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2012年5月

統合失調症と遺伝子、そしてイデオロギー

昨日の夕刊の記事なのだが、統合失調症の発症に関連する遺伝子が特定できた、とある。

もちろん、これがあれば、発症というわけでなく、統計的なゆるい蓋然性の問題であるし、これだけが、と限定されるものではない。

マジメに考えれば、巨大な遺伝子情報の一部分が、全体との関連性の中で、意味を持つ情報の断片みたいなものだ。

この手の話は、科学的見解のレベルだけでなく、社会的文脈でも拡張されやすい。たとえば、ナチス的極右なら、遺伝的に”劣等”な(とされる)人たちを排除する理由として考えるだろう。

また、ソビエト的な極左においては、遺伝子が子孫に継承される研究自体が弾圧された(ルイセンコ事件)。

そしてこれは今でもありがちな見解、

市民運動系の人たちが、「遺伝子を調べて人を差別することにつながりかねない!」とか。

でも、こういうポジティブな見解もありうる。生物としてのヒトに着目してはどうだろう。概して、ヒューマニストはこの視点に無頓着である(名称的に矛盾してる)。

後天的な要因、生活上の出来事などが統合失調症の発症の引き金になるとしても、現に遺伝子も関与している。しかし、そもそも遺伝子の良し悪しを当然のように判断はできない(事実と価値判断は次元の異なる問題である)。

そもそも、そういった遺伝子があるとして、なぜ今まで継承されてきたのか、これが重要だ。

つまり、統合失調症が発症してしまうと、生存に不利であり、また子孫を残す機会も少なくなる。したがって、生物としての人類史上、この遺伝子(たぶん複数だろう)は強力な淘汰圧が加えられてきたはずだ。

でも残った。これは、反面の素質として不利な点を上回る有利な点もそこにあることを示唆している。

たとえば、馬鹿げた例だが、胃がんで亡くなる人が多いとしても、もし胃を発生させる遺伝子が無くなったら(誰も胃がんにならない)、そちらの方がよほど生存に不利である。

そこで、僕の精神医学の先生が言っていたことを思い出す。「気質的に統合失調症的な人たちには、特有の危険察知の鋭さがある」と。

実際どうなのか、僕はよく分からないが、だとすれば、自然環境の中では大いに威力を発揮できるだろう。

この能力、画一的によく管理され安全な社会では、それほど発揮されないだろうが、別途、特有の感性といった面は確かにある。

より少なくとも人類の文化に重要な要素の多くは(芸術面などに顕著)、そういった人たちが寄与している、と僕は確信している。

座敷童子(ザシキワラシ)の棲む家 そしてバンシー

毎日、うちの娘から膨大な質問を受けている。中にはとりわけ難しいものもある。

たとえば、「ザシキワラシは、どうして古い家にしか棲まないの?」

民俗学的難題である。

少なくとも、数世代にわたる生活のドラマが無い限り、そういったスピリチュアル性が熟成される余地はない。また、建売住宅でも論外。

住宅が単なるモノになりつつある、そして合理性一辺倒の思考自体が問題なんだ。僕としては、そっちの方がぞっとする。そういった家には、恐ろしい住宅ローンがとりついていたりする。

どんな家に出そうかっていえば、これ。

この写真は遠野で公開かれている旧千葉家、この土間の様子はすばらしい。どれだけの人がどれだけの情念でこの上を歩いたか。踏み固められた土間の様子は、心の痕跡でもある。

Photo アイルランドにも旧家に由来の精霊の話が伝わっている。その一つとして有名な”バン・シー”。

バン(bean)は、女性、シー(sidhe,sheeなど)は妖精の意味。つまり、とりあえず妖精族なのだが、昔早世したその一族の女性の霊、という解釈もある。

だから家族の誰かの死に際して、泣き叫ぶわけだ。家の守り神たるザシキワラシと一脈通じるところがあろう。

いずれにせよ、世代がつながらなくては出ようがない。無縁社会とは、これらの精霊の住まう、いわば、”心の生態系”を脅かすものでもある。

テルマエ・ロマエと日本人(平たい顔族、濃い顔族)

一般論でいけば、日本人(人種上の)=弥生系+縄文系。

この映画では、弥生系=平たい顔族、縄文系=日本人演じるローマ人(いわば濃い顔族)なんだよね。

ここまでコミカルに人種論に踏み込んだ映画というのもスゴイ。ちなみに僕は濃い顔族出身である。

上戸 彩はまさしく弥生系だ。たとえば、仲間 由紀恵を配役するならローマサイドしかない。仲間 由紀恵といえば、沖縄出身なのだが、西南諸島は今でも濃い顔族が非常に優勢だ。

