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2012年2月

大河ドラマ「平清盛」考 その3 ヒーロー性

この番組、なかなか視聴率が上がらないそうだが、その原因の一つは話が難しいせいもあるだろう。

朝廷内の複雑な力関係、それは血縁関係の問題でもあるが、これがまた錯綜している。清盛の華々しい活躍の場といえば、源平合戦以前の保元・平治乱だが、これがまた分かりにくい構図になっている。

ストーリー上、なんとか貴族VS武士の構図を際立たせることで、わかりやすさを示そうとしているが(これがヒーロー性に重要)、やはり時代背景の複雑さで霞んでいることが否めない。

一方、歴代の大河ドラマで、同じく平氏を扱ったもので、かつ視聴率が高かったものは「風と雲と虹と」だ。これは、明快でかつカッコよかった。また、大河ドラマの設定としては多分最も古い時代設定だろう(承平天慶の乱)。

都の貴族の手先たちの圧政にあえぐ坂東(関東)が舞台。平将門は、坂東の民衆の支持のもと、都の勢力を駆逐し、その結果、独立の政権が生まれようとした。

その結果、彼は、反逆者として追討される立場となる。武勇には優れていても、率直で政略の苦手な将門は、次第に追い詰められ、激戦の最中、馬上で力尽き死んでいく。

そのプロセスの中、力を持つことが、民衆から自分が離れていくことに悩む将門の心理描写なんて伏線もあったりしてこれもよく分かった。

その盟友は、藤原純友、こちらも都の貴族に反旗を翻すいわば海賊王。こっちはしたかかキャラで将門とは対照的。でも、志は同じ。

清盛の方はこうはいかない。とりあえず政権側、海賊を討伐する立場だし。微妙すぎる。

というわけで、「平清盛」を面白く見るためには、参考文献も必要な感じ。というか、こちらは地味に勉強しながら楽しく?見るべきか。

ギリシャの今そして古典時代

哲学者のイメージって青白いインテリって感じなのだけど、哲学の祖の一人ソクラテスは全く違っている。

その逸話は、彼がいかにタフな戦士であったかを語ってくれる。彼は極端な例だとしても、都市国家を支えるのは個々の自律した市民である、これが古代ギリシャの基本的な意識なのだろう。

歴史上、隣のペルシア帝国がギリシャ世界の脅威になっていたが、ギリシャ市民たちは、あんな隷属した連中とは違う、と強い自負を持っていたらしい。その裏づけとして、個々の市民が、誰の命令でもなく、自前の費用で戦場に赴いていた例などある。

市民参加型の社会だから、言語能力も重要だ。また都市国家間の駆け引きもある。だから、哲学の素養も重要であった。

ソクラテスは政治参加にも熱心だったが、要はやりすぎた。そこで、政治的抹殺が図られる。死刑判決とはいえ、仕掛けた側は逃亡してくれればそれでいい、程度に考えていたらしい。

だから、ソクラテス救出計画は全然問題なかったが、ソクラテス自身が断ってしまった。その理由の一つは、「世の中ダメになったのは、自分が至らなかったせいもある。」から。こんな死刑囚は、人類史上彼だけだろう。恐るべき自負心。

で、ユーロ危機の最中にある今のギリシャ。今日の日経ネタであるが、これもスゴイ。公務員は労働人口の3割。給与は民間の2倍。年金はほぼ現役時代の給与相当額。

財政上、未来を食いつぶして役人天国というわけだが、公務員批判なんて俗な問題ではなく、その本質は、20世紀型の国家と個人のありかたそのものではないか、と僕は思う。

常動行動の意味 統合失調、舞踏、スーフィー

「踊りおじさんがいた!」とうちの娘がいう。近所にいる60代くらいの人なのだが、おそらく統合失調症の方なのだろう。

コンビニの前で缶入りのコーラを、独特の儀式的しぐさを加えて飲んでいる。これがいつもの日課らしい。また、特定の駐車場では、足蹴りのしぐさを交えて延々と同じ軌道を飛び跳ねてもいる。独り言はなく、人と話ている姿はみたことがない。完全に自閉、完結した世界にいるように見える。

しかし、内面的には疾風怒涛の状態ということも十分ありうるだろう。同じ動作の繰り返しは、興奮を鎮める必死の作業と解釈できるし、(経験上は)悪意に満ち、脅威を感じる世界と向き合う本人なりの形とも考えられる。

