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2010年6月

アイルランド音楽入門 ティンホイッスル

個人的な出会いの話。アラン島の土産物屋でこの楽器を見つけたとき、「ああ、これがもしかして」と直感。これとは、J.ゴールウェイのアルバムに入っていた謎の楽器である。G.ゴールウェイはそもそもクラシックのフルート奏者。しかし、アイリッシュであるので、この楽器を余興で演奏することもある。しかし、僕は全く音しか知らなかった。けど、見るからにそれっぽいと思ったのだ。あの素朴な音色を出すとすれば、これだろう、、、

さっそく、購入してお店の庭先でチャレンジしてみた。とりあえず、アイルランドにいるのだから、アイルランドの民謡でも、、、そこで「庭の千草」をなんとか演奏してみた。

すると、おばあちゃんが店から飛び出してきて、これこれ!と、庭に咲く一輪のバラを指差す。なるほど、「Last Rose in the Summer(Last Rose of Summer)」が庭の千草の原題だから。

なかなかこの楽器といいご縁となった。感謝しよう!日本の義務教育に!なぜって、リコーダーを習えばこの楽器はなんとか吹けるからだ。

この購入価格、日本円でいえば、600円程度だったろうか、かつ、すぐ演奏できる。この手軽さ、これはアイルランド音楽の特徴ではないだろうか。しかし、その先は果てしない。どんな楽器・ジャンルでも途方もない”道”があるもの。ゴッコに終わらないためには、それなりの人からキチンと学ぶ必要がある。

内科医の愚痴を聴く (心と体の問題)

もう一つ、医学ネタを書いてみよう。

この先生は内科医で、主に糖尿病を診ている。糖尿病に関わるということは、長期にわたる微妙なバランス感覚が必要のようだ。つまり、血糖値のコントロールのことなのだが、投薬のさじ加減ばかりでなく、生活全般の管理が関係している。そもそも薬をのむ、あるいはインシュリンを自分で注射するのは、日常の患者の仕事、このタイミング自体も重要になる。また、運動の習慣も重要だ。というか、多くの場合これが決め手であるらしい。

でも、このあたりは患者本人次第。この病気、いいかげんにすると激痛を感じるとか、そんなことはない。しかし、悪化すると深刻な事態になるから、どれだけ自覚するかは、本人次第なのだ。このあたりの伝わり具合が、治療する側の悩みどころ。

「機械を直すように考えてもらっては困る」ってそれはそうだろう。ただ、このように物のあふれる時代、自分の身体まで物化している感覚になっている人が増えているのかも知れない。

勢い患者本人の生活習慣、考え方の問題にまで立ち入る必要がある。誠実に対応するほどそうだ。したがって、診察はカウンセリングの様相を呈するってわけ。

身体自体、機械的なモデルで考えることができるが、代謝をするから物理的でも開かれたシステムである。おまけに、心がある。魂とかそういう実体的意味でなく、心とは、この場合開かれた関係性の問題である。

それは治療者との関係、職業的関係、家族的関係・・・はたまたW-CUPで日本が勝ったとか負けたとかも含んでいる。夜中にビール飲みながらテレビ観戦したら、糖尿病にも悪いよね。

この世は、物と心でできているって一例。

慈恵医大病院に行く(精神医学と東洋思想)

都合あって、慈恵医大に行った。知る人ぞ知る、森田療法。この森田療法センターがここにある。

入り口ホールに主たる先生方の専門と座右の銘が掲げられている。これがなんとも興味深い。個人的な考え+その専門性が反映されているからだ。

ある精神科の先生(有名な人だ)は、なんとも渋い。さらり、「自然良能」とある。こってり東洋医学だよね。森田療法自体が、数少ない東洋型精神(心理)療法なのだから、個人的には格段の興味がある。

何かと脳科学がもてはやされる時代、心の問題は脳の問題、だから手っ取り早く脳内環境を薬物で”改善”すればいいってわけで精神医学はずいぶんお手軽になってきた。

確かに急性の症状、発症の初期段階にはガツンと薬物療法(場合により外科手術)が必要な場合が多いらしい。しかし、僕自身、薬漬けでどうにもならない事例を数多く見てきた。症状にもよるが、やはり薬物療法がすべてではない。

それなりに隔離される日数が必要だから、お手軽さがもてはやされる時代にはなかなかこの療法を受けることが難しいかも知れないが、だからこそ重要と思う。機械の故障を直すように、さっさと自分の頭の中直してくれってそういった発想自体が健康ではない。

