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2010年10月

幼児の経験世界 鬼ごっこの心理学

走ることができるようになった子どものとって、鬼ごっこはとても熱中できる単純な遊びだ。しかし、その意味は結構深い。追跡される、捕まえられるって、客観的に見れば恐ろしいことだ。そもそも、追跡されることは、悪夢の基本素材といってもいい。人間の原初的な不安に根ざしていると思う。

赤ん坊でも楽しめる、「高い、高い」も根は同じ。霊長類一般に、落下の不安が根底にあると思う。しかし、赤ん坊は喜ぶ。

赤ん坊でも、幼児でも、”場”を読んでいる。そこには、まず基本的な信頼関係がある。本当は恐ろしいことでも、信頼できる人が相手なら、それは遊びだ。また、信頼関係を確かめ、補強していくプロセスでもあるはずだ。

しかし、親が恐ろしい形相で、鬼ごっこの鬼役をしたり、高く持ち上げたらどうか。これでは、しゃれにならない。子どもにとって、場の情報解釈が混乱してしまう。このような状況は、後々の性格形成にも大いに影響を与えるだろう。

虐待された子どもにとって遊戯療法が有効なわけは、このあたりにある。心底、本当に遊ぶ空間を創設することは子どもの精神発達上重要だ。W.ウィニコットによれば、子どもの健康な遊びは、現実でも、主観でもない中間領域(intermediate area)にあるとされる。

これは、子どもばかりでなく、今どきの大人こそ重要ではないか、と僕は思う。大の大人が鬼ごっこ、とは言わないが、現実に向き合う緩衝帯と考えればいい。

たとえば、過酷な状況下での、絶妙なジョークが乗り切るきっかけを作るとかって例もある。つまり、言葉で遊ぶ余裕をあえて作るわけだ。一般に、余計に悩む人、っまあ生真面目な人たちなのだが、こういった人たちは、中間領域が弱い。

世の中、効率とか、実利とかやたらに追求されている。勝ち組だ、負け組だってそれはゲームではないし。追い詰められた人は、こうすれば、この結果がでるって感じの本とかにすがっているけど、これでは遊びの要素がまったくない。極端な例、パチンコの攻略本を”マジメ”に読む人の将来を考えてみればいい。

素直に遊ぶ領域を持った大人って、魅力的でもある。ウィニコット流にいえば、創造性(creativity)があり、「偽りの自己」に生きていない人たちってことかな。無心に遊ぶ子どもが偽って生きているわけないよね。

かの、ニーチェも言っているそうだ。無心に遊ぶ子ども、これが人生の究極の姿。

幼児の経験世界 パワースポット

休日、お決まりの散歩道を歩く。うちの娘は、小さなお堂の前に来ると、「なむなむ(南無南無)するー」とせがむ。2歳なりに、そこが特別な場所とされていることを知っているようだ。

鈴を鳴らしたり、お賽銭を入れたり、チンっと鉦をたたくことに興味を持つことはもっともだが、こういったアイテムがすべてではないようだ。反抗期絶頂のくせに、ここでは素直で神妙である。じっと「なむー」と手も合わせている。

寺、神社でも教会でも、畏怖すべき対象を演出する点では同じだ。1歳のころ、実家の仏壇に怯えたように、このお堂も最初は怖がった。M.エリアーデだっていっている。宗教的な感覚とはそういうものだろう。おそらく、こういった宗教的畏怖の念は生得的な基盤がある。これに、込み入った文化的装飾を加えると、既成の宗教になると考えた方が自然だ。

いわゆるパワースポット。これはオカルト科学+健康法みたいなものであるが、悪い風潮とは思わない。しかし、「畏怖の念」はもう少しほしい。自分の身の程を計るすべ、と言い換えてもいいだろう。たとえば、巨岩や巨木を前にして、自分の存在のはかなさを感じ入るような感覚だ。もう少し深めると、至らない自分が、恩恵をうけて生きているという感覚。これは道徳性とも関連する。

