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2011年12月

ゲール語のテイストを学ぶ 9 クリスマス

寒波が来た。今年のクリスマスは寒そうだ。みなさんも、お体に気をつけて楽しいクリスマスを。

アイルランド・ゲール語の表現の一例。

参考は、「ゲール語四週間」大学書林

Nollaig mhaith dhuit.(ノリグ ワァヒ グイッチ) あなたによきクリスマスを。

もしあなた方なら、 dhuit→dhaoibh(グィーブ)

nollaig がクリスマスのこと。

下の写真は、ちょっとレアな純白サンタクロース。ドネゴールのショーウィンドウで撮影した。雪の妖精みたいだ。

Photo

さあ、心の除染を始めよう その2 それは数ある中の一つ

野菜を買ったら虫が入っていた。これをどう感じるか?

とたんに凶暴なクレイマーに変貌、店員に食ってかかる客もいるだろう。こんな答えはどうか、「うちでは虫さえ食べない野菜を売ったりしません」。

で、どうなるか。ぜひその様子YOUTUBEにでも投稿してもらいたい。タダでなくてもいい。できることなら数例で比較できたら最高。

考えてみよう。現在の常識では、虫さえ食べないものを、人間が当然に食べている。

僕には農業の心得が少しある。だから、たとえば、普通に、露地でキャベツを育てたらどうなるかを知っている。

モンシロチョウその他の虫の幼稚園状態。つまり、かわいい青虫さんだらけ。さすがにこれでは食欲が失せるので少しは農薬を使うことになる。

虫たちは悶え苦しみながら死んでいく、、、。ってことは、あたり前に毒だからである。だから実感として、販売目的の整った、外観上非の打ちどころのないキャベツにどれだけ農薬が使われているか、僕なら少し気になる。

それほど昔でもなく、中国で生産された冷凍食品から、高濃度の農薬が検出された事件があった。これは故意になされたもので、それは相当危険な量でもあった。事件の詳細はさておき、農薬で虫が死ぬか、人まで死ぬか、それは程度の問題である。

程度の問題といえば、ラドン温泉、ラジウム温泉。つまり放射能オプション付き温泉も現実にあるし、その効能も期待されている(ホルミシス効果)。これ、僕の知る限りオカルト科学ではない。

雨水から放射能が検出されたからといって、雨上がりにか弱い虫たちがバタバタ死んでいた、なんて話は聞いたことがない。もちろん、農薬とは、”毒”の効き方が違うので余度の量でない限り速効性はないとしても。

けど、毒は毒なのだ。僕は実感のある毒物の例として農薬をあげたけれども、有機水銀、カドミウム、トリハロメタン、その他いろいろ過去!に注目された毒物があるけれどこれらの物質の存在が身近に無くなったわけではない。一般には、思考の対象として消去されているにすぎない。

トリハロメタンなど、水道水中の塩素に関連していて実に身近である。その効能、、じゃなかった毒性は、発がん性と催奇性である。これは放射能の有害性とかなり類似しているのではないかな。

放射能汚染が深刻な地域なら別として、放射性物質だけを特段の配慮の対象とする理由はどこにあるのだろう。

さあ、心の除染を始めよう その1 直線思考の弊害

放射能問題を継続的に扱ってみたい。少し遠回りに始めてみよう。

昨日思いついた例がある。彼は、僕のバイク仲間であった。ある日、熱心な彼の情熱に付き合わされたことがあった。

以下その論旨、

北海道へ旅をしたい。北海道には、ヒグマがいる。ヒグマに遭ったらとても危険である。

だから、猟銃が必要だ。これから猟銃を買ってみようと思う。

って、言う。日本で銃器がどのように規制されているかはさておき、「常軌を逸している」とほとんどの人は、評価するだろう。

しかし、論理自体が間違っているわけではない。だから、厄介なのだ。

さらに、こんなこともあった。

彼が出勤したら、湿疹ができてかゆくなった。そこで、上司に掛け合った。「これは、大きな病気の前触れかも知れない。今すぐ医者へ行くから、年休が欲しい」

上司は、唖然としながら、”熱意”に対抗できず、年休を与えたそうだ。

こんな具合だから、どんな職についても長続きしていない(就けるだけでも大したものだが)。

これは、熊が問題なのか、湿疹が問題なのか、当然、本人はそれしか見えていない、、、”重症”である。当然、思考のパターンや良識問題に帰結するわけだが、これを当人に説明することは至難の業である。

