« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »

2012年11月

レインボーマンと経済政策

この記事を検索で見つけた方が、期待はずれでないことを願って書く。

ほぼ幻の昭和特撮物、「レインボーマン」。その変身バージョンフィギュアが全てあるとか、その手の話ではない。

このヒーローは、悪の組織しねしね団(表記は自信なし)と戦っていたが、これ、はっきり反日組織である。そのテーマソングでも反日感情が歌われている(検索は少し大変かも)。

通常、悪の組織は、怪人とか、怪獣とか荒唐無稽な手段でよからぬことをしでかすのだが、レインボーマンでは、極めてリアルな悪事があった。

それは、紙幣を大量に印刷して日本中にばら撒き、経済活動の破壊をもくろむというものだ。つまり、経済テロ。

実際、数年前、近隣某国が、日本の偽造紙幣を国家指導で刷ってる事実が報道された。

テロよりセコイ動機(外貨獲得)のようだが、手段は同じである。

ところが!ここからが大人の話、日本ではずっと金融緩和が続いている。とにかく、貨幣の供給を増やせということなのだ。

最近では、(言葉のあやだろうが)、「日銀は輪転機を持っている。ぐるぐる回してお札をすればいい」と発言する政治家も出た(キター)。

平成の現実が、昭和の特撮物を越えた瞬間?

少なくとも、こう言おう。

これからの時代、現金、預貯金に過剰な期待を持つべきではない、と。

宮古島紀行 その12 池間島とcosmos

それは、宮古本島の北に位置する小さな島だ。しかし、この島に伝わる精神空間の濃密さときたら小さなコスモス(小宇宙)みたいなものだ。

一つの言葉をまずご紹介したい。「thinkai-nuu-innmi(ティンカイヌーインミ)」。

ティンカイは、「天界」、ヌーは「への」インミは「嶺」。と俗な日本語へと翻訳できるだろう。

「天界への嶺」ってたとえば地球の屋根=ヒマラヤ山脈か?

確かに、地名なのだ。というか、現実には平坦な島の北にある少し高くなっている場所である。これが「嶺」。

なぜ、そんなに大げさかといえば、重大な意味づけがあるかといえば、ここが!人の魂が天に還る場所とされているからである。つまり、世界の屋根どころか、「天国への階段」と呼んだ方がふさわしい。

天国と表現すると、キリスト教的に脚色されてしまうけれど、個人の魂(tamasu)が祖霊たちのもとに還っていく、と表現すれば沖縄的な死生観に整合するといえるだろう。

祖霊は漠然とした集合体であり「神」と表現してもいい。亡くなったら直ぐにそうなる(加わる)のではなく、伝承上、最初は「神人(kamsuto)」になると考えられている。

このような、「特別な場所」が島内いたるところにあり、精神空間と個々の場所が結びつき小さなコスモスが造られている、と僕は解釈する。これが、興味深いところ。

cosmosってギリシャ語を使ったついでに、観光ガイドを一つ。

この島で見た夜空は本当に美しかった。真夏の天の川、さそり座アンタレスの赤み、飛び交う流星、、こんな光景を見ていると、天国への階段伝承も不思議に思えなくなる。

ギリシャといえば、海辺のギリシャ・レストランまでこの島にある。眼の前の海を地中海とし、そして地元産海鮮料理も揃えば、イメージ的にも良いだろう。

秋の夜長はティマイオス その3 魂と星辰

「ティマイオス」って人名だ。これはプラトンの著作によくある話なのだが、しかし、この人の素性はよく分からない。通常は実在の人物で、内容を解釈する上での重要な伏線になっているのだが、、。

また、ティマイオス自身のモノローグが中心という意味でも、これは異色の作品である。ソクラテスは聞き役に徹し、ティマイオスは、宇宙創成の神話的物語を語り続けている。

鳥肌の立つような記述を見つけた。

宇宙(コスモス)に星々(恒星)が生まれたとき、星それぞれに、一つの「魂」が割り当てられ、これが、人の魂の起源であるという。

そして、魂は、惑星にもふりわけられた。って、これは、人類最古の「地球外知的生命体」への言及であろう。

ちっぽけな人間の存在であっても、永遠のコスモスの秩序の中に組み込まれ、関連付けられている、とプラトンは言いたいのだ。

また、それは魂の不滅を意味している。個々人の魂は宇宙の秩序の中に還っていくが、それは大いなる循環のプロセスの一つ。

寒くなってきた。この詩的イメージを持って、これから冴え渡る夜空を仰いでみるのもよいだろうね。

そこには、必ず貴方の星があり、もはやこの世にいない人、これから生まれる人の星もある。幼い子どもに、「自分は生まれる前どこにいたのか」と尋ねられたならば、この夜空の星の一つに、と応えればいい。

そうすれば、「何があろうと気高く生きろ」と伝えることになろう。

聖闘士星矢も言ってるじゃないか、「君のコスモは燃えているか」と。

魂の和む古本屋

仕事で外出した際、ついでに気になっていた古本屋に入ってみた、、、僕のプロファイリング?は正しかった。

うちにありそうな本ばっかしじゃん。なんとテイストがあうことか。

ただし、和物(日本の歴史・民俗学系)はなし。

店番のお姉さんと雑談したところ、店主は、フィンランド語も教えているとか。店員さんに「キートス(多分、フィンランド語でありがとう)」といったら分かってくれたみたい。

買った本は、「妖精の時代」キャサリン・ブリッグズ(筑摩書房)。

思えば、一生読みきれない本がうちにたまっている。が、また買ってしまった。

ここで売れそうな本も整理しようとも思った。

モーツァルトと犯罪抑止

最近の重大事件といえば、おぞましい尼崎連続変死事件。例の角田被告の居住空間の映像など見ていると、それはまさに俗悪の極みだが、一方、なぜかモーツァルトの曲を想起してしまった。

いわば心の補償作用。両者は、全く対極の心象世界だから。

そういえば、半ば都市伝説化している話がある。ニュージーランドの街角のこと、BGMとしてモーツァルトを流したら犯罪が激減したという。

単純に感覚的に考えてみると、悪事をするにはあまりにミスマッチのBGMと思う。また、モーツァルトは、犯罪性の高い人たちの文化とも隔たっている。なんとなく居心地が悪い、と感じたりもするだろう。

では、数あるクラシックのなかで、なぜモーツァルトなのか。

たとえば、ベートーベン。彼の作曲原稿ときたら、ぐちゃぐちゃの書き直しが、これでもかってある。つまり、努力の人なのだが、その曲には実に人間的な情念が込められているように思う。

それはそれで、魅力なのだが、俗なものからの超越度はいまいちじゃないか。その点、モーツァルトに嫉妬し対抗意識を燃やし続けたサリエリの例をあげれば理解しやすい。

モーツァルトの作曲のプロセスは異様だ。書き直しなしで交響曲が書きあがる。どこか別の世界に途方もない音楽の源があって、モーツァルト自身はただの媒体みたいに感じる。

まるで、新プラトン主義の流出説そのまま。これほど俗なものを超越した音楽はない。これが、ポイントなのかな。

じゃ、バッハ(しつこい?)。といえば、「羊たちの沈黙」のレクター博士の例が出てしまうが、長くなるのでやめにしよう。

« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »