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2012年6月

子ども目線で学ぶ身近な博物学 飛び立つ蟻たちあるいはジューンブライド

その気になりさえすれば、保育園の帰り道は、虫や植物の話題にあふれている。昨日の話題は、アリ(蟻)。コレ何、と、うちの娘がいう、、、

アリといっても、いつもの働き蟻のことではなく、羽の生えた連中のことだ。

これが結構多かった。気がつけばあっちにも、こっちにも。その季節になったのだ。

その季節とは、蟻たちのジューンブライド。

つまり、夏が近づくころ、地下の巣では、羽の生えた雄蟻と、雌蟻が生まれ、やがて大空に羽ばたいていく。

選ばれし、蟻たち。その使命は重大だ。大方は目的を遂げることなく、死んでしまうだろう。幸運にも連れ合いを見つけた蟻は、新たな王国建設に向け、子育てに励む。

つまり、この羽蟻たちは、王と女王の候補なのだ。

蟻といえば、地味な働き者の代名詞なのだけれど、こういったドラマチックな一面もある。

そうだ、この6月、めでたく結婚した人間のカップルにも、幸あれ!希望の羽を存分に羽ばたかせ、新天地を築いて欲しい。

日本の家、ハーブ、そしてドクダミ

ありふれた雑草だ。この時期はあちこちに咲いている。この写真は、保育園のビルの脇に咲いたもの。

Photo ありふれ過ぎてとても有り難味なんてない。名前も誤解を招く。しかし、日本のハーブの筆頭といえば、お茶とドクダミであると僕は断言する(ハーブ→カタカナ洋物とする考えは間違いである)。

旧家が取り壊され、整地され、雑草が生える。どこにでもある風景。多くの雑草は種が飛んできて生えたものだ。しかし、ドクダミは生き残った根から再生する。

ドクダミは里の植物だ。人間の営みとともにある。薬草として、あえて家の近くに植える文化があった、と僕は推測している。

こういった文化は西洋にもあって、ハーブの文化として輸入もされている。人類本来の智恵みたいなもの。

勝手にはびこり迷惑ではある。しかし、驚くべきことに種ができない。だから、人為が関与しなければ、分布が広がることはない。

近代的な発想では、薬は買うもの、支給されるものである。でもそれは社会が豊かになったからであって、公的健康保険制度があるからだ。おまけに、巨大な産業の利権とも結びついている。

いわゆる代替医療について、過剰な期待はすべきではない、とも思う。でも、身近なところから気づいてみてもいい。

ドクダミの元の意味を明確にいえば、”解毒”。生の状態では、殺菌作用であり、乾燥させた状態では、代謝の促進(老廃物を出す)、僕のイメージだが、この草のテイストざくっといえばこうなる。

別名、十薬。とても広範囲の使用方法・・効能がある。興味のある方は、ネットで検索してみればいい。

それって漢方の話ですかといえば、意外に通常の漢方薬のブレンドとしてドクダミが使われていないのは不思議。他の生薬との相性がよくないのかも。

以下、個人的経験のレポート。

1 生でバリバリ食べても死にません(国によっては野菜扱い)。

2 そこらへんからザクザク刈り取って、洗濯ネットに入れ、風呂に入れる。茹で上がったら搾ったりする。においは強烈だが、鼻の通りがよくなる。湯上りは爽快、肌がさらさらになり、蒸し暑い季節特有のベタベタ感からしばし解放。

3 乾かしたドクダミをお茶にすれば、かなりの利尿作用がある。お茶としては、乾燥した根の方がおいしい。体の毒気が抜けていく感じ。肌がきれいになるという人もいるが、ありうることだろう。ただし、”出す”ことが効能なので、下痢に注意かも(便秘の人にはベター)。

普通、野外採取、乾燥処理なんてやってられないから、薬局で十薬として買ってもいい。量的にかなり安い、けど効果はバカにはできない。

注意すべきは、利尿作用といっても、腎臓病の人が医師の意見なしに使っていいかといえば、止めた方がいいだろう。また、15歳未満には服用させるな、と、ある市販の十薬には書いてある。

4 うちの娘には、野外で虫にさされたとき、その辺のドクダミの葉をもみ潰して汁を塗れ、と教えている(あくまで応急処理、虫の毒自体を解毒できるとは思わない)。細菌感染で、後から腫れて膿んだりすることを防止するためだ。もちろん、状況によっては皮膚科のステロイド軟膏も考える(現代医学に対抗する気はない)。

