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2011年2月

進化論的強者とは

春めいた休日の公園で、うちの娘とハトにエサをやった。期限切れのかっぱえびせんだが、この効果は絶大である。ハトの大群に取り囲まれ、娘は大興奮。

公共の場、このようなエサやりの是非はともかく、ハトの個体別の行動の差が興味深かった。大胆に人の手からエサを食べるハトもいれば、あくまで遠巻きでエサを拾うハトもいる。ドバトは模様がそれぞれ異なるので、この違いがよく分かる。

この行動の差を、単純に、勇気遺伝子、臆病遺伝子の差と考えてみよう。勇気遺伝子を持つハトは、エサを沢山手に入れることができるから、多くの子孫(勇気遺伝子を持つ)を残す結果となるだろう。従って進化論的強者である。

が、それは人間の事情に異存している。ハトをおびき寄せ、今晩のおかずを取得しよう、ってことになれば、臆病遺伝子を持つハトの方が優勢になる。

つまり、進化論的強者、弱者とは、絶対のものではなく、その環境如何に関わっている。もう少し、深く考えてみる。個体間のばらつきがある程度大きくないと、環境の変化についていけず、一度に絶滅って場合もありうるということだ。少しは外れモノがいた方がいい。

あくまで、アナロジーだけれど、企業の存続について、淘汰されるとか、されないとか、進化論的表現をすることがある。この不況下、人材の選別にどの企業も熱心だろうけど、やたら均一の基準で人材を登用したら、まずいことも多いだろうね。

たとえば、現在の企業環境に過剰適応してしまうと、将来、新しい変化についていけないこともあるだろう。その場合は、人材の使い捨て?これも、怖いぞ。

余談、最近のリクルートたちは、服装が恐ろしく均一化しているように見える。中身までそうなっているのかなあ。これは進化論的にみて危険である。

アイルランド入門 旅行に行く

かなりマニアック?いやーそれほどでもない。英国の隣の国だ。

とりあえず、英語が通じる。日本を出発して、その日のうちに到着できる。それは、時差が大きいから。ロンドンのヒースロー空港から、国内線のターミナルで乗り換えて入国する方法が一般的である。

いきなり首都ダブリンから入るか、これが肝心。その人の趣味にもよるが、僕なら、西のシャノン空港、あるいは、南のコーク空港を選ぶ。その理由は、田舎が好きだし、レンタカーを使うから。

田舎の方を旅するなら、レンタカーが一番。事前に日本で、なじみの日本車を予約しておけばいい(日本車が相当普及している)。加えて右ハンドル。左側通行だから、日本での運転とさして違和感はない。道路標識もなんとなく分かる。ただし、ロータリー式の交差点には戸惑うだろう。

具体的には、国際免許の取得(簡単である)、到着と出発に備えて、空港近くのホテルを予約、レンタカーを予約。あとは、お金さえあればなんとかなる。

あとは、好きなところを旅すればいい。宿?いくらでもある。全国民宿だらけである。いわゆるB&Bなのだが、英国よりはるかに多い。好きな宿をその場で選ぶ、これがいいんですよ。

国全体が観光客慣れしているので、英語が英検2級程度あれば、現地の情報を頼りに、思わぬ穴場を見つけることができるだろう。国民一般、観光案内が大好きである。

やたらに、史跡が多く、西部地方の景観もすばらしいが、概して華やかな場所ではない。どれだけ楽しむことができるか、それはその人の眼力による。

つまり、ある程度事前勉強しておく必要がある。歴史とか、音楽とか、文学とか、そのあたりのことである。これが一番大切というか、アイルランドの面白さだと思う。学習と経験の積み重ねで面白くなっていくから、アイルランド旅行者はリピーターが多い。

