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2010年11月

日本の古墳、アイルランドの古墳

娘を連れて古墳を見に行った。甲府市の加牟那塚(かんなづか)古墳である。このあたりの地名を千塚という。昔は沢山古墳があったのだろう。今も近くには、湯村山古墳群などある。

「妖怪のおうちを見に行こう」なんて言ったものだから、娘(妖怪図鑑大好き)は怯えてしまった。なんとか励まして、横穴から玄室をのぞくことができた。しっかり鉄柵があるので、中に入ることはできないが、南向きなので、奥までよく見える。今日は「お留守だよー」と探検終了。2歳児なりに、尋常ではない雰囲気を感じ取った様子だ。

住宅地の中にあるが、ある意味別世界。アイルランドなら、夜中にここから妖精界への入り口が開くって話になる。あちらでは、変な連中が出てくるとか、音楽が聞こえてくるとか、いろいろ古墳(塚)にちなむ民話が多い。

その点、日本ではこの手の話はあまりない。歴史的距離感の違いだろう。円形の加牟那塚古墳は、アイルランドの古墳によく似ているが、ピラミッド以前のものと日本の古墳時代では年代的に桁違いである。

加牟那塚古墳は、それなりの素性が判明している。6世紀後半、甲府盆地を二分した一方の豪族勢力の墓とさえているから、とりあえず今と歴史がつながっている。

ところが、アイルランドでは、最近のテレビ番組にあったように、謎の民族の遺跡としか言いようがない。名づけて「ダーナ神族」。こっちは全くの神話的世界であるが、落ちぶれて妖精族になったとされる。現実には、ケルト人に滅ぼされたというのが定説。

まあ、日本の場合でも、あえて日本書紀、古事記あたりを探ってみると、大和朝廷に対抗した土蜘蛛とか異民族的な集団がいないわけではない。土蜘蛛なんか、後の説話では妖怪の一種にされているから、この点も似ている。

 

仙台・石巻市3人殺傷事件について 非行文化の視点から

一応、心理学のカテゴリーに入れたが、本当は犯罪社会学の問題。「文化」を感じさせる事件である。もちろん、良い意味の文化の意味ではなく、犯罪・非行集団特有の文化のこと。

事件が発生したとき、友達?が顔を隠したインタビューに応じていたけれど、その手には「印」があった(特有の刺青)。

なぜ少年なのに、死刑判決なのか。重大性は当然ながら、一言でいえば、「反省」の深みがなかったから。もっと露骨にいえば、反省を演じることさえできなかった。

地域の非行少年たちのリーダー的存在でもあったらしい。そうすると、人を使うこともできるワル。これは思考力の良し悪しの問題でもない。それなりのしたたかさもあるだろう。

けれど、刑事裁判は、社会的に正統とされる価値観の場だ。更生とか、反省とは、この価値観をどれだけ受け入れるか、の問題でもある。

この例では、弁護士が、「きちんと反省の態度を示しなさい」と指導しても、それは、知らない異文化の作法を突然身に付けることと同様だったのだろう。茶道の心得のない人を、いきなり本格的な茶会に招くようなもの、だから様にならない。

この少年の文化に即し、事件の動機を翻訳すると、「この女は、俺のもの。逃げたらボコッテ仕込むだけ。邪魔する奴は、悪い奴だ。片付けて何が悪いか?」となるだろう。裁判官いわく、強盗殺人類似、つまり、狙われた女の子はモノ扱いだった。

こういった文化は、文字以前のものなので、意外に表に出てこない。この大きな溝の存在を認識する場合としない場合では、事件の解釈にかなり差が出るだろう。しかし、法律家や心理学の専門家など、かえってこの文化から隔絶した人たちといってもいい。

それにしても、、、この事件、保護観察中のことらしい。だったら、保護観察が機能していない。保護観察は実母への傷害事件によるものだが、暴力が家庭を突破し、一般社会へ向かう、これは基本パターンである。保護観察は、過去よりも予測が重要なのだが。

