学ではないのです。

こんばんは。
肉体のない精神って、霊魂だとか精霊だとかになるのでしょうか。それが実在であるとはにわかには信じられません。まあ科学が全てだとか言うとこんなに砂漠のような世界もないので、河合隼雄のように魂ということを言い出す人もいますから、なんとも言えませんが、哲学や宗教の伝統も尊重しなければとは思います。

肉体と精神の分離とは、精神(魂、心、思考、‥‥どう呼んでもいいでしょうが)を肉体的に(物理的に、即物的に)把握することができない事実を正直に吐露したものではないでしょうか。そこに宗教的なものを見る以前の話ではないかと思うのですが。自分の肉体は(手、足、鏡に写った顔、内臓の超音波画像・MRI画像も)基本的にリアルに把握出来ます。しかし精神は“原理的に”把握不可能です。もし見えたり、知覚できたら、つまり“リアルに把握”できたらもはやそれを精神とは言わないような気がします。‥‥これは、「言葉」の本質に関わる問題なのではないかと思います。つまり決して物理的把握はできないものであるけれど、“生きている人間”を構成する要件であるとは確信できる、そういうものとして、それを精神(魂、心、思考‥)と呼ぼうと決めた、のではないでしょうか。
肉体と精神とを、あるがままに(見つめ)考えれば、そう考えることができる、これは時代がどう変わろうとも決して変わることのない事態だろう、ということではないでしょうかね。

こんにちは。
ここに書いてある文字は物質です。文字を通して私の思考は客観化されます。パソコンは物理的過程を経て計算をします。これも思考の一部ではないでしょうか。そういえば、カール・ポッパーは物理的世界をワールドⅠ、心的世界をワールドⅡ、制度的世界をワールドⅢと分けて考えました。確かに、心的世界は他の世界から独立しているように見えますが、しかし私達の思考が物質化されないと人間の社会は成立してゆかないのではないでしょうか。物理的にも思考は把握できるからこそ、文明は発達したのではありませんか。不可知論はあまり生産的ではないような気がいたします。

書かれた文字はもちろん物質です。それが「思考」になるのは人に読まれた時です。より正確には、文字は文字のままで変わらず、読み手の頭の中で「思考」が生じるということです。その頭の「思考」は決して物質的なものではないでしょう。脳組織のニューロンやシナプスの電気的・化学的作用(過程)があったにしろ、その作用が「思考」ではないでしょう。その作用の物質的・機械的な翻訳(思考の解明)が不可能だということです。何故不可能か‥‥それが生命現象だからと言う以外にない。それが厳然たる事実なのです。‥‥そこに生産性を云々するものでは更にない(喩えにしろ)と思います。

エリウゲナさんのブログ内であまり言いたい放題は恥知らずで図々しすぎましたね。反省します。

コメントしてくださったことを参考に、これからも記事を書いていこうと思います。
今後とも、弊サイトをよろしくお願いいたします。

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