パラダイムについて
ある医学セミナーの表題によると「2型糖尿病治療のパラダイムシフト」、なんて言葉がある。つまり血糖値のコントロールではなく、糖尿病そのものを治す方向への変化、これをパラダイムシフトと表現しているらしい。
パラダイムは、もともと科学史、科学哲学用語として提唱されたものだが、T.クーンが1962年に提唱してから、最近になり急に広く使われているように感じる。
1980年代ころ、日本の思想界を賑わしていたが、21世紀になってビジネス書にも波及したようだ。ただし、大きな思考の枠組み、くらいの意味に落ち着いている。
ところが、抜け落ちた意味もある。科学は一貫して進歩している、と誰もが信じているのだけど、たびたび断絶があるのではないか、これがクーンの視点。
パラダイムシフトとは、この根本的断絶を本来意味している。ってまあそうかもね、と納得できるかも知れないが、もう一歩踏み込むと、深刻な問題がある。
特定のパラダイムの中でA理論より、B理論の方が優れていると判断されるってことだ。それくらいパラダイムとは強力な枠と想定されていたんだよね。
つまり、この理論がおかしいとか、正しいとか、それはパラダイムの中でしかいえないのではないか、だからほんとうに客観的な科学なんてありえないのでは、と考えることもできる。この辺になると、いろいろ意見が分かれるだろう。
最もこの立場を突き詰めたのは、P.ファイヤーアーベント。科学的真理など、科学者集団の内輪の問題にすぎない、彼の立場を要約すればこういうことだ。勝手にパラダイムでも何でも作ってくれ、ただし真理を独占したと思うな、って感じ。これは「知のアナーキズム」と表現できるだろう。
一方、いやいやキチンと方法論を守れば科学は進歩できる(批判的合理主義)、この立場に立つのが、K.ポパー。僕的には、これぐらいが穏当だと思う。このブログにも登場したK.ローレンツは生物学的認識論の立場から、ポパーを擁護しているが、このあたりも興味深い。
少なくとも、新しい何かを求めるためには、広い意味でのパラダイムは気をつけたほうがいい。思考とは、地道に積み上げていくとも大切だけれど、大きな跳躍のためには、パラダイムを飛び越える勇気が必要だからだ。
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