妄想のかたち 中大教授刺殺事件

学校であれ、会社であれ、人の組織がある限り、良くも悪くも、人は互いに評価しあう。この評価は、正当とあれ、不当であれ具体的な行動反映されていく。

評価にどれだけ敏感か、あるいは、鈍感か、それは人それぞれだ。敏感な人は、事実としての出来事をイメージ上、過大に膨らませる傾向がある。

事実はどうあれ、自分が迫害されている、と信じたならば、多かれ少なかれ、周囲との軋轢を生むだろう。そして敵意を周囲に向けたならば、当然に「困った人」になり、一層軋轢が大きくなっていくだろう。

そのうち、悪辣な組織の存在とか、得体の知れない機械だとか確信すれば、本物の妄想になる。

しかし、ある意味、妄想は、現実化する。刑事事件を引き起こせば、当然に、国家・社会と敵対する。事の重大さを考えれば、理解者を見つけることは難しい。

ただ、以上の敏感な人の中にも二つのタイプがある。問題を外に向けるのか、内に向けるか。敵意を一方的に他者に向けるのではなく、いたらない自分に悩み苦しむ人たちもいる。たぶん、それはより基本的な人格の違いなのだろう。

刑事裁判上、「病気」の考慮は当然として、本当に追求すべきは、この人格のあり方じゃないかな。

蛇と人類、そしてハリー・ポッター

今日の日経朝刊記事。京大霊長類研究所の実験によると、「人間は生まれつきヘビを怖がる」。似たような実験は、いろいろあるはずだが、クモやムカデとの対比をした点ですこしユニークか。

エソロジー(動物行動学、行動生物学)ネタである。同時に、神話、無意識の話にも関連づけられる。

かのハリー・ポッターシリーズも、ヘビとの対峙が重要な複線になっている。聖書もそうだし、日本の神話にもある。ヘビはドラゴンレベルまでイメージを膨らますことができるが、これは恐竜から逃げ惑う初期哺乳類にも重なるだろう。

ただし、人類がこの脅威を殲滅すればいい、って話にはならない。ユング的にいえば、強大な無意識の力の一つなのだから(私たちの意識などこの上に浮いているようなものだ)、どう折り合いをつけるかの問題である。

日本の神様にも龍神がいる。付き合いにくいが、雨乞いするなら人型の神様より有効とされてきた。ウェールズなら国の守り神だし。ケルトの英雄、アーサー王の親父なんて、ペンドラゴン(龍頭)ってなまえだぞ。

聖書の創世記によれば、禁断のリンゴをかじらせ、人類に智恵をつけたのがヘビ。だから、アップルコンピューターのマークは、実に洗練された神話のイメージである。もし、裏側があるなら、ヘビが描いてあるあずだ。

ハリー・ポッターの力の根源の一つは、ヘビの残した刻印である。だから、余計な悩みも抱えてしまう。これは、神話的に人類普遍のテーマに関連する。

本当のエコ(ECO) 駅前のチョウゲンボウのこと

駅前のパルコに彼らが戻ってきた。とたんにカラスの手荒い歓迎を受け、夫婦の連携で撃退。彼らとは、チョウゲンボウ(小型の鷹)のつがいである。

僕の知る限り、3年同じ場所で巣作りをしている。その場所は、東京都調布駅前PARCOの看板の裏側である。(南側2つあるうちの下の看板)

今年はどうなるか分からないが、まだ下調べの段階だろう。お近くの人がいたら注目してもらいたい。

エコとは、本来、エコロジー(生態学)のことである。だから、物品購入の動機というより、むしろ生物界への感性に関わっている。

エコカー減税がどうだとか、それは消費者感覚。普段身近にどれだけの生物がいるか、それらがどんなかかわりを持っているか。これに気づく感性がなくては始まらない。

、、なんて、難しい話をぬきにしても、チョウゲンボウは美しい。白を基調としたデザインがよく、目もパッチリしている。声も上品だ。東京の市街地で見ることができるなんてありがたい。

