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2011年1月

心のバックヤード(backyard) アイルランドの夏のできごと

アイルランド、ミース県ロングウッド村でのできごと。小さな商店を営む家族から夕食に招かれた。お譲さんが裏庭(バックヤード)を見せてくれた。

小さな庭だ。初夏のアイルランド、夕暮れ時。花々の盛りの季節。数種類の花があった。青いアイリス(日本産か)の群れが印象的だった。ニワトリ小屋でコッコ、コッコとニワトリたちが盛んにエサをついばんでいる。(夕食のチキン料理はここから来たか?少なくとも朝食の卵は調達できる)平和で心の落ち着く小空間。遠くには緑の平原が、夕日の中でオレンジ色にかすんでいる。

バックヤードって資材置き場、倉庫置き場など実用的な意味もあるが、こういった裏庭そのものもバックヤードだ。

表からは全くわからない。商店だから、公道には実用重視の仕事場を提示、しかし、裏庭には、家族重視のプライベートな空間が備えられている。こういった区分けは日本にはあまりなさそうだ。けど、いい。公私の区別が明快だ。

もう少し抽象的に考えてみる。最近、日本でも、ワークライフバランスの重要性が取り上げられているが、空間的な意味では、このような家屋の設計もワークライフバランスの例といえるだろう。

スピリチュアル的に、バックヤードの観念を拡張できないだろうか、と僕は考えている。こういった不況の中、グローバリズムとかなんとか、やたらに効率重視に向かっている。生産性とは、公の基準。これが、僕たちの心を侵食しているようなことはないだろうか。人間を有用性において判断することも必要だが(立派な経営者ならなおさら)、それがすべてではない。

追い詰められた?派遣労働者が秋葉原で無差別殺人、最近死刑判決があった例だ。犯罪心理学、刑事司法から切り口を考えてみてもいいが、こういった事件の背景は、バックヤードの喪失という観点から考えてもいいいだろう。

この場合バックヤードとは、単なる私的領域ではなく、素のままの自分が当然に受け入れられることが保証された、「社会的場」のことである。

人はなぜ悩むのか 完ぺき主義

時代的な背景もあるだろう、完ぺき主義であるために、必要以上に悩む人が多い気がする。そこで、この完ぺき主義を少し掘り下げてみたい。

理想を求めて努力し、悩むことは結構なことだ。成長する人とはそういう人だ。特段、崇高な理想でなくても、立派な仕事をしようとか、子どもをキチンと育てようとか、誰でも目標を持って生活している。

要は、こうであったらいい、って思って行動している。これが健全なレベル。ところが、万事こうでなければならない!って考える人もいる。これはとても自縛的である。

ある意味、主観的でもある。頭の中で考えたことが、現実世界であたりまえのように実現するなんて無理。子どもの場合は主観と現実が未分化だから、ダダをこねて大騒ぎなんてことになる。ただし、子どもは気分の変化も早い。きっかけを与えればケロリと収まる。知的に優れた人であっても、未熟な主観性を持っている例がある。大人の場合はしつこい。

誰だって、これだけは譲れないってことがあるだろう。しかし、極端な完ぺき主義者は、求めることの構造化ができていない。つまり、何をあきらめるか、あきらめないかの指針がはっきりしない。

何をなすにも、心のエネルギーがいる。気力である。これを効率的に使うことが大切だが、そのためには配分が必要だ。ところが、求めることの構造化ができていないと、有効にエネルギーを使うことができない。どんなに絶対量が多くても、すぐに枯渇して思うことを実現できない。それ自体ストレスだし、エネルギーの枯渇はうつに結びつく。これはかなり深刻な事態にもなろう。

完ぺき主義者は、時にすごい行動力を発揮できるが、一方では、投げやりにもなりやすい。これが自滅的な行動にもなりうる。

こういった極端な行動のブレは、拒食と過食の繰り返しにも関連があるだろう。また、境界例的な極端さもそうだと思う。こういった症例は、とても現代的じゃないかな。

あと完ぺき主義者の気の毒な点は、「減点法」で自分も他人も評価することだ。完ぺきが判断基準だから、現実の事象は、すべてマイナスの度合いで評価されることになる。

端的にいえば、はた目から見てあら探しばかりする。これでは、社会生活にも支障がでる。本人の感覚とズレているから気の毒である。

高度な資本主義社会では、とにかく草の根分けてでも消費者の要求を探し出すことに重点が置かれているから、誰もが注意した方がいいだろう。欠乏感覚を喚起しなければ仕事のならない仕組みがある。