現地人との付き合いも面白いが、他のヨーロッパ諸国からの旅行者との付き合いもいい。ドイツ語、フランス語の挨拶でもかじっておくと、旅のエピソードが膨らむだろう。

アイルランド入門 アイリッシュ・パブについて

アイルランド最大の祝日、聖パトリックデイも近いので、アイルランドネタを増やしてみよう。

そもそもこのブログの表題は、アイルランドの哲学者エリウゲナにちなんでいる。かつ、何を隠そうこの僕は、日本アイルランド協会の会員である。

で、パブ。日本では、これを風俗営業の業態の一つとして認識されているが、世界的奇観であろう。だって、パブリックな(開かれた)場所だから、パブなんだから。

日本では、風営法の規制を受けている。すると、学校の近くには開設できないとか、外から内部が見えてはいけないとか、いろいろ制約を受ける。なにしろ、許可を与えるのは、公安委員会。

その趣旨は、オジサンたちの情けない様子を子どもに見せないって、感じ。これじゃ、全然パブリックではない。

要は、オープンな飲み屋である。アイリッシュとつけば、地元民に開かれた社交の場であり、音楽のセッションが開かれることもあり、まれではあるが、ダンスのイベントもあったりする。あの「タイタニック」の映画(船底酒場)を思いいかべればいい。また、暗黙の了解として、気軽にお互い話しかけてよし、とされる。

日本の飲み屋とどのように違うか。やはり、この暗黙の前提が大きいと思う。たとえば、アイルランドで、日本人一人でパブに入るとすると、田舎の方ならなおさら、こっちで飲まんかいって声がかかる。ただし、普通の英語が通じる保証はない。

あるとき、こうして地元の若者たちに招かれた。でも僕は外国人だから、「この人には、アメリカ映画みたいな英語で話さなければいけないよ」と彼らの申し合わせがあった。お気遣いありがとうね。

相手が年長だったりすると、ギネスビールをおごってもらったりとか特典がついたりする。

幼児の経験世界 食育の重要性

昨日、「イヤー!」と食べなかったものを、今日はあっさり食べる、、なんてことはよくある。

だから、「この子は、○○○が嫌いなんだ」って、決め付けることは望ましくない。食材の好みなんて、いくらでも変わりうる。なんたって、幼児は柔軟なのだ。

その理由の一つとして、多くの大人のように、私は○○○が嫌い、とか、言語的に自覚が確立していないからだと思う。その場の感覚的な状況設定が、食べ物の好嫌を決定付けているのだろう。

ところで、大胆な仮説を立ててみよう。

食べ物の好き嫌い(ただし、アレルギー等生理要因は除外する)と、適応力は相関関係がある。

この場合の適応力とは、対人状況への適応力を含む。つまり、食べ物にこだわりすぎるタイプの人は、対人関係にも支障を生じやすい。

どうですかね。このネタ、心理学科の卒論にも使えるだろうか。

子育て論的にいえば、両親世代の食習慣に加え、祖父母世代の食習慣も取り入れた方が望ましいと、提案できる。その方が食習慣に深みがでるからだ。そうすると、将来、生き抜く状況の多様性にもつながるのでは。

こんな話もある。こどもの社会的不適応の最たるものは、少年非行であるが、その少年鑑別所での話。調理係の人が、家庭料理風の献立を作ってもなかなか食べてくれないと嘆いたとか。つまり、非行少年たちはファストフード志向が相当強いそうだ。

まあ、かといって、ハンバーガーを意地でも食べないというのもどうかと思う。要は、余計なこだわりはいらない、持たせないということ。栄養学的”食育原理主義”になることはない。

L.ワトソンいわく。

「人間とは、悪食のサルである」。

人類の楽しみの一つは、多様な食に親しむことができることである。こんな動物、他にはない。だから、極地だろうが、砂漠でも熱帯雨林でも、人類は生き抜いてきた。これぞ適応力。

愛知県を英国にたとえる話(ただのお国自慢)

昨年見た、京王線のポスター。「武将都市名古屋」って、これは笑ってしまった。

それなりに根拠はある。かつて日本を征服した三人の武将、信長、秀吉、家康、いずれも今でいう愛知県民である。しかし、愛知県とは、二つの国の連合で成り立っている。尾張の国、三河の国だ。

ところで、英国も二つの国の連合国家。それは、イングランドとスコットランドである。では、イングランドの首都ロンドンを名古屋。スコットランドの首都エジンバラを、三河の中心?豊橋になぞらえたらどうだろう。