ダースベイダーと木村カエラ そして自我境界の心理学

ダースベイダーと木村カエラを起用した携帯電話の広告について。この対比は実に面白い。

最近、自我境界について文献を読んでいたので、少し応用。

つまり、コスチュームは自我と環境の壁(自我境界)を象徴している。この壁の透過性について、この二人のコスチュームは、はっきり異なっている。

当然、ダースベイダーは、防御的、マントとマスクなんてそのものだ。透過性が非常に低い。環境の刺激によって容易に心を揺さぶられることがない、という意味。

木村カエラの方は、とても透過的。柔らかく、色彩的にも透明感がある。環境からの刺激にオープンだ。

これだけでも、性格の二つのタイプが記述できる。しかし、自我境界論的には、もう一つの境界がある。それは、自我と無意識との境界。

こっちの方は、コスチュームの問題ではないが、この境界を加えるなら、性格の4類型が想定されるだろう。

つまり、外向きには、透過的であっても、内向きには、非透過的なタイプ。そして、外向きには非透過的、内向きには透過的なタイプもある。

映画のストーリー的にいえば、フォースの暗黒面(無意識的)に自我が侵襲されたのがダースベイダーなのだから、ダースベイダーの内面的な自我境界は透過的といえよう。

なーんて考えると、いかにも精神分析的。

アイルランド経済

最近の日経新聞では、アイルランドネタが満載だ。妖精のことならいいが、財政危機である。

欧州金融不安の揺り返しの一つである。しかし、今のところ極端なユーロ安には至っていない。

国債10年もの、9%超。これがどれほどのことかといえば、日本の10年もの国債と比較してみれば分かる。日本なら、1%超。

つまり、そこまで金利を付けないと、国すら借金できない。とすれば、民間はもっととんでもない金利となる。

しかし、日本の基準でいえば、利息制限法の上限がある。常識的に返済できるのもこのラインまでということだろう。

元本の額が10万円未満の場合 年20%

元本の額が10万円以上100万円未満の場合 年18%

元本の額が100万円以上の場合 年15%

この春、行きつけの民宿のおばちゃんから電話があったけれど、要は旅行に来てもらいらいらしい。そりゃそうだ、観光産業も大変だ。

子守が大変でそれどころではないけれど、ユーロ安のこの時期、アイルランド旅行も悪くはない。また、明日はわが身と考えるなら、円高のうちに外貨資産の比重を増やすことも間違いではないだろう。

アメリカの保守派と自由について

アメリカの中間選挙で民主党が大敗した。つまり保守派の巻き返しが強くなったということだ。ところで、アメリカの保守派とは?

極端な保守の場合、聖書原理主義まで行く。進化論の公教育で教えるな、って主張になる。そこまで行かなくても、「自由」がとにかく大切、って基本原則がある。

税金を集め、富を再配分する国家の機能は、小さいほどいい。自分のことは自分でやれ。国から助けてもらおうなんて思うな。。。まぁ、それなりに理解できる。

で、裏を返すと、「今の貴方の置かれた状況は、貴方の責任である」。これは、人間観の哲学みたいなものである。

人間は自由な意志を持っているのだから、自由な意志の発現として、努力し、成功することが誰でもできる。

したがって、ビンボー人は、その報い(自己責任)を受けているのだ。

と、なる。

しかしながら、完全な機会均等が保証されているのだろうか、努力するにも、努力以前に能力の差があるのではないのか、このような疑問も考えうるだろう。

もし、出自や生まれながらの能力が、将来にわたる成功、富の獲得に相当大きな比重を占めるなら、自由主義思想は、教科書的なヒューマニズムというより、むしろ社会の現状を正当に肯定する理論的根拠でしかない。だから保守、って見方もできる。