世の中あげて、人間の能力の機能拡張が推進されている風潮がある。心理的には自我肥大というべきか。この風潮に付き合っているうちに、知らず知らずに傲慢になってしまうと思う。実際、科学技術の進歩に裏づけられてはいるが、幸福感との整合性はどれほどあるのか。こんな心理系卒論の題材はどうだろう、携帯電話の使用時間と幸福度の相関関係。

たとえば、「今日はお日様が出てくれてありがたいなー」って、朴訥な幸福感。どうしたら感じられるだろう。ここを押さえておけば、アホらしい人間関係の軋轢にも距離を置ける。そのためには、逆説的に、”本当に”小さな自分を認める必要がある。

元気の出るうた あんぱんまんたいそう の心理学

やなせたかし作詞、あんぱんまんたいそうについて、心理療法的に考えてみる。

この歌は、1番から3番まで、それぞれ困難を克服する場面と手段を歌っている。

1番、

(場面)もし自信をなくして、くじけそうになったら、、

(手段)いいことだけ、思い出せ

(解説)認知(ものの見え方、感じ方)を変える技法。自分自身のあら探ししても仕方がない。だれにでも成功体験がある。

2番、

(場面)だいじなもの忘れて、べそかきそうになったら、、

(手段)好きな人と手をつなごう

(解説)そうだよ、困難に自分ひとりで立ち向かう必要なんてない。もう一歩踏み込んでいえば、必要以上に強がる必要はない。

3番、

(場面)さびしくなったら、、

(手段)愛すること

(解説)これが深い。孤独にさせられているって思い込んではだめだ。だれも愛してくれない?ぐずぐず言う前に、自分から愛せ!!ってこと。

さらに言おう。ほんとうに人を愛するためには、行動する勇気がいる。たとえば、「告(こく)る」って状況だ。「相手は自分を愛してくれないかも、、」って?だからそれも勇気。現実を受け入れる勇気といってもいいかも知れない。いずれにせよ、動けば結果がでる、結果があれば次のステップもある。

とりあえず歌ってみることが肝心。そして所定の振り付けがあればもっといい。

幼児の経験世界 ウェールズの赤いドラゴン

うちの赤いドラゴンのぬいぐるみ、その名は、チェッピー。ウェールズの伝承にちなむ由緒あるドラゴンである。出身地(購入場所)は、ウェールズのチェプストーだから、チェッピーと名づけた。

まだ娘が乳児のころ、そのお守り役をつとめた。ただし、乳児にとっては、目を引く物体に過ぎないから、パンチを受けたり、羽を引っ張られたり、尻尾をかじられたりしていた。

昨夜のこと、娘は3体のぬいぐるみを集めて、初めての食事会を開催した。つまり、ままごとである。チェッピーも初めてゲスト役となり、娘がままごとで作る料理のふるまいを受けていた。「あちゅいでしゅよー」とかなんとか、気配りもしてもらった。これは、チェッピーにとってただの物体から、仮の命ある存在への昇格である。そして、命だけでなく、役割も与えられた。

ままごとは、広い意味でのゴッコ遊びの一つ。ゴッコなのだから、とりあえず”本当”のことではないと分かったうえで遊んでいるのだ。この年頃になると、意図的に、こんな仮想の世界を造ることができるようになる。

もし、発達心理学に詳しい読者の方がいらしたら、「これは、ウィニコットの移行対象の話ではないのか?」って指摘するかも知れない。残念ながら、うちの娘の場合、明確な”移行対象”の出現は確認されていない。

しかし、ウィニコット流にいえば、このままごと遊び、客観世界と中間世界をつなぐ”中間領域”といえるだろう。

僕的にいえば、子ども時代に関わらず、成人であっても中間領域を造ることが重要ではないか、と思っている。これは心理療法の技法的にも応用されていると思う。たとえば、箱庭療法である。

幼児の経験世界 言語

適時性とはよく言ったものだ。2歳を過ぎるころから、言語能力が爆発的に向上する。親たちの会話にも口を挟むようになり、うっかりしたこともいえない(お菓子の隠し場所とか)。

