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裁判員裁判と耳かき店員ら殺害事件

死刑か無期か、その分かれ目は「反省」。裁判員裁判らしい結果だった。

気味の悪い事件である。だれでも、勝手な思い込みはある。けれど、そのうちいろいろ気づいていくものだ。相手の気持ち、自分の考えと社会通念とのズレ。そして身勝手な自分の考え。そして、行動にブレーキをかけたり、軌道修正していく。しかし、ある種の人たちは、なかなか気づかない。そして年をとるほどそうなる。

反省とは、気づきの一つだ。だから判断力の問題でもあるし、自分のあり方を変える柔軟性でもある。倫理性の感覚だけではない。

また、刑罰を目の前に突きつけられれば、ほとんどの場合、やったことを「後悔」するだろう。しかし、外観上、反省とどれほど違うのか。

反省の度合いを確認する本当の目安があるとしたら、出所後も生活態度を見るしかないのではないか。よほどのことがない限り、今から見通すことは無理。

だからこのケースは死刑、とはいわないが、少なくとも、被告人の心の世界に踏み込みすぎではないかと思う。

心とは、状況によって変化するものだ。法廷の土壇場で変化しても、このままずっと変化がないとはとてもいえない。極端な例でいえば、執行猶予の判決が下りたとたん、ふんぞり返って、肩をいからせ法廷を出て行くような場合もある。判決前は、けなげに反省?していたはずなのに、、、

そしてマトモに相手をした方は、愕然とする。これは何ですかって、それは文化の違いでもある。立派な市民ほど、ギャップがあるはずだ。

だから、バランス上、基本は「実際どれだけのことをしたのか」ってことだと思う。心問題に踏み込みすぎると、犯罪行為よりも「人格そのもの」を罰していることになったり、将来の可能性を含めて罰することに重点が置かれることになるだろう。気持ちは分かるけれども、刑法で定める刑罰とはずれていくことになりはしないか。

余談。

刑法28条は、仮釈放の要件として「改悛の」を定めている。要は、反省の気持ちなのだが、改悛の(本人の主観)ではなく、状(表現されたもの)。

これは、深いと思う。頭の中の本当の気持ちなんて、あえて直接判断しないわけ。お役所的形式主義ともいえるが、人間の判断の限界をわきまえた発想ともいえる。だれも、人の心の中なんて直接知ることができないから。

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