さらに、、、スコットランドには、ハイランド、ローランドがある。おお、猛々しいハイランド、このハイランダー(映画にもなった)たちの割拠する地域を奥三河になぞらえてみよう。いい感じである。戦国時代の常識でも、三河兵は、尾張兵よりずっと精鋭であった。ただし、数も少なく、地域の産業的基盤も弱い。この点も、いかにも、スコットランド的。

この日本のハイランダーたちの歴史はあまり知られていないが、すばらしい長編小説がある。「風は山河より」宮城谷昌光、全5巻。これはお奨めである。

江戸とは、尾張人、秀吉が、「おみゃーにやるでよ!」とか、小田原城包囲戦の最中、三河人、家康に与えた植民地みたいなものである(後、薩長勢力に奪われているが)。

今ではこの植民地、ずいぶん栄えている。今のアメリカもそうだ。アメリカだって、元は英国の植民地。

とはいえ、江戸期の三河人はつつましかった。「三河屋」なんて、いかにも良心的零細企業のイメージである。「越後屋」なら、悪代官と結託してそうだが、、、(あくまでたとえ、僕の本心では、新潟はとても好きな地域です、念のため)

相撲の民俗学

最近、何かと話題の多い大相撲。民俗学的見地から少し書いてみる。

これ、格闘技かといえば、そうだ。しかし、ボクシングとかプロレスとはかなり違う。見世物としての興行?かなり違う。国家に監督された公益法人が運営主体だ。国技だから別格、だから八百長なんてとんでもない。まあ、そうだろう。

国技というのもなんというか、非常に近代的な発想だと思う。ルーツ的には非常に古い。民俗学的祭祀という側面もある。というか、その方が根っこにヒットするだろう。地方には奉納相撲なんてものがよくある。こちらの方が原型かも。要は、神様も含めたイベントなんだよね。

たとえば、しこを踏む、これは明らかに儀式的である。土地の神様と交流する意味合いがあるらしい。大相撲が地方を巡業するって、これは地方ごとにスーパー地鎮祭をやってるようなものである。

民俗学的にいえば、自然界には神様が充満している。その土地、山、川、海それぞれに神様がいる。力士の名前は、基本的にそこから来ている。でも最近はかなり適当だろうね。かつての連合艦隊の艦の名前もそうだ。地霊のご加護にあやかるという意味合いがあるのだろう。戦艦大和の沈没は象徴的である。

大和は、大和の国(奈良県一帯)の意味でもあり、日本国それ自体の意味もある。だから、イメージ的にも戦艦大和の沈没は敗戦に直結する。

今回の、八百長事件。まさか、大和の何とかって力士はいないだろうね。もともと、そんな大それた名前の力士は相撲界にも居ないと思うけど。

幼児の経験世界 罪の意識

取り返しのつかないことをしてしまったらどうするか、大人でも重大な課題だ。数日前、うちの娘もしでかしてしまった、、、。

実のところ他愛のないことである。しかし、本人にとっては大変なことのようだ。今もこの話題になると、涙ながらに、「ダメー、もう会いたくないの」と訴える。

スーパーマーケットでもらった風船に顔を描き、紙の手足、髪の毛を付け、お友達を作ってみた。名前は、「パルエットン」。以前からの娘の空想上のお友達、パルエットンを実体化してみたわけ。

いろいろ遊んでみたのはよいけれど、僕が目を離した隙に、こともあろうに、つまようじで突いて割ってしまった。「バン!」

娘は、呆然として、パルエットンの「なきがら」を持ってきた。「また会えるよ、作ってあげるよ」、と慰めるが聞かない。泣いてばかりいる。

娘としては、ごめんなさい、で済むことではないらしい。もう相手がいないというわけだろうか。もし会ったとしても怖いとか、つまり、娘の知る社会的作法で対処できない、まあ、こういうわけだろう。2歳児では、こういった感情の処理の仕方を知るわけがない。