言語はコミュニケーションの手段。しかし、それだけではない。思考のフォーマットみたいなものだ。時折、会話とは別に、じっと一人で考えるときも、言葉でモゴモゴやっている。確か、ピアジェが指摘したように、言葉とは、考える手段でもある。

人とチンパンジー、DNAレベルでは、ほぼ同じだそうだ。人が言語を使うようになるまで、知的水準も互角のようだが、言語が身につき始めると一気に差がつくという。

面白いことがあった。アンパンパンのキャラクターとして、「サボテンマン」という者がいる。当然、アニメの画像に過ぎない。ところが、うちの生のサボテン「和名=松霞」を見ても、「サボテンマン」と表現した。、「サボテンマン」は、西部劇に出てくるような、柱状のサボテンだが、こっちは球形のサボテンだ。どうやら、針のつき方がポイントらしい。ただし、赤い実がついているので、悩むところのようだ(認知的不協和)。

松霞の隣に植えられた、もう一つの種類、ウバタマには針がない。これは本人にとってサボテンの範疇ではないらしく、「ウンコ」だそうだ(色は無視?)。ただし、形、色艶をはっきり把握しているらしく、ショップにあるものを見つけ「うちにある!」と教えてくれた。

NHKの幼児番組の、「さぼさん」。人が入ったサボテン型キャラクターだが、最初は気がつかない様子。そこで、「サボテンだよ」と教える。すると、「おぉ!サボテン!」と反応。一種の知的サプライズか。

つまり、サボテンが言葉(概念)として、広がりを持ちつつあるといえよう。こういった言葉が相互に関係を持ち、かつ、上位のもの下位のものに区別されていく。これが言葉の発達の一側面。しかし、このような構造ができあがってしまうと、なかなか意表を突く発送ができなくなるのかも。

こんな例もあった。朝日の中で微小な露を沢山輝かせるモウセンゴケを見せたときだ。僕の感覚では、キラキラ感(これぞ食虫植物)が先行するが、彼女はその放射状の葉の付きかたに着目した。反応は、「観覧車」。これには脱帽。僕には、とても思いつかない。

ここまでくると、ロールシャッハテストの世界である。一度試してみよう。2歳児の経験世界とはどんなものだろうか。

コンパニオン・プランツ ローランド地方の旅で

本来の意味ではないもう一つの意味の提案。コンパニオン・プランツとは、植物の組み合わせによって、園芸的効果を高める場合、あえて寄植えする植物のことをいう。たとえば、ハーブ系の植物を花壇に加えることで、害虫のつきやすい植物を守るようなことだ。

しかし、人との心情的なかかわりを持つという人間以外の対象の意味で、コンパニオン・アニマルがいるならコンパニオン・プランツ?もあっていいだろう。

以前、取材の仕事のため、現地カメラマンとスコットランド・ローランド地方を旅したことがあった。小さな、こぎれいな町で、すばらしく居心地の良い民宿(B&B)に泊まった。

民宿といっても、庭付きの城の風格であった。貴婦人みたいな(というより、本物)、ご婦人と、人がよく、育ちのよさそうな旦那が切り盛りしていた。「彼らきっと貴族だよ」とカメラマン氏はいう。

居間には、相当に大きく育ったシャコバサボテンの鉢植えがあった。ほっといてでかくなった、なんて代物ではない。長年にわたる気遣いの賜物である。このサボテンもその気持ちに応えて、毎年のクリスマスのころには、豪勢な花を着けるに違いない。

子どもたちが巣立ったあとも、この夫婦の生活とともにあった、なんてストーリーが見えてきそうだ。こういった”代物”は、安定した堅実な生活の指標にもなるだろう。

僕がイメージするコンパニオン・プランツとは、こういった類のものだ。タネで育てる一年草では、個性が見えてこない。かといって庭木は、家族のように身近に置けない。サボテンのように鉢植えでゆっくり育っていくものがこれに相当する。