もちろん、そこに儲けを見つけてもいいけど、距離を置く配慮も必要。

哲学的な処方箋を考えると、「足るを知る」って感覚。これは、東洋哲学でいう老荘思想にある。そのうち、このブログでも詳しく書いてみよう。

パラダイムについて

ある医学セミナーの表題によると「2型糖尿病治療のパラダイムシフト」、なんて言葉がある。つまり血糖値のコントロールではなく、糖尿病そのものを治す方向への変化、これをパラダイムシフトと表現しているらしい。

パラダイムは、もともと科学史、科学哲学用語として提唱されたものだが、T.クーンが1962年に提唱してから、最近になり急に広く使われているように感じる。

1980年代ころ、日本の思想界を賑わしていたが、21世紀になってビジネス書にも波及したようだ。ただし、大きな思考の枠組み、くらいの意味に落ち着いている。

ところが、抜け落ちた意味もある。科学は一貫して進歩している、と誰もが信じているのだけど、たびたび断絶があるのではないか、これがクーンの視点。

パラダイムシフトとは、この根本的断絶を本来意味している。ってまあそうかもね、と納得できるかも知れないが、もう一歩踏み込むと、深刻な問題がある。

特定のパラダイムの中でA理論より、B理論の方が優れていると判断されるってことだ。それくらいパラダイムとは強力な枠と想定されていたんだよね。

つまり、この理論がおかしいとか、正しいとか、それはパラダイムの中でしかいえないのではないか、だからほんとうに客観的な科学なんてありえないのでは、と考えることもできる。この辺になると、いろいろ意見が分かれるだろう。

最もこの立場を突き詰めたのは、P.ファイヤーアーベント。科学的真理など、科学者集団の内輪の問題にすぎない、彼の立場を要約すればこういうことだ。勝手にパラダイムでも何でも作ってくれ、ただし真理を独占したと思うな、って感じ。これは「知のアナーキズム」と表現できるだろう。

一方、いやいやキチンと方法論を守れば科学は進歩できる(批判的合理主義)、この立場に立つのが、K.ポパー。僕的には、これぐらいが穏当だと思う。このブログにも登場したK.ローレンツは生物学的認識論の立場から、ポパーを擁護しているが、このあたりも興味深い。

少なくとも、新しい何かを求めるためには、広い意味でのパラダイムは気をつけたほうがいい。思考とは、地道に積み上げていくとも大切だけれど、大きな跳躍のためには、パラダイムを飛び越える勇気が必要だからだ。

幼児の経験世界 中間領域

保育園に行く、これが一苦労。時々しぶとい抵抗に遭うことがある。チャイルド・シートにすんなり座ってくれるか、、これが難関。

勝手に運転席に座り、頑として動かない。運転する!とか(勘弁してくれ、、)。2歳を越えたらほぼ「強制執行」は不可能。そこでしばらく押し問答が続く。

娘が突然歌い出した。保育園で学んだ歌だ。こっちも唱和する。この歌は、気持ちを切り替えるときに使うらしい。いわば呪文である。

(まず、1から10まで数を数えて、)

「オマケの、オマケの、きしゃぽっぽ、ぽーっと鳴ったらかえりましょう、ポッポー!」

これで素直に、チャイルド・シートに座ってくれた。

ウィニコットの中間領域、そんなところだろう。やむを得ない現実に向き合う、空想的な緩衝地帯。ウィニコットによれば、子どもたちは、この領域でぬいぐるみたちに命を感じ、母親の不在を耐え忍ぶ。このようにマジカルな世界でもある。だから、他愛のない歌も魔力を持つのだ。

