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伊豆紀行 その2 川端康成、伊豆の踊子

観光ガイド的にいえば、、小説”伊豆の踊子”の舞台となった道を歩いてみよう。この小説はかなり実話なので、現地の、この小説の舞台に上がってみるのも一興。

そこそこ旧道が残っているので、一般車道を離れてこれをたどればいい。ごくショートコースでいくならば、車道からはっきり脇道が旧天城トンネルへ通じているので、この脇道に入り、トンネルを抜け、そのまま山道を歩くとまた車道に出る。

この旧天城トンネル、ぼくはまだ電灯がないときに、通過を試みた。で、挫折した。それは、夏の夕暮れで、ヒグラシが寂しげに鳴き、他にだれもいなかった。

真暗である。10メートルも入ると、自分の手も見えない。遠のく現世みたいに、入口が小さくなる。で、出口に向かって走る。足元に何があるかもわからない。

小さな点として、出口があるけれど、そのうち揺れて見える。暗闇の中の錯覚だけれど、さすがに恐怖を感じたので引き返した(いくじなしである)。しかし、川端康成はこんなトンネル体験を取り立てて記述していない。当時としては、トンネルが真っ暗なのは当たり前なのだろう。今は、電灯付きの古風なトンネル、普通の観光名所である(心霊スポット説もあるが)。

で、伊豆の踊子なのだが、旧制一高校である”私”と踊子の出会いの逸話である。一見、旅先でのはかない恋愛エピソードなのだが、”私”と踊子の間にある社会的溝がはっきりある。また、これを飛び越えることなど、どちらも毛頭考えていない。

そもそも、旅芸人の地位は、ひどく低かった。この小説は、これを当然のこととして描いている。踊子一行は、伊豆の温泉街をめぐり歩きお座敷芸など披露しているのだが、宴席の喧噪が止んだとたん、”私”は、「踊子の今夜が汚れる」と心配している。

それって、当時の感覚からして、芸以外にもオプション的に売るものがあることが前提だからだ。

ところで、川端という人は、いわば魂のホームレスだと思う。親も、祖父母も幼くして次々に亡くなっている。こうして、あちこちに引き取られて成人した。その一方、学校の成績は、神童レベル。こういった人は、いろいろ難しい問題を抱えこむものだ。そこで、一種のリセット感覚で伊豆に旅行した。時に20歳。

魂のホームレス、この言葉は僕の造語だけれど、つまり、丸ごと自分をそのまま、打算とか、条件とか無く、受け入れてくれる場所がない、という意味。その青年(超エリート候補である)は、いじけていたが、踊子たちに出会い端的にいい人ね、とそのまま存在を認められたことで今までとは違った自分に出会うことができた。これが、青春小説としての、伊豆の踊子の本題だろう。

川端は、以後、伊豆に創作活動上の重要拠点を持つが、これは自分で見つけたホームみたいなものだろうね。伊豆の風土も関係があるのでは。

それは、田舎のようで田舎ではないような。古くから温泉地として知られ、常に外から人を迎え入れることに手慣れている文化があるように思う。

伊豆の踊子のハイライト・シーンは、裸の踊子が、子どもっぽく、湯煙の向こうから手を振ってくれる大らかな場面。そこで”私”は心の氷がじわっと溶けていく。

踊子は、一行の話によれば14歳だが、化粧や髪型でもっと年上に見えている。また、文盲に近いらしい。家族のいろいろな都合で、こうやって旅をしているのだ(今なら児童相談所の介入が当然だろう)。

踊子につき、重大な事実もあったらしい。しかし、川端は書かなかった。それは、踊子がすでに梅毒を患い、湯煙シーンの裸を見るだけで分かったことである。相当に進行しているということか。

どうでしょうかね。そんな状況にある女の子が、いじけた自分に、率直な天真爛漫さをもって手を振ってくれたら。「だいじょうぶ、あなたはあなたのままでいい」こんなメッセージを伝えてくれるのだとしたら。

このエピソードを踏まえると、この小説、ポワンとした恋愛小説ではなく、凄みのある青春小説と分かる。

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