 親的には、”自然の生物から受けた被害に対処するヒントは、自然の中にもある”、と教える意図もある。

オウム真理教事件雑考 2 ハルマゲドンの思想

ハルマゲドンに関する事項は、オーム真理教の教義の中では異質なものだ。なぜなら、ヨーガ、とかチベット仏教、ヒンズー教、原始仏教などこの教団の教義の元ネタに関連していない。つまり、これらの元ネタには歴史過程の中に特別な意味(救済)を求める発想がない。

そもそも、ハルマゲドンとは、ユダヤ・キリスト教的歴史解釈に依拠し、近代的にはマルクス主義に連なる発想だからだ。

それは、神と悪魔の最終対決だったり、資本主義VS共産主義だったりする。もっと俗には、1999年に人類史上とんでもないことが起きるって風説だった。

つまり、歴史上の必然というところがミソ。そして善悪の仕分けもポイント。

また、カルトにとっては、集団の凝集性を高め、攻撃的な組織行動に走らせるためには都合のよい思想なのだろう。

テロリストまでとはいかないまでも、

”多くの人は知らないが、歴史上、未曾有の危機が迫っている。すでに目覚めつつある貴方は新たな歴史を切り開く者として期待が持たれているのだー!”

とか、世の中の現実を受け入れられない人なら、”よっしや、これぞわが道、頑張ろう”なんて思うのだろうね。

政治家のよくある手法としても、プチ・ハルマゲドン(みたいなもの)に備えて、現状を刷新する”維新”やりましょうって形がある。そして悪い奴ら誰かって話になるが、大きな問題ほど複合的なものだ。

オリジナルのハルマゲドンなら、正しい人たちが天国に行けました、人類史完結。これ、やっぱり神話である。現実、そうはかない。

思うに、人類史的に本当に問題なのは、経済の仕組みにせよ、科学技術にせよ、政治家が理念だけでもはや制御できないということなのだろうね。

オウム真理教事件雑考 1 高橋克也逮捕

なんだかきまじめそうなおじさんが逮捕された。「逃亡生活に疲れました。逮捕されかえってほっとしました、、」なんて、並の犯罪者のようなことは言っていない。

教団のテキストは大切に管理されていた。留置場では蓮華座組んで、マントラとなえているそうだから、むしろ、新たな修行の場が与えられたと”解釈”しているのだろう。この発想は教義にも組み込まれているはず。

こういうタイプの人、たとえば、上司にいたらどうだろう。

仕事は相当できるが、やたら細かい注意をする。遊びとか趣味の領域なし、上からの指示には盲従、部下の気持ちわかってない、とか勝手な想像をしてしまう。

ある報道によると、潜伏中のエピソードだが、1円にこだわる飲み会の割り勘、という例がある。

些細な例だが、こういった融通のなさ、ひいては物事のあいまいさに耐えられない感覚は、信徒一般にありそうだ。突き詰めれば、極端な峻別として、教団の外は絶対悪、ともなろう。

長い潜伏生活の中では、今なお惨い後遺症に苦しむ被害者の姿など、報道を通じて知る機会もあっただろうが、共感性をブロックする強固な心理的障壁の存在がうかがえる。

これはあくまで雑考、しかし世の中のできごと一般を考える契機として少しずつ書いてみたい。

清涼な深山の風のイメージ フウラン(風蘭)のこと

マニアに言わせたら、「なんだい、原種じゃん」ってことになりそうだが、コイツとは20年位付き合っている。やっとこれだけの風格になった。これは去年の写真だが、今年もつぼみを付け出した。

学名、Neofinetia falcata、江戸時代から注目され、多様な品種もある。園芸品種の場合、偉そうに富貴蘭と呼ばれる。

最近では外国産の近縁種との交配が盛んになっている。古典的かつ、先進的な園芸植物の一面も。

Photo

上品な香りがいい。昔は、この花を籠に入れて道中を楽しんだ殿様もいたそうだ。僕的には、深い、静かな山のイメージが広がる。

この蘭は、セッコクと並ぶ日本の着生蘭の双璧でもある。

つまり、地面に生えるのではなく、高い樹上の枝に張り付き生育する。そこには涼しげな風が渡っていくことだろう。

小学生のときの鮮明な記憶がある。この蘭が、中津川市の街角で、大きな木の切り株(長い風雪を経て風化したもの)に植えられていた。一抱えほどに育っていたが、おそらく数百年物だろう。真っ白な花盛り、それはほとんど神秘的でもあった。

家の民俗学 その1 水田

通勤電車で見る光景のことだ。ここ東京の郊外では、乾いた田んぼ水が引かれ、初々しい稲が植えられるようになった。

ところが、なじみの田んぼの一部は、冬の間に家が建ってしまった。よくある建売住宅である。

日本の家の10%は、統計上空き家だそうだが、東京ではまだこうして家が建てられ続けている。これも住宅市場の合理的帰結といえば、確かにそうなのだろう。

これはあくまで一般論のつもりとしてだが、田んぼってものは地質的に故あって(水利と土壌)田んぼなのだ。だから、入居するとしたら、僕的には少し気分がよくない。まぁ、それなりに地盤も整備して家が建つはずなのだけど。