弥生系は大陸系、コンチネンタルなテイストがあり、より古い縄文系は北上する黒潮の流れに関係がありそう。ポリネシアな香りも残る。

古代日本史でいえば、北方の蝦夷たち。その英雄アテルイの顔も彫像(お面?)で残されているが(実写ではないだろうが)、やたらに”濃さ”が強調されている。

ヤマトの側からすれば、これが蝦夷の基本イメージなのだろう。

ところで、ローマ帝国。

なにしろ大帝国なのだから、ローマ帝国人=(南部の西欧系)とは言い切れない。北はイングランド、南はアフリカ、東は小アジアまで含まれていたし、最近の発掘では東アジア人の人骨まで発見された(2010.2.5の新聞記事)。

重要なことは、人種に関わりなく市民権が与えられていたことだ。生粋のローマ人だけで、帝国が成り立つはずはない。それを基礎から支えるものの一つが、共通語たるラテン語。

文明とは、こういうものだろうね。

余談、うちの娘は、よく見ると左右の眉毛がつながりますます濃い顔だちとなった。この点、弥生系の母親は、少しばかり不満を持っている。

ラテン語の世界 その5 テルマエ・ロマエ 2

主人公、阿部寛演じる古代ローマ人ルシウスについて、名前そのものを考察する。

ラテン語表記は、Luciusだろう。読み方をもっと正確にいえば、ルウス。ルシウスという読み方は英語なまりのはず。

ラテン語でKは滅多に使用しない。その代わりにCを使ってカキクケコの音を表記する。サシスセソならSを使う。

その他、映画の登場人物(ローマ人男性)の名前をみると、ケイオニウス、ハドリアヌス、アントニヌス、とか、綴りでusで終わる名前がある。

これがラテン語らしい点。

男性の人名は最後がusが基本?いや、男性名詞の基本がそうなのだ。

先の記事では、名詞も変化しまくりまくりとお伝えした。これは、固有名詞も例外ではない!

と、ラテン語の授業で知らされると、みんなトンでもない科目を取ったものだとどよめくのがラテン語の勉強風景。

有名な言葉がある。

「ブルータス、お前もか!」これ、原文では、et tu、Brute!なんだけど、この文では、Brutusではない。

もしかして嫌な予感、、、

そうだ、呼びかけだから(名詞の呼格)Bruteなんだ。と、なる。

その他、大雑把に日本語でいえば、ブルータスは、ブルータスの、ブルータスに、ブルータスを、ブルータスによって、

これらは、それぞれ変化形を持っている。

もしこの映画で、上戸彩が「ルシウスさーん!」って呼びかけるシーンがラテン語であるならば、「Lucie!」になるはず。

ところで、ルシウスで思い出す人がぼくにはもう一人いる。

あのハリー・ポッターシリーズのルシウス・マルフォイ。

ハリーとか、ジニーとか、ロンとか俗な名前に比べ、現代では嫌味に古典的で高尚なイメージだ。その点、あの役回りに最適だろうね。ローリングさんはよく考えている。

ラテン語の世界 その4 テルマエ・ロマエ 1

結構な映画である。銭湯とローマ文明を結ぶ壮大なコメディだ。世の中、大きな変わり目なのだから、今一度、文明ってもの考える機会にもなる。

阿部寛と上戸彩がラテン語会話するんですかこれ(まだ観てない、、)。

さて、基本から調べてみよう(ぼくはずっと初学者なので、間違いがあるかも)。

題名であるThermae Romaeなんだが、Thermaeはそのまま辞書に載っている。

その意味は、温泉、共同浴場、湯浴とある。まあ、そりゃそうだ。

でも、注意すべきは、この単語、複数形の女性名詞、主格である。通常、ラテン語の辞書ではいきなり複数形で記載されない。ということは、もともと単数形で使用されない単語なのだろう。

次、Romae。この単語はそのまま辞書に載らず、Romanusで載っている。

これ、形容詞である(と思う)。Romanusは、男性、単数、主格の名詞を形容する形(辞書ではこれを載せる)。

この言葉が女性名詞、主格、複数であるThermaeに合わせてRomaeと語尾変化しているのだ。

意味は、”ローマの”。

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(2012.9.18.間違いがあったので追記

形容詞とすると、romanae。名詞Romaの属格としてRomae。いずれにせよ意味は、”ローマの”。

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したがって、この映画の題名は、”ローマの共同浴場”となる。いたって素直なネーミングだが、ラテン語名の映画とはね。