現実に向き合う緩衝地帯、それは心のあり方の一つ。大人も各自それなりにこういった緩衝地帯を持っているのだろう。まるでないのなら、相当に厳しい生き方になるだろうし、それが大きすぎれば現実との接触が難しくなる。

応用として、人の個性を把握するうえで、重要な観点になると思う。

ジャック・アタリ氏講演会(中央大学)メモ その3

講演の最初の部分で、市場経済の中心地の変遷について触れていた。モノの交易には、物流の中継地たる港湾都市が有利であった。

このあたり経済史の復習なのだが、地中海から、ブルージュ、ロンドンなど、ヨーロッパ北方へ移り、新大陸、ニューヨークなどへ重心が動いた。そして、将来より多極化していくであろうと。

それはそうとして、質疑に対する応答の中で、こんな言葉があった。

「音楽が物質ではないように、ファイナンスもまた非物質的である」

ここから下は、かなり僕の見解、解釈。

先の言葉、これは哲学的領域でもある。今回の危機は、「金融」資本主義の危機であった。そもそも金融って何だってことだ。投資銀行は一体何を「生産」しているのか、金融商品とは?

その本質は、不確定要素を含んだ権利、義務の束、すなわち著しく観念的なものである。こんなものの取引に地理的条件がどれほど重要なのだろう。

アイスランドのような最果て(といったら失礼だが)の国が金融立国を目指した理由もこのあたりにあるはずだ。

市場経済が、情報技術の発達により、まさしくクラウド化しつつあるのではないかな。とすれば、世界経済の多極化なんてやはり当然の話だろうね。

最後に、

この講演会は、大教室二つを使って行われた。講演者は一人なので、二つ目の教室はモニターで見た(僕も)。そして講演が終わったら、直接ご本人が挨拶に来てくれた。気持ちの良いマナーだね。

ジャック・アタリ氏講演会(中央大学)メモ その2

挑発的な発現があった(いいぞ!)。この中で、アショカ王とナーランダ学院を知っている人はどれだけいますかね?

つまり、時代的にも地域的にも遠く離れたインドで興った仏教、この影響が日本の成り立ちにも多大な影響を与えていることを認識せよ、ということだ。

つまり、世界史的ビジョンから自分と自分の国を考えましょう。と、いうわけ。これからの世界を生きるに当たって、このようにもいう。

「自分自身を保持しながら、異質なものを取り入れる試みの重要さ」

日本とは、本来こういった努力を重ねてきた国であろう。現在の問題に即していえば、人口減、少子高齢化の進行の中で、外国人の受け入れを恐れていてはならない、ということだ。

いわく、フランスは、毎年25万人を帰化させている。その分、移民を自国の文化にいかに統合していくかを重大な関心をもってあたり、成果を収めている。

確かに、自国民となった以上、それなりのケジメをつける政策があるように思う。たとえば、公教育の場で宗教的服装を断固させないって例があった。

いかにも共和国フランスだが、自分自身の保持ってのはこういうことなんだろうね。互いの文化の尊重、これも必要なのだろうが、○○系居留区みたいなものを作らせない姿勢も明確である。

この点、日本のリベラルな国際派は、こういった観点が薄いのではないかな。

ジャック・アタリ氏講演会「多極的世界におけるヨーロッパ・日本・アジア」

本日、中央大学で開かれた公演会。これだけの大物相手に大学の講義時間1コマって概略にとどまるが、僕の理解の範囲でさらに概略する。

今回の金融危機後の世界のことだ。アメリカの覇権(莫大な軍事費で保たれていた)は、相対的に凋落するだろう。太平洋を取り巻く地域に力点が移りつつあるが、結論をいえば、特定の国、地域が覇権を握ることは考えづらい。そして世界は多極化する。

国家を超えた市場経済が突出した支配力を持つようになった。アメリカ一国でさえ、自国の経済を管理し切れなかった。ましてや世界規模の市場経済がある。これまで、経済は国家に統制されてきたが、すでに特定の国家が覇権を握れない以上、市場経済の無秩序化が危惧されるだろう。最悪のシナリオでは、「世界のソマリア化」もありうる。軍事衝突を考えると、特にアジア地域が不安定になりやすい。