そのように考えれば、それなりの了解も可能だ。

健常者といえる人でも、緊張場面などではその人独自のしぐさが現れることがまれではない。こうして、観察力の鋭い人が、特定の人が嘘をついていることを見破ることがある。

不安や緊張を感じる場面自体好ましい状況とはいえないとしても、お決まりの動作で気持ちを鎮めるとか、考えを整理する習慣自体悪いことではなかろう。

もう少し積極的に考えると、そういった動作を自己開発してもいいんじゃないか、とも思える。緊張軽減を超えて、自己表現の手段ともして。

僕はいわゆる「暗黒舞踏」のトレーニングを少し受けたことがある。身体から沸き起こる波動みたいなものを、表に表出するプロセスを先生は教えてくれた。

頭が固すぎるせいか、なかなかそうはいかないけれども、日ごろ身体感覚への配慮をしていない、とは感じることができた。

本当にできたとして、芸術的にいえば、魂の根源から湧き上がる力の表出とか、なんてね。ほんとにできたらさぞかし気持ちがいいだろう(しかし、場所をかんがえよう)。

また、踊りが宗教的な恍惚感を高める手段になっている場合もある。スーフィー(イスラム教神秘主義)のダンスとか。

エジプトで見た人によると、常動的、つまり繰り返しが多いらしい。

話の成り行き上、スーフィー体験の参考文献として、

ラスト・バリア スーフィーの教え ルシャッド T. フィールド 角川書店

ラテン語の世界 その2 古典を学ぶ意義

世界には2極の文明の源流があって、それは古代中国と古代ローマ。イスラムも無視できないけれど、日本への影響度はあまり大きくない。

幕末、明治を駆け抜けた偉人たち、彼らはみな中国古典を学んでいる。江戸時代とは、この外来の思想を徹底的に消化してローカライズした時期といえる。

渋沢栄一という人は、元幕臣、日本の資本主義の父と称されるが、また論語学者ともいっていい。時代を最も先鋭的に生きた人は、同時に半端でなく古典にも通じていたわけ。これ、温故知新そのままである。

この素養を足がかりに日本の近代化は大いに成功したのだけれど、最近は息切れしている。とにかく、リーダーたちが軽すぎる。

最近の日経記事に、このごろの首相たちが読んでいる本が紹介されたのだけれど、「今、どうするか」的な本が主流で古典的なものは無かったように記憶している。

行き詰った現状の中で、原点回帰みたいな風潮もおきているようだ。中国古典から学ぶ経営学、みたいなビジネス書とか、ビジネス雑誌の記事。

一方、とにかくグローバル化ってことで、英語ばかりがもてはやされる今日この頃。僕的には、日本人の準アメリカ人化の推進計画みたいで、気持ち悪く感じている。

そんなに欧米に学びたいなら、文明の根本から学ぶ方法があるけど、つまりラテン語の世界である。

英会話みたいに、卑屈にならなくて済む。そもそも、現代ラテン語会話なんてローマ法王庁でしかありえない。

問題は、今に生かす含蓄の宝庫をそこからどれだけくみ取るかだ。そこには、中国古典のテイストとも一味違う楽しみがある。

すごく読みやすく、包括的な解説書があるので、ご紹介したい。

「ローマ人に学ぶ」 木村凌二 集英社新書

ネーミング自体、端的明快、内容に偽りなし。

 

ラテン語の世界 その1 フィニアスとファーブ

フィニアス君いわく、「”カーペディエム”って言葉知ってる?」

わが耳を疑った。アニメの主人公がいきなり、ラテン語使うかい!いや、そういえば、このアニメこれがテーマなんだよね。

つまり、フィニアスとファーブは、夏休みの一日一日を最高にゴージャスにすることをもくろんでいる。カーペディエムとはまさにそのことだ。

carpe diem. (正確にはカルペ・ディエム)ホラティウスの詩集にある言葉。1000年のときを隔ててアニメにも登場。

carpeは動詞carpo(摘む)の命令形。diemはdiesの変化形(対格)、日を、という意味になる。英語のdayのオリジナル形。英語ならthe dayにあたるが、ラテン語に、aとかtheに相当するものはない。

毎日を大切にしようという積極的な意味がこのアニメの主題になっているが、オリジナルの詩では、もっと憂いがある。

ホラティウスは、こう続ける。quam minimum credura postero.(明日という日に、できる限り信頼を置くことなしに。)

この世の無常を受け入れたうえ、いまこの時を最大限生きろと彼は詠っている。なかなか身につまされますね。これが古典の醍醐味。

さあ、今日できることは今日のうちに済ませましょう。

幼児の経験世界 ガーディニング

時は21世紀。家の中は家電だらけである。指先の操作一つで好き放題。

そろそろうちの娘も、勝手にテレビのリモコンを操作し出した。これ、いいことなのか。

つまり、行為と結果が即時につながることのあたり前さ。しかし、時にはじっと待つことも大切だ。

赤ん坊は、ただ泣きさえすれば、親があたふたと対処してくれるだろう。今の生活環境は、便利さを追求するばかりなので、子どものまま大人になることにつながり得ると思う。

去年の暮れ、スノードロップの球根2個を娘と植えた。小さな植木鉢である。

芽が出てつぼみをつけたので、少しずつ水やりを指導している。そうすれば、花が咲いたときのサプライズもひとしおだろう。

園芸には、長い時間感覚が必要だ。時には数年以上のこともある。これが教えてみたいことの一つ。

もう一つは、不確実性。一つの球根は花を着けなかった。たとえ、努力が報われなかったとしても、いちいち文句を言わないことを教えてみたい。

この世は、個人の期待と都合で回っているのではないから。

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