以下、一般論。

ラテン語とは、印欧語と呼ばれる巨大な言語グループの源の一つ。だから、この映画で聴けるラテン語なんて、温泉風にいえば”源泉掛け流し”である。温泉ファンも言語学ファンも楽しめるぜいたくな邦画だ。

日本の義務教育で習う英語も印欧語だが、これは相当”ぬるく”なっている。ぬるいとは、印欧語特有の語尾変化がかなり退化しているということ。学ぶ立場からすれば楽。

ところが源泉であるラテン語は、印欧語の本領を発揮して、とにかく語尾変化しまくりまくりである。とはいえ、それなりに規則性があるけど。

さっきのRomaeもその変化形の一つ。例外はさておき、名詞の格(主格とか、属格とか)には、6種あって、名詞の種類は単数、複数2種あって、また男性、女性、中性3種の種類もある。

つまり!形容詞を一つ使う場合でも、形容する名詞に合わせて6×2×3=36の変化を想定しなければならない。

が、英語みたいに定冠詞とか不定冠詞はないって、慰みになるかどうか。

これがラテン語の世界の第一歩。

オバマ大統領同性婚容認の記事についての雑感

オバマ大統領が、同性愛者差別反対を表明していたが、さらに踏み込んで同性婚を認め、リベラル派に政策アピールしたという話。

アメリカという国は、あれほど自由の尊さを持ち上げ、時には戦争の正当化にも自由という理念を使っているが、家族の規範には非常に厳しい国でもある。

しかし、アメリカでなくても歴史上を含めどのような国であれ、社会の単位として家族を認めなかったことはない、というかそれが無くては社会が存続しないのだろう。また、どこまでが家族かその境界も明確あることが必要とされてきた。

したがって、同性婚の是非は、”差別はいけません”的な次元の問題ではなく、実に根の深い複合的な事象に関係すると思う。

とても一言ではいえないが、

たとえば、その1

法的に有効なゲイのカップルに、法的に有効な養子として迎えられた子どもの立場とか。法制度的に正当化することはいくらでも可能だが、社会は法制度だけで成り立っているわけではない。いや、そのように考えること自体、差別的でいけないことなのか?

その2、

家族制度とは、お金の流れを決める制度でもある。つまり、否応なく相続が直結している。だから、法律婚をした同姓婚のカップルは、”現世”を超えて関係性を考えなくてはいけないだろう。お金がからむと、”純愛”も霞む?

以下総論。

同性愛への不寛容さは、キリスト教的価値観に負うところが大きい。また、寛容であることは歴史上必ずしも”進歩性”を意味しない。

男性の同性愛をより高次の愛の形として讃えたのはあのプラトンである(まさにプラトニックラブ)。というか、ギリシャ文明の常識だったが、後にキリスト教化した西欧では受け入れなかった。

日本だって、似たようなものだ。文明開化以前には結構普通のことだった。かの土方歳三にも”若い愛人”がいたが(彼の死後薩摩の有力者に奪われた)、それは武士道の一環だった形跡がある。

松尾芭蕉の「奥の細道」、どの箇所か未確認だが、はっきり記述があるらしい(普通の旅のエピソードとして)。

そういった文化が廃れたのは、日本が西欧化したからだろう。

でも、オバマ路線と大きくことなる点がある。それは、既存の婚姻関係とは異なる独自の認められた文化であったことだ。

子育ての哲学 その3 概念の発見

3歳の終わりごろから、足し算、引き算に興味を持っている。ただし、両手の指10本の範囲が限界のようだ。つまり、数そのものの観念の操作はまだ難しい。

一方、これまでごちゃ混ぜになっていた動物たちの名前の整理が進んでいる。チーター、でんでん虫、テントウムシ、タイコウチ、クモ、ゾウ、金魚、カラス、メダカ、カメ、プテラノドンなどなど、、

これらを、爬虫類とか、哺乳類とか、昆虫とか仲間分けを教えてみるとこれまた興味を示している。それぞれの類の概念を特徴づけるものは何か?

哺乳する生き物たち、これに人間も含まれることは重要だ。あらためて人間の原点に気がついたのか、昨夜は母親に哺乳をねだっていた。

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