封建主義社会でも、身分の違いを根拠づける”理論”がいろいろ考えられていたけれどね。こういった理論を、イデオロギーというけれど、中身の優劣というより、自分の経済的ポジションが現実問題になるだろう。

裁判員裁判と耳かき店員ら殺害事件

死刑か無期か、その分かれ目は「反省」。裁判員裁判らしい結果だった。

気味の悪い事件である。だれでも、勝手な思い込みはある。けれど、そのうちいろいろ気づいていくものだ。相手の気持ち、自分の考えと社会通念とのズレ。そして身勝手な自分の考え。そして、行動にブレーキをかけたり、軌道修正していく。しかし、ある種の人たちは、なかなか気づかない。そして年をとるほどそうなる。

反省とは、気づきの一つだ。だから判断力の問題でもあるし、自分のあり方を変える柔軟性でもある。倫理性の感覚だけではない。

また、刑罰を目の前に突きつけられれば、ほとんどの場合、やったことを「後悔」するだろう。しかし、外観上、反省とどれほど違うのか。

反省の度合いを確認する本当の目安があるとしたら、出所後も生活態度を見るしかないのではないか。よほどのことがない限り、今から見通すことは無理。

だからこのケースは死刑、とはいわないが、少なくとも、被告人の心の世界に踏み込みすぎではないかと思う。

心とは、状況によって変化するものだ。法廷の土壇場で変化しても、このままずっと変化がないとはとてもいえない。極端な例でいえば、執行猶予の判決が下りたとたん、ふんぞり返って、肩をいからせ法廷を出て行くような場合もある。判決前は、けなげに反省?していたはずなのに、、、

そしてマトモに相手をした方は、愕然とする。これは何ですかって、それは文化の違いでもある。立派な市民ほど、ギャップがあるはずだ。

だから、バランス上、基本は「実際どれだけのことをしたのか」ってことだと思う。心問題に踏み込みすぎると、犯罪行為よりも「人格そのもの」を罰していることになったり、将来の可能性を含めて罰することに重点が置かれることになるだろう。気持ちは分かるけれども、刑法で定める刑罰とはずれていくことになりはしないか。

余談。

刑法28条は、仮釈放の要件として「改悛の」を定めている。要は、反省の気持ちなのだが、改悛の(本人の主観)ではなく、状(表現されたもの)。

これは、深いと思う。頭の中の本当の気持ちなんて、あえて直接判断しないわけ。お役所的形式主義ともいえるが、人間の判断の限界をわきまえた発想ともいえる。だれも、人の心の中なんて直接知ることができないから。

幼児の経験世界 移行対象に出会う

移行対象とは何か、一言でいえば、乳幼児が特段の愛着を示す特定の物で、自立の足がかりとなるものでもある。これは、イギリスの精神分析医ウィニコットの理論に基づいている。

昨夜、押入れを整理していたら、長い紡錘形の抱き枕が出てきた。これで娘と遊んでみたら、なかなか盛り上がった。

朝になり、コイツにビニールテープを加工した目をつけてみた。さらにバカ受けした。形状から、ナメクジ(slug)みたいなので、スラッギーと名づけた。

スラッギーを同席させると、朝食もさくさく食べる。自分から、分けてやるほど楽しんでいる。朝食が終わっても、格闘して一緒に遊んでいる。実に、頼もしいナメクジだ。

遊んでいるうちに、目がとれてしまった。残念至極である。しかし、娘はめげなかった。どこからか、布製ガムテープの切れ端を探し出し、目の位置に貼り付け、私の前に得意げに差し出した。そこで、目を書き加えてやると、「カワイー」という。

スラッギーにバイバイして、保育園に行く。いつもより、すんなり家を出ることができた。コイツは使える!(経験者なら分かるだろうけど、2歳児にもなると、ダダをこねたら手におえない)

適切な移行対象は、子守に役立つ。けど、ウィニコット先生いわく、子どもが選ぶことが肝心。思わぬ偶然に期待するしかない。

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