ベタな表現で言えば、あるがままに自分を一から見直す時間を持つことの重要性、もう少し言い方を変えると、「正しい引きこもり」の時間の意義は大きい。いつも明朗活発、時間を無駄なく使えとか、会社の研修のテーマかも知れないけれど、そんなの無理。”自然”に反している。そもそも、会社にとって自分の代わりはいくらでもいるけれど、自分にとって自分の代わりはいない。この”自然”の意味が問題なのだが、この自然を味方につければ、長い目でみれば仕事だってよりうまくいくものだ(良能)。

治療として森田療法を必要とする人ばかりでなく、普段の心の健康向上のため、森田療法のエッセンスをかじってみるのも悪くないと思う。

ゲール語のテイストを学ぶ7 Ta’ の用例

前回、ゲール語(アイルランド語)のBe動詞(存在動詞)の大きな意味を書いた。では、実際の用例は?

英語との比較のため、彼(He)を現在形で記述してみる。

1 かれはジェームズである。He is James.

2 彼は走る。 He runs.

3 彼は走っている。He is running.

4 彼は大きい。He is big.

これをゲール語で書くと、(彼=e'又はSe'、ジェームズはシェーマス)

1 Is e' sin Sea'mas. イス エー シン シェーマス

普通は、もっと簡単に、Sin e' Sea'mas.

2 記述不能、3でいくしかない。

3 Ta' se' ag rith. ター セー エグ リス

4 Ta' se' mo'r. ター セー モール

(解 説)

1 これは例外的にTa'を使わない。A=Bのような使い方だから。そしてTa'はIsに変化。

でも、英語のようにイズとはいわない。ゲール語のSは常に濁らない。

余談を少し、、、英語のジェームズさんは、アイルランドのシェーマスさんであり、ドイツのヤーコブさんでもある。

昔、僕はアイルランドで困った質問を受けた、「おれシェーマス、英語でいうならジェームズだけど、日本ではなんて呼ばれるの?」みなさんはどう答える?

2 来たー!って感じ。ゲール語で一般動詞を使う場合、いわゆる現在進行形の形になる。日本語で彼は走る、なんて言えるけど普通使わないでしょ。考えてみれば、現在起きていることは一連の流れである。今のことを表現するなら、彼、走ってるよ、って日本語でも言うはず。

3 これが深い。直訳すれば、「彼(se')は、走ること(rith)において(ag)Ta'(存在する)」となる。ゲール語の感覚では、とにもかくにも、今存在すると先に言う。で、走っている状況の彼が、と続く。重要なことというか、本質的なことが先に記述される傾向というべきか。

4 形容詞は主語の後につく。ラテン系の言葉を知ってる方ならお馴染み。モン・ブランが山+白いみたいなもの。ただし、Be動詞はとにかく頭に来る。

サッカーとサムライ魂

WーCUP 日本チームが勝つのは、サムライ魂による、とすれば、スウェーデンチームが勝つ場合には、バイキング魂、アメリカチームがかつ場合には、ヤンキー魂、今回アイルランドチームは出場できなかったけど、この場合はケルト魂ってことか。

このブログ的に行くとすれば、もっと掘り下げたい主題である。つまり、プラトン的に考えると、「サムライ魂」を定義したいものだ。ぼちぼち今後の題材にしてみよう。

そもそも、明治維新とは、徳川家を筆頭とするサムライ社会を壊滅させる政治変動であった。しかし、魂だけが残っているのだろうか。僕的には、”佐幕”であるから、この点でも気になる。

第一、今の菅総理なんて、”奇兵隊内閣”なんて言ってるぞ。この人、本物の長州人らしい。明治維新の続きがあるのかな。一般国民にとっても、重大事項だ。とはいえ、先の”宇宙人”よりずっとこっちの世界の人ではある。

でも、率直にいえば、奇兵隊的組織は、サッカーにこそ向いていると思う。

ゲール語のテイストを学ぶ6 Ta とNilの哲学

英語にはBe動詞があって、この使い方が重要になる。ゲール語(アイルランド語)も同じ。しかし、さらに深い意味がある。本来Be動詞も、存在を表すもの。存在なんていうと、哲学めいてくるけど、ゲール語はもっとそうだ。

英語の副詞、Yes、Noに相当するものは、ゲール語にない。驚きである。替りに、存在を表す動詞Ta(aの上に長音の点)、ターと、Nil(iの上に長音の点)ニールを直接に使う。

