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2010年4月

アイルランドみたいな日

今日は穏やかな晴れだが、昨日は日が差す中、雨が降る妖しい天気。おまけに風も強かった。黒雲を背景に、満開を過ぎた八重桜が散っていくさまが不穏なイメージを感じさせた。

日本の伝承では、天気雨の日に狐の嫁入りを見る話がある。黒澤明の映画「夢」の中にも狐の嫁入りのシーンがあり、この伝承のイメージを的確に描いていた。でも、「彼ら」は基本的に関わってはいけないものでもある。これはアイルランドの伝承でも同じ。

しかし、アイルランドの妖精譚に「天気雨」が関わっている例は聞いたことがない。それは「天気雨」が日常的すぎることもあるだろう。ただし、突発的な自然現象、たとえば突風などに妖精を関与させる例があったと思う。

アイルランドのめまぐるしく変化する天候は、生きた自然を感じさせるには十分である。このイメージが妖精に結びつくのはわかりやすいと思う。その場所が荒地の古城だったり、ストーンサークルなどであればなおさらである。

日が長くなった。かの地では、妖精に出会いやすい日とは、夏至という伝承がある。別に妖精目当てに行くことはないが、白夜に近いそのころのアイルランドは、実にすばらしい。とりあえず、グーグルアースで空から見て見るかって、ためしてみても雲ばかりだったりする。

アイルランドのガーディニング

このところ、哲学ネタが続いたので、季節がらガーディニングについて書いてみる。

手元には、アイルランドの園芸雑誌がある。日本も同じ温帯だけれども、夏の猛暑の問題があり、この点アイルランドの園芸家がうらやましく感じる。

日本の園芸雑誌では、イギリス風のガーディニングが幅を利かせているが、アイルランドのそれも似たようなものだ。むしろ気候的にもそれが本来なのだけれど、外国風のデザインもいろいろ紹介さえている。南欧風とか、あるいは和風もある(しかし日本で庭に仏像なんて置くか?)。

これは意外という点。それは、料理ネタが園芸雑誌に記載されていることだ。こんな言葉もある。キッチンガーディナー、日本では聞かないが、文字どおり食に直結したガーディニングを楽しむ人たちのこと。

家庭菜園で野菜を調達するという意味もあるだろうけど、ちょっとハーブを摘んで、日ごろの料理にアレンジしてみるということでも園芸の楽しみが広がるはず。日本でも、洋風ハーブが普及しつつあるが、これを日常のレシピに生かす点では、まだ発展途上なのかも知れない。

これは余談、うちで育てているシャムロックが今年も黄色い花をつけだした。なんだか寒い日が続いているけれど、この花が咲くと、夏への扉が開く。

新社会人のためのプラトン主義入門 その3

会社に入ったら知らないことだらけだ、だからうまく質問するにこしたことはない。新入社員の特権は、知らないことがあたり前ということ。普通、教える側も悪い気がしない。ところが、ポジションが上がったり、年をとるほど素直な質問がしにくくなるものだ。でも、立派な人は、自分の限界をわきまえているはず。知ったかぶりで恥をかくなんてしない。

自分が何を知らないか、ちゃんとわかっていることを「無知の知」という。プラトンが描くソクラテスは、このことをとても重要視した。ソクラテスのライバルと描かれているのがソフィスト。それは知者という意味。本来悪い意味じゃない。ソフィステケートなんて言葉もあるが、ソフィストは自信満々で登場する。

プラトンの著作のハイライトシーンの一つは、ソクラテスとソフィストたちの火花を散らすディベートだ。この場合、自らの知をよりどころにするソフィストに対し、ソクラテスは「無知の知」を使って対決する。

どういうことかというと、相手は知者を標榜するのだから、こっちは無知に決め込む。そうすると、主張の根拠を証明するのは相手だ。つまり、相手に先手の攻撃をさせ、質問で反撃するのがソクラテス流。証明責任を相手に振ると、それだけでとても有利なのだ。

もちろん、勝った負けたの問題ではなく、こういったやり取りを続けていくことにより、より本質的な問題が明らかになっていく。だから哲学なんだけど、これがプラトンの意図。

トラブルは、お互いに心を開いて、譲り合いの気持ちで解決しましょうって、そういけばいいのだが、世の中、そうはいかないこともある。会社だったら、悪質なクレーマーに狙われることだってあるだろう。そんなとき、テクニック上、ソクラテス流の対処方が役立つこともある。

そのポイントは、

不明確なことをはっきりさせる的確な質問の切り返し

主張や要求をする者が、その根拠を明らかにしなければならないという前提を守る

こんなところだろう。

新社会人のためのプラトン主義入門 その2

昨日のテレビニュースで、「一人で学食に行けない大学生」って報道があった。何それって、つまり”みんな”と一緒でなくては怖くてたまらないのだそうだ。

”みんな”っていってもね。卒業後まで付き合える仲間なんて、そんなにいないと思う。特に日本では、”みんな”とは特別な意味がある。また、使える言葉でもある。使えるとは、他人を操作するために効果的ということ。組織で働く場合には気をつけた方がいい。

先のブログ記事に付け加えていえば、プラトン主義の特徴