「社会的作法」と書いたが、つまり文化である。たとえば、慰霊碑的な物をつくって、花をささげるとか、私たちはこういった文化を継承している。

極めつけの話、交通刑務所ってご存知だろうか。交通事故などを起こした人たちが収容されている。交通事故で刑務所に入るなんてただ事ではない。当然、死亡事故関係者が多い。だから、刑務所の中に「つぐないの碑」とか建っている。これは、墓参の代わりに使われているそうだ。

多くの神社も、非業の死を遂げた死者を奉っている。やってしまった側としては、相手を神様にしてお許しを乞う必要を感じたわけだ。これは、最も洗練された文化的贖罪の様式だろう。

話が大きくなった。要は、感情処理の仕方として文化がある、ということ。人は大人になるに従い、そのスキルを身につけるのだろうし、社会的規模でこれを行うこともある。

民俗学への招待 愛知県奥三河 田峯田楽

東京の雪景色。かなり久しぶりだ。ところで、愛知県奥三河地方は、知る人ぞ知る民俗芸能の宝庫である。

今日は、愛知県北設楽郡の山里、田峯で数百年間恒例の田楽の奉納が行われる。そして、明日は、村人出演の歌舞伎が続く。

古刹、田峯観音がその舞台。言い伝えによれば、村人が願をかけたところ、季節はずれの降雪によって、代官の追求を免れた村人が、観音様への誓いにより奉納を始めたとさえる。

厳粛な、観音堂内の儀礼に始まり、薪の燃える前庭に舞台を移すと、ハイライトシーンである。玄妙な笛の音にあわせて、数々のスピリチュアルキャラクターたちが登場する。最後に、薪を跳ね飛ばし、荒れ狂う獅子が登場して終演を迎える。つまり、次第に祝宴的演出が強まり、翌日の歌舞伎でお祭り状態。この変遷が面白い。

この田楽の行われる日は、決まって雪が降るとも伝えられている。さて現地はどうだろうか。雪が降ったら状況設定は完ぺき。

挨拶の意義について

保育園の教育のおかげもあり、うちの娘はなかなかいい挨拶ができるようになった。今どきの風潮として、「高度な幼児教育」に関心を持つ親も多いと思うけれど、挨拶はよりファンダメンタルなものだと思う。こっちの方がはるかに重要だ。

挨拶の意義は多義にわたる。本義は、「私は貴方の存在を好意的に受け止めている」ってことだろう。また、社会関係が平穏に維持されていることの確認でもあるだろうし、裏を返せば、いち早く異状を察知する手がかりにもなる。

立派な学歴、豊かな知識、高い実務能力とか、いくら兼ね備えても、人生うまくいかない人たちが多い。どこでコケているかといえば、挨拶レベルであったりする。清清しい挨拶ができる「ひきこもり」なんて想像しにくい。

「挨拶」とは、もともと禅語らしい。つまり、修行僧の作法。挨拶ひとつで、互いのレベルを推し量るってイメージである。静電気が一瞬の火花を散らすような緊張関係を感じる。

三国志にも、武将の心得として「三日会わざれば、刮目して会うべし」ってのがある。三日間で相手がどれほど成長したか、最初によく見ておけ、ということだ。これもカッコいいな。

僕自身の経験として、外国人犯罪者たちの面接をしたことがあった。事前にその国籍に応じた挨拶を調べていた。人殺しまでいる犯罪者相手にそこまでしなくてもいいって、意見もあるだろうが、「お前が何者であろうとも、お前の国の文化自体には敬意を持っているぞ」って意味をこめたつもり。本題の会話は、英語以外は通訳付きだが、その方が事情聴取もしやすくなる。これは挨拶応用編。

というわけで、「これから貴方の進む道が、歩きやすいものでありますように」。これは、ゲール語風別れの挨拶。

漢方の薬草学 附子(ぶし)あるいはトリカブト

漢方薬の処方を受けた。真武湯と補中益気湯である。看護師から、「この薬(真武湯)、最初は様子を観ながらゆっくり飲んでください」と説明を受ける。

「おお!」っと思う。真武湯は附子を使っているからだ。つまり、トリカブトの根から抽出したコンテンツである。漢方が特段マイルドなんてことはない。こういった激烈な毒草もそれなりの加工をして使っている。

