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2011年9月

命のつながりについて

今日は、遅めの時間帯で、保育園に行った。うちの娘の同級生たち、つまり本年度3歳の子どもたちと、沢山の挨拶をする機会があった。

若い命と触れ合うことは、実に、気持ちがよい。

この子どもたちは、命の流れの最前線にいる。思いっきりマクロに表現すれば、はるか数億年前、この地球に生まれた生命をこの子どもたちは引き継いでいる。

途方もない話だが、進化論に従えば、真実である。

命とは、バトンリレーのようにつながっていく。というと、のどかだが、走者はいずれ交代する。実際のバトンリレーでは、バトンの受け渡しは一瞬のタイミングでしかない。この一瞬のタイミングとは、子どもとこの世にいられる時間のことである。

人間の経験尺度を越えた、長い生命の流れの中でみれば、確かにそれは、一瞬である。

日日是好日 困難に向き合う言葉として

今年の夏休みは宮古島へ行った。ところが、台風が2つ接近中。事なきを得たが、泊まったホテルの部屋には、この言葉、渋い禅語があった。実際、好日続きであった。

現在、東京へも台風が接近中。もうすぐ暴風雨か?そこでこの言葉を再び思い出す。

雨風、洪水をしのぐ安全な場所があればとりあえず問題ないが、生きてればどんな災厄があるか分からない。けど、この言葉は、いわば、人生の絶対肯定を求めている。考え様によっては、とても厳しい言葉である。

たとえば、「なんで自分が!」なんてことは、いろいろあるけれど、誰かを恨んだり、自分を責めたり、現実回避の方策を思案しても始まらない。理不尽なことや、不運を正面から受け止め、乗り越えろ。この言葉は、そんなメッセージを含んでいると思う。

ただし、がむしゃらだったら、このテイストに外れるだろう。禅語だし。もっとスマート。

現実にうろたえず、耐えられないものも耐え、黙々と今できるなすべきことをなす。その姿は、清清しさを感じる、、、禅的にはこんな境地なのだろうね。

禅と子育て、イクメンは修行である

うちの娘は、オムツ外れ一歩前だが、昨夜は久しぶりにウンチによるオムツ交換を実施した。ほとんど、懐かしい作務である。娘もいつになく、神妙、、。

今、作務と表現してみた。作務とは、禅的な言葉だ。なぜって、禅では日常生活に伴う諸般の雑務を修行の一環として考えている。

禅といえば、道元。この人、教科書的にはひたすら座禅をすることを薦めたとされているが、一方では、日々の生活すべてが禅であるとも言っている(行住坐臥)。つまり、あたり前の日常をまっとうすること自体、正しい”道”というわけだ。

残念ながら、道元が子育ての作法を語っている形跡はないと思う。けど、これほどヒューマンな日常作業が、修行の対象にできないわけはないだろう。

ある意味、子育ては苦役である。新生児なら、夜昼かまわずオムツ替えやら、ミルクの調合なんかで忙殺される。明日は仕事だ勘弁してくれって感じ。

でも、人が人を育てることは、本当に人間の基本的な行為だといっていい。親としても、初めて親になったのならなおさら、人としての成長の機会にもなりうる。つまり、修行である。

昨今の風潮によれば、終身雇用に期待するなど、時代遅れで、一生仕事のスキルを高めましょうって、それはそれでいいけど、産業に期待された労働生産性の向上、だけが人間生活のすべてではない。

かの、道元。エリート修行僧だったから、海外留学もできたわけだが、そこで大きな転機を経験している。

それは、食事係の老僧との出会いだ。若い道元にとっては、スゴイ教理とか、カッコイイ座禅修行にあこがれていただろうけど、この老僧との出会いから、男のクッキングも崇高な修行になりうると悟った。そして、やがて本当に悟ったとされる。

ぼくは、この逸話が大好きである。

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