いわゆる情報化社会では、誰でも個々の莫大な情報にアクセスできる。しかし、それをどのように統合し活用するか、これは個々の情報の直線的な結びつきからは出てこない。

だから、単なる知識の量の問題ではないし、一般的な頭の良さもそれほど関係ないだろう。

これを前提に、放射能との関わりも考えてみるべきだ。

子どもとの対話 命と花、月と太陽

エピソード1

今日の朝、悲しい知らせを娘に伝える。

「コウロギさん死んじゃったよ」

このコウロギ、9月に公園で捕まえたものだったが、さすがに力尽きてしまった。野外の仲間の声が途絶えてしまったあとでも、長く、しかしだんだんか細く、鳴き続けていたものだった。

ベランダの片隅、少し土をしつらえて野生のデイジーが植えてある脇に彼を埋めた。

「春になったらね、コウロギさんはお花になるよ」

「本当?」

「多分ね」

エピソード2

(低い西の空を観ながら)

娘、「まだ、お月様出てるよ」

私、「太陽さんとこれから交代するよ、バイバイするけど、夜になったらまた会えるよ」

娘、「そーか、また会えるかぁ」

子どもとの対話 大いなる循環

今日は月曜日。古代ローマ人が月の日(Lunae dies)と名づけ、明治維新後の日本人もこの習慣を受け入れている。

通常の日付は直線的な進行しかないが、曜日は循環する。日本古来の十干十二支も同じ。直線的な時間感覚とは別に、このような循環的な時間感覚もある。こちらは自然の摂理に根ざしている。

「今日は月曜日なの?」。うちの娘も、だんだん分かってきたようだ。月曜日が来ると、しばらく保育園に行かねばならない、、、。けれど、また両親が一日中遊んでくれる日が来る(しばらく我慢)。

この世界の法則。季節の循環はすでに知っている。葉っぱは落ちるが、また春になれば芽吹く。冬が来て、死んでしまった虫さんたちも、夏は来ればまた会えるとか。

月の満ち欠けがあること、これも不思議なことのようだ。保育園の帰りの夜道で、時々レポートしてくれる。そして季節の星座、これは今後の課題。

季節や月の満ち欠け、これはコスモロジー(宇宙論)の感覚。しかし、近代化された生活様式の中では、このような自覚は薄れていくもののように感じる。

人間の作った小賢しい秩序を学ぶことも大切だが、こればかりだと尊大になりそうだ。

一方、生をいつくしむこと、死と向き合うこと、そして自分が何者であるかの確かな根拠、それらは自然界の大いなる循環の認識から、育まれる心性だろう。

人間の一生もまた、生かし、生かされる循環の歯車の一つ。

ジャック・アタリ氏講演会(中央大学)メモ その後の検証

「私の予想が当たったとして、私は誇るつもりはない、まず、皆さんが危機に備えることが大切なのだ」と、彼は言った。

米国をはじめとする国家の威信の低下、世界の無秩序化に備え、我々に何ができるかを、自問自答することを彼は薦めていた。

国に頼ってはいられない、これからは自助努力、利他的な価値観の重要性、国家を超えたプライベートセクターの必要性、これらのことがその指針として挙げられていた。

その後、何が起こっているかといえば、日本の大震災。さすがに彼も日本の自然災害までは予測できなかったが、東北のコミュニティーの根強さは世界の賞賛を受けることになった。それに比べ、国家の面目はどうだったか。

アラブの民主化、これは的中だろう。民主化といえば聞こえがよいが、まだ事態は極めて流動的である。民主化というより、無政府化に近い。

ユーロ圏の危機、まさに国家の威信の崩壊。金融機関レベルの経済危機は、国家の財政的存続にも及んでいる。これは、その経歴上、彼自身自問自答する結果にもなっているだろう。

次は、中国経済の内部矛盾の噴出とか、日本国債の暴落とか、ありそうであるかも知れないことかも。

意外に注目すべきは、ブータン王国の幸福度。

では、個人レベルで、今、何ができるか。国際貢献NGOを立ち上げましょう、なんて話以前に、日常レベルでいろいろありそうだ。

とりあえず、目線を低く。たとえば、同じマンションの住民と面識を持っておくとか、深刻な危機ほど、ささいな日常の積み重ねが威力を発揮する、と僕は感じる。

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