アイヌが熊狩り(弓矢)に使った植物といえば、効力のイメージがつく。つまりヒグマも倒せる。蜂蜜にトリカブトの花粉が含まれていたため中毒事件がおきた例もある。

余談。附子はブスの語源であるらしい。トリカブトの毒で苦しむ人の表情→ブス、のようだ。おぞましい語源である。だから、ブスなんて言葉、軽々しく使ってはいけない。

基本的には、神経系に作用すると考えればいい。とはいえ、神経の具合でなく、胃腸の具合が問題で処方を受けたわけだが、このような包括的な処方をするのはいかにも漢方らしい。

普通の胃薬なら、胃酸の調節とか、胃の粘膜の保護など直接の作用をピンポイントで目指すが、漢方はかなり違う。先の記事でパラダイムについて述べたが、漢方も一つのパラダイムといってよい。医学部の基本的教育体系から見ても、別物である。

では、実体験。心臓がバクバクなら困るが、頭がポワンとした感じになった。神経にもヒットしているが、これくらいなら問題なし。また、体が温かくなった。これは、補中益気湯のせいもあるだろう。

あと気がついたことは、詳細かつ広範囲の問診。これも漢方である。つまり、その人なりの体質を一定のカテゴリーに当てはめ、処方を決めるからだ。だから、症状→薬とすんなりいかない。一般の医学も、個別のその人(媒介変数といえるだろう)を無視するわけにはいかないが、漢方ではこの比重が大きい。

応用として、僕のもらった処方をみれば、分かるひとなら、それだけで僕のプロファイリングが十分可能である。

この辺の見たて方も含めて漢方なのであって、ただ漢方薬、あるいは漢方薬を構成する生薬の一部を取り上げて漢方なんていえない。また、現代中国の中医学も漢方とは別物である(歴史上、根っこは同じだとしても)。

さらに余談。かのホグワーツ校。スネイプ先生の薬草学にもトリカブトが取り上げられていた。その他の薬草についても、調べてみると面白いだろう。創作も含まれるものの、結構、基本的なことが押さえてある。西洋の薬草学、魔術と、東洋のそれとは別物であるとしても、ネタは似たりよったりだ。

幼児の経験世界 規範性あるいは道徳の基礎

ポケットに手を入れて歩いたら、2歳の娘に注意されてしまった。やるなぁ。あるときは、公園で遊ぶ小学生に、「あぶないからだめ!」とかなんとか。

これは、保育園の先生に負うところが大きい。集団生活の中でキチンと躾けてもらっているからだ。言われたことを繰り返している、と解釈もできるが、それなりに規範が内面化されてもいるのだろう。自我はすでに明確にあるが、そろそろ超自我もできてきた、ともいえる。

叱ることを含め、ただ罰を与えているだけではこうはならないはずだ。その場合、監視の目をすりぬけ、陰でいろいろ好き放題しでかすことになろう。

怖いだけでなく、権威ある大人の存在があってこそ、子どもはその人から規範を学ぶ。権威とは、とても微妙な社会的事象である。力だけの権力でもない。

今の世の中、とにかく体罰はいけない、といわれるわけだけれど、もう少し考えてみよう。あらかじめ権威が確立していれば、体罰を使う必要はない。使ったとしても、一時の効果しかないので、だんだん過剰となり虐待となる。

また、上下のある愛情がそこにはある。子どもの視点に立つことは大切だけど、同次元では話にならない。嫌われたくない、評価される「いい子でありたい」と子どもが望んでいるうちに行動の基準が内面化されていくのだろう。そのためには、相当期間の安定した関係が必要でもあるはずだ。現実問題として、不安定な家庭環境は要注意である。

いずれ小ずるくなって、大人社会の裏側を知ることにもなろうけど、そんなことは後からでいい。大人をナメル前に、基本的な規範性をガッチリ、インプットできればいいのだ。そのうち、自分なりにローカライズするだろう。

多分このあたり、ある種の人格障害、反社会性人格障害など典型だろうが、こういった症例の発症に関連するように思う。

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