安定化のためには、国家の権能を補完する意味で、プライベートセクターの役割が重要だ。歴史的には、ヨーロッパ中世のギルドなどがその例である。現在のサッカーのルールを考えて欲しい。これも国際規範の例である。

本来、だれもが限られた人生の中で歴史的役割を担っている。我々一人ひとりが自覚を持って行動すべきだ。長期的な視点を持ち、将来のリスクに備えよう。

戦争に代わるものがあるとすれば、それは利他主義である。自分の人生を大切に考えよう、そして他者への共感をはぐくむべきだ。どのような歴史的背景をもって今の自分、国家があるかを考えて欲しい。いかなる国も、多くの異質な文化を受け入れ、現在に至っている。日本も例外ではない。これからの世界では、いっそうこの姿勢が重要になろう。

まだあるけど、とりあえず、こんなところかな。

書評:のぼうの城 和田竜

良く売れている本なので、最近では文庫本にもなっている。僕だってこういう普通の本を読むよ。

忍(おし)城攻防戦、この戦は、水攻め中心。だから華々しい合戦が主体ではない。当然、地味な心理戦である。あえてここに焦点を当てたことがミソ。

劇画チックな現代風の脚色が面白い。登場人物たちの心理的距離の近さに共感を感じる読者も多いと思う。主人公は謎めいているけどね、これを解き明かしていく展開が伏線にある。読者は、変人城主成田長親のプロファイリングを通じて、この合戦に参加することになるだろう。

一言でいえば、石田三成の合戦デビューの失敗談でもある。けど、描かれる三成は魅力ある人物だ。三成ファンにも必読。分かりやすい三成と変人長親の対比も見どころ。どっちが好きかと尋ねたら、答える人の性格の違いを知ることができるかも。

作者が差し挟んだ一言を取り上げてみたい。

本来、絶望的な戦なのだが、

「死そのものに価値を置き、命ぜられれば簡単に切腹してしまう江戸期の陰惨な武士たちとは隔絶した気分の中にいた」

これ大事です。

戦国時代は死にあふれていただろうけど、あくまで死そのものは無価値、反面、今生きることにとてもしたたかだったはず。作者は、文献を調べているうちに実感したのだろう。

いまサムライ流行(はやり)だけど、一言にサムライといっても時代によって異質だ。死にどう向き合うか、作者のいう江戸期の武士の価値観は、そのまま太平洋戦争末期の日本軍の行動原理にも引き継がれている、と僕は思う。いやそれ以上に。

 

ケルト語のフルコース 日仏会館のシンポジウム

日本アイルランド協会から案内通知を受けたので、ご紹介。

題して、「ケルト諸語文化の復興、その文化的多様性の意義を探る」

日程:2011年1月31日(月)、2月1日(火)両日とも10時から

場所:日仏会館
   〒150-0013東京都渋谷区恵比寿 3-9-25

ウェブ:http://www.mfj.gr.jp/agenda/2011/01/31/index_ja.php#1089

恐ろしくマニアックなイベントである。興味のある方はどうぞ。

ゲール語(アイルランド語)、スコットランドゲール語、ブルトン語、ウェールズ語、マン島語、コンウォール語のお話を2日間にわたり、こってり聴くことができるらしい。

もちろん、通訳付き。

詳しくはこんな感じ。

1月31日(月)

10:00-10:05 日仏会館館長あいさつ

10:05-10:10 鹿児島大学代表あいさつ
10:10-10:30 シンポジウム趣旨説明(原聖)
10:30-11:50 ブルターニュにおけるブレイス(ブルターニュ)語文化復興の現状
     (タンギ・ルアルン)
11:50-12:20 コメンテーター(パトリック・ハインリッヒ)と会場からの質疑応答
12:20-13:30 昼食
13:30-14:50 ウェールズにおけるカムリー(ウェールズ)語文化復興の現状
     (メイリオン・プリスジョーンズ)
14:50-15:20 コメンテーター(朝日祥之)と会場からの質疑応答
15:20-15:50 休憩
15:50-17:10 コーンウォールにおけるケルノウ(コーンウォール)語文化復興の現状
     (ダヴィス・ヒックス)