おまけをいえば、水木しげるの描く妖怪に泥田坊なんてものがいた。これ、田んぼをおろそかにした怨念が怖い精霊になったものなんだよね。

地鎮祭も、田んぼオプションが必要って、これは冗談。

季節柄、気持ちのよい田んぼの写真を載せる。これは、奥三河で撮ったもの。手植えだ。この微妙な曲線と人の足跡もいい感じ。

Photo

サボテンが語る人間の難しさ

もし「未経験だが、サボテンを育ててみたい」と尋ねられたら、コイツを推薦したい。

とにかく、強い。水を控えめにして、日によく当てること。これだけで、毎年初夏に沢山花をつけ、秋には赤い実をつける。うちの娘はこの実を使って、ママゴトを楽しんでいる。

松霞という名前も風雅だ。まるで古き良き日本の原風景。

Photo

なんでうちに来たか、といえば長い話になる。

ある実業家がいた。業会では名の知れた名士だった。独力で事業に成功し、自社ビルまで建てた。

しかし、性格的に難しい人だった。後継者もなし、家族もなし。事業が不調になっても一切何も変えようとせず、人の忠告も聴かなかった。

認知症の兆候が出始め、社内は散らかったまま、いくら人を雇っても、従業員はすぐに辞めていった。

殺伐とした環境の中で、かろうじて生きてきたのがこのサボテンだ(助けを求めているように感じた)。こういった事業所にありがちなことだが、植物たちは今何が起きているかを如実に語るものだ。

かろうじて5ミリの芽がまだ青かったので、ここだけもらいうけた。そして6年後、育った様子がこの写真。

老人ホームの担当者に呼ばれ、最期に社長ご本人にお会いしたとき、彼女はほとんど話すことができない状態だったが、かろうじて言葉を聴くことができた。

「いい気味だと思っているでしょう」

正直にいえば、残念な必然、そして「人間って難しい」ってことだ。

このサボテンを観るたびにこの社長を思い出す。もっと方策はなかったのか、とも考えるが、答えはまだ見つからない。

大河ドラマ「平清盛」考 その5 諸行無常

いきなり唐突かも知れないが、ラテン語でこんな言葉がある。

Sic transit gloria mundi.  かくのごとく、地上の栄華は過ぎ去る。

この大河ドラマはとにかく分かりにくいが、ほぼすべてのキャラクターは実在の人物である。つまり、調べてみると、その後が分かる!というわけだ。

現状、清盛、義朝のファミリードラマとも酷評されてもいるが、その子どもたちの最期の姿もすでに明らかになっている。

そこを考えながら見れば、凄みのある話として、観ることができる。結論をいえば、源平ともども勝者はいない。

平家の滅亡にはまだ華があったが、源氏の滅亡は極めて陰惨だった。

日本的にいえば、諸行無常。

ところで冒頭のラテン語、一見、いわば諸行無常のラテン語版なのだが、実をいうと、「だからキリスト教に帰依しなさい」って話の一部分。

ローマ帝国の栄光の陰で、来世を語る宗教が力をつけつつあったわけ。この点、日本でもいわゆる鎌倉仏教の諸派が思想史上に現れる。

世の中の変わり目は、こういった出来事にも結びついている、と感じる。

「く」の字識別とアルツハイマー病診断(新聞記事)

つまり、「く」の字型のふくらみの角度の違いを指先でどれだけ識別できるか、こんなことでアルツハイマー病の診断ができる、って話。今日の朝刊から。

岡山大学、やるなあ。一体どこからこんなアイデアが湧いてきたのだろう。このプロセス自体にも興味がある。また、アルツハイマー限定なのかと疑問もある。

そこで、いろいろ考える。生物としてのヒトを特徴づけるものとは何か?普通は、言語とか、知能とか、思いつく。そして、道具。

道具を考えると、手わざ、指先の感覚にも思い至る。確かに、ヒトの指先の感覚は極めて明敏なのだろうね。指先とは、いわば、神経の最先端が集まる場所。

今思えば、乳児、幼児がしでかすいたずらの多くも、親としては頭の痛い問題ではあるが、この感覚を発達させるため必要なものなのだろう。

反対に、ヒトとしての感覚の衰えが顕著に現れる部分も、この指先感覚と考えれば合点がいく。

しかし、他のタイプの認知症では、どうなのか?

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