バカ丁寧に考えると、

はい(Ta)、とは、現在形でそのような存在があるという意味。いいえ(Nil)、とは、そのような存在はないという意味になる。会話や文章のなかで、こんなことをいちいち考えているとは思えないが、言葉の意味を突き詰めるとそうなる。

言われてみれば、そうだよね。たとえば、彼が走っているかどうかの質問に、はい、といえば、走っている状態の彼が存在しているわけ。

この世の出来事は、みんなひっくるめてTa。実際起きていないことは、Nil。ゲール語の根本には、こんな発想があると思う。

ところで、Taの古い意味は、立つ(stand)だったそうだ。なかなか玄妙である。荒木飛呂彦の漫画、「ジョジョの奇妙な冒険」は、スタンド使いの話であるが、このスタンドとは、潜在的にある力のようなもの。これが、具体的なスタンドとして現れたり、引っ込んだりする設定だ。つまり、今見えなくても、常に可能性として”ある”。

これをゲール語に置き換えると、スタンド使いがスタンドを出しているなら、Ta、引っ込めているならNilに相当するのだろう。そうすると、表面的な在る、無しを超える何かがありそうだ。

ここまで考えると、哲学上の存在論の話になる。

アイルランド出身の哲学者エリウゲナは、こんなぶっ飛んだことを言っている。

神とは、自然である。

神とは、”ある”ことと”ない”ことの全てである。

だから、エリウゲナの思想はキリスト教社会で、異端視されてしまうわけ。でも、こういったユニークな発想の背景には、彼の母国語(ゲール語)があったのでは、と僕は考えている。

新社会人のためのプラトン主義入門 その6 徳について

政治家などの不祥事について、本人が「私の不徳といたすところでありまして。。」とか何とか。今どきの”徳”という言葉はこんな具合にしか使われない。では、徳って何だといえば古代思想にまでさかのぼることにあるだろう。その起源は、東洋においては孔子にあり、西洋においてはプラトンにある。その共通点は、徳を高めるためにはどうしたらよいかを考え抜いたことだ。

学校教育やビジネスで「論語」が注目される機会が多くなってきたように感じる。その意味でプラトンだって使えるはずだ。このような閉塞した時代にあって、社会を形作るファンダメンタルなものに注目することは悪くない。

明治維新や明治時代に活躍した偉人たちは、西洋の文化をいち早く受容したばかりでなく、論語を中核とする儒教教育を極めていた人たちでもある。こういった基盤が日本の発展に大きく寄与したことは間違いない。

世の中で生きるうえで、したたかさはとても重要だけれども、それに加えるなら徳。これはリーダーシップにも関係する。

上司、社長は、どれだけ徳が高いのか(なんて古典的な表現だろう)、見極めるだけでも一つの処世術かも。そしてよい感化を受ける、とりあえずついていく。実利がどれだけあるか保証しないけど、少なくとも気持ちよく納得した社会生活できると思う。そのヒントは、古典にある。これが教養科目の意義。

妖精について その5 レプラコーン

アイルランドの観光産業に最も貢献している妖精。アイルランドの道路標識「妖精横断注意」(ケリー県にあるらしい)のモデルでもある。遠野の河童みたいなもの。

ハリー・ポッター映画版では、華麗なアイリッシュ・ダンスを披露している。O.R.メリングの小説にも登場。また、都内の某アイリッシュ・パブのイメージキャラクターとしても使われている。日本語表記では、レプラホーンとも。アルファベットの綴りもさまざま。その語源は諸説あり、よく分からない。

そのイメージはかわいいとはいえない。小人型の妖精ではあるが、職業は靴屋、孤独な守銭奴のひねくれ老人である。

がっぽり金を溜め込んでいるので、捕獲して脅迫し、その在り処を吐かせようとする民話がある。しかし、成功例は聞かない。捕まえてもすぐに消えてしまうから。つまり、お金はきちんと働いて稼ぎなさいという教訓か。

現実的な問題として、いわゆるイメージキャラクターは大切だ。村おこし、町おこしには土地の伝承を探ってみたいもの。

アイルランドの花 ジキタリスと薬草学

タネから育てて3年ほど、うちのプランターにジキタリスの花が咲いた。通常は薄紫色の花であるが、これはレアな白花だった。しかし、特徴のある斑点はそのまま。

アイルランドの草原でこの花はよく目立つ。袋状の花のため、英名ではFoxgloveと呼ばれるが、ヨーロッパ一般にラテン名のジキタリスもよく知られている様子だ。その薬効からだろうか。