八丈島紀行その7 建物

町外れの海辺には、リゾートホテルの廃墟がいくつかあった。バブル経済の傷あとの類だろう。空ろな窓から、太平洋の荒波を臨むかつての観光客たちの幻影が見えてきそうだ。

廃墟ホテルに負けないほど、古びているのは、町役場。特別なデザイン、装飾もない昭和初期のコンクリート造り、といっても差し支えない(年代は知らない)。世の中には、場違いゴージャスな、かつ品のない市役所、町役場もあるが、これは正反対。

立派である。箱物にむやみに金をかけないということだ。旅行の前に、観光課にいろいろ問い合わせをした。即答できない質問は、調べて後から電話をくれた。好感を持てる公務員の方であった。

役場は古いが、町立八丈病院は新しく、民政に力が入っていると感じた。離島の医療は後盾を期待できない。患者をたらい回しなんてできない。だから、背水の陣で医療をしているはず。

その規模に比べ、設備もスタッフも充実しているだろう。本土では人手不足の小児科、産婦人科にも常勤の医師がいる。小児科なんて、金曜日の診察時間帯が長いぞ。

本土で見慣れた系列スーパー、あるいはコンビニも多分なし。地生えの商店が多い。○○商店なんていいなぁ、、よろず屋さん的お店が多く、観光客にとっても旅をした気分が増す。地元の物産も豊富(あたり前だが)、あのくさやも通常食材として普通に売られている。なぞの野菜もあった。「青ヶ島きゅうり」。確かに通常のきゅうりではなく、太めで短いものだった。

余談、地元高校生たちには、コンビニのバイトにあこがれる風もあるようだが、八丈島にコンビニは似合わないよね。夏季限定の浜辺のレストランでがんばって働いていた女のたち、元気でやってるかな。夏休みの宿題を気にしていたけれど。

小泉八雲展 PR

横浜の神奈川近代文学館で、明日から小泉八雲展が開催されます。

詳しくは、このサイトで、

http://www.kanabun.or.jp/te0164.html

妖怪、明治日本の心の風景、アイルランドと日本など、関心のある方におすすめです。

明治日本の心の風景、これが僕のおすすめ。近代化ということ、それは何を失うことなのか、同時代のW.B.イェーツがアイルランドの原風景を記録したように、小泉八雲も明治期の日本について詳細な記録を残してくれました。

イェーツの妖精、八雲の妖怪、こんな比較も面白いですね。

「ノーコメント」の対話術

私たちが会話をする場合で、強いられえて言わなくてもいいことを言ってしまう、あるいは苦しまぎれの嘘をつく状況ってあるだろう。後から困ることが多い。そんなときは、「お答えできません」と応えてみることも選択の一つ。一時は荒れるけれど、かえって禍根が残らないことが多い。

あえて信頼関係を守る必要のない、緊張関係のあるやり取りなら重要だ。つまり、相手に突っ込みどころを与えないという守りの技。海外の報道で、当事者が「ノーコメント」を使うことがよくあるが、日本的な気配りの中ではなかなか使うことができない。けれど、世知辛い世の中では、それも必要。

刑事被告人が、「黙秘します」って、応える場合も同じ原理だ。かえって裁判官の心証が悪くなることもあるだろうが、少なくとも公に嘘をつくことを免れることができる。

電話セールスのテクニックの一つとして、質問による誘導がある。本来の意図を隠しながら話を進めるわけだ。なかなかよくできたマニュアルがありそう。

経済状況のアンケート(是非ご意見をとか)って、結局金融商品のセールスだったりして。

僕自身、以前、不審なセールスを受けた際、「お答えしません」と言ってみたことがある。そうしたら、相手は逆切れしてしまった。「質問しているのは、こっちです!」ってこれでは本性暴露だよね。マニュアルでは想定していなかったらしい。これでは、後が続かない。というより、そもそも答える義務なんてない。

プロ犯罪者とか、悪意のあるクレーマーとか、相手に無理やり嘘をつかせる、実現不可能な約束をさせることがよくある。こうして、負い目を持たせ、切り込む糸口を探るわけだ。こういった場合にも、「ノーコメント」を使う余地がある。言い方をいろいろ工夫する必要があるけど。

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