17:10-17:40 コメンテーター(木村護郎)と会場からの質疑応答
17:40-18:00 全体討論
18:00-19:00 懇親会

2月1日(火)

10:00-10:20 前日のまとめと今日の紹介(原聖)
10:20-11:50 アイルランドにおけるエール(アイルランド)語文化復興の現状(ネッサ・ニヒネーデ)
11:50-12:20 コメンテーター(パトリック・ハインリッヒ)と会場からの質疑応答
12:20-13:30 昼食
13:30-14:50 スコットランドにおけるゲール(スコットランド・ゲール)語文化復興の現状
      (ロバート・ダンバー)

14:50-15:20 コメンテーター(木村護郎)と会場からの質疑応答
15:20-15:50 休憩
15:50-17:30 マン島、ノヴァスコシア、パタゴニアにおけるケルト諸語文化復興の現状
     (ロバート・ダンバー、メイリオン・プリスジョーンズ、ダヴィス・ヒックス)
17:30-18:00 全体討論

幼児の経験世界 アニミズム

寒風の中、車を走らせていると、チャイルド・シートに座った娘が一言。

「プゥートが練習しているんだね」 何のことだろう?そうか!

NHK、おかあさんといっしょの企画、モノランモノランに登場するあのキャラクターのことだ。プゥートは、風神の孫。立派な風神になるべく、風を起こす修行に励んでいるという設定。ちなみに、その友達は、水神の孫、スイリンと雷神の孫、ライゴーである。

今日のプゥートは、とりわけ気合が入っているようだ。娘は、この寒風からプゥートの意志を感じ取ったわけ。

自然の力をキャラクターにあてはめたモノランモノランは、まさにアニミズムの具象化である。この点、なかなか奥行きがある。前作のチョコランタンのキャラクターはそれなりにかわいかったのだが、こういった伝承的かつサイキックなパワーはなかったなぁ。

心理学上、アニミズムは原始的な思考とされる。けど、自然に命を感じる感性なんて結構なことだ。その洗練された形は日本の神道の中にもある。

対極は機械論的自然観、これは人類史上かなり新しい。つまりはニュートンとかデカルトの業績によるわけだ。これが今でも世界を席巻している。

その分何が失われたか、これも重要。機械論的自然観に突っ込みをいれた本として、モリス・バーマン著「デカルトからベイトソンへ」をおすすめしたい。

The Reenchantment of the World これが原題だが、日本語版では副題に使って、世界の再魔術化、と訳している。

なんだかきわものじみているが(この本、表紙が妖精画だよ)、かの松岡正剛氏によれば、Reenchantmentを新たに魅了する、と解した方がいいだろうとのこと。さすがである。あのベイトソンも、オカルトにはまらないように気を使っていたわけだし。

幼い子どもたちは、いつも世界に魅了され、飽きることがない。大人になったら、少しは哲学でもして、世界に飽きない努力が必要かも。

プラトンとアインシュタイン

日経新聞1月4日の記事に、若者へのメッセージとして、無類の音楽好きでもあったアインシュタインの言葉が紹介されている。

「研究と音楽はどちらも同じ種類の憧れに培われ、解放をもたらす点で互いに補っています」

この言葉、今どきの脳科学的に、左脳(論理性)と右脳(感性)の統合の重要性、とも読める。が、「憧れ」もキーワードだ。

プラトン的にいえば、この経験世界を超えた永遠的なものへの愛(エロース)、これがこの憧れである。人間はあくまでこの世の存在だが、あっちの世界(イデア界)を想起できれば、それは「解放」の契機にもなる。

プラトン的な思考法は、いまなお、西洋の思想の基本にある、と僕は思う。もちろん、反プラトン的な思想はいくらでもある。しかし、これは、それだけプラトンの影響力が大きかったことの証左だろう。

プラトンのいうようなイデアをどれだけ信じるかどうかは別として、少なくとも「憧れ」が心のどこかにあること、これがより良い日常生活にもつながるはずだ。

個人的な利害関係とか、目先の課題とか、それらも大事なのだけれど、「憧れ」があれば、僕たちの心はもっと素直になれるし、自由にもなれる。

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