日本でも観賞用としてよく普及しているが、毒草である。また、著名な薬草でもあり、古くから心臓病の特効薬とされている。当然、強い副作用があるので、一般のハーブのような使い方ができない。日本でジキタリスを処方する医師などいないのではと思うが、ヨーロッパの医師なら処方するのかも。その有効成分はずばり、digitalin。

漢方での、トリカブトと似ていると思う。漢方では相当に毒性を弱めて配合しているらしいが、こういった薬は常用に向かない。こういった場合、漢方では下薬という表現が使われているらしい。

こんな記事を読んだとこがある。全然外国語を知らない日本人女性が、必要あってヨーロッパを旅した。現地の人と、自動車での移動の最中は、とても気まずいものであったが、ふと外を見ると野原にジキタリスが咲いていた。この人、園芸には詳しかったので、思わず「ジキタリス・・」とつぶやいたそうだ。そうしたら、一同「Oh、、、!」一気に場が和んだとか。

だよね、園芸的な話題はかなり普遍性があるもの。僕の経験では、アイルランドでお茶に誘われたことがある。

子どもとセンス・オブ・ワンダー

快晴の朝、ずいぶん重くなったうちの子を抱えて、駅に向かう。そのとき、うちの子は、空を指差し、「つきー(月)」と教えてくれた。つられて通りがかりのサラリーマンまで空を見上げていた。なかなか子どもの感性はあなどれない。

こんな青空の中でも、かすかに月は出ていた。すると、はるか上空、月の下を鳥の群れが渡って行った(できすぎ)。永遠と一瞬の邂逅である。

おとなになると、日常の雑事に翻弄されて天空のできごとなどどうでもよくなるものだ。しかし精神の健康上、好ましくないと思う。古代人、すなわち人類の歴史上の大多数の人々は天空の出来事になみなみならぬ関心を払っていた。アイルランドに数あるストーン・サークルなどその例。そこには、天文学的配慮が施されている。人類とは本来そういうものだ。

現代人の場合、追い詰められた人は空を見上げない。脳内のノイズでしかないものと格闘することで心のエネルギーをすり減らしていくようだ。しかし、自分自身を超越したものに出会うことで、適切な心の整理ができることがある。

神様を持ち出すまでもなく、月の満ち欠けに気づくだけでも効果があるだろう。いや、路傍の雑草の花でもいい。プラトン的にいえば、美しさそれ自体、超越的なものである。

多くの臨床的な事例でいえば、こういったさりげない気づきが大きな転機となることがある。言い方を変えればそれは心の若さでもある。幼い子どもほど、驚きのセンスを持っている。

妖精について その4 バンシー

ハリー・ポッターの学友、シェーマス・フェネガンにとって、最も恐るべき存在はバンシーだとされている。

バンシー=Bean Sidhe(Banshee)。ゲール語でBeanは女、Sidheは妖精だから、妖精女が直訳。バンシー遭遇譚によれば、その姿は日本の幽霊画のそれと似ている。ただし、足付き。

アイルランドのバンドが日本で公演したとき、演奏曲としてバンシーの紹介があった。”これはゴーストの曲です”。ゴーストなんですね。フェアリーとは言わなかった。姿もそうだけど、妖精化したゴーストと考えれば分かりやすい。

(余談、バンシーという曲は、妙に明るい8ビートのダンス曲である、かなり定番)

だから、ファミリー系妖精というべきか。人里離れた荒地に棲むようなタイプではない。伝承によれば、人の死を、泣き叫ぶことによって、その家族と縁者伝えるために現れる妖精とされる。家族といっても、それなりの家系であることが必要。バンシーが憑いている家なら名家であるし、立派な人の死なら他家の仲間に応援を頼むのか、ぞろぞろ来るそうだ。

遭遇したらそりゃ怖いが、わざわざ泣いてくれるなんて律儀である。イェーツによれば、海外在住のアイルランド人のもとにも現れたり(妖精の海外出張か)、馬車を道案内して、危篤の人のもとに導くといった例をあげている。

おまけに、自分の憑いている家族に敵対する家族の場合には、泣くどころか、わざわざ勝利の叫びをあげることもまでしてくれそうだ(やりすぎか)。

僕がシェーマス・フェネガンの先生だったらこういう。

「しっかり勉強して、将来沢山のバンシーに泣かれるほど立派な人生を全うせよ」

バンシーから学ぶこと、それは、人間、惜しまれて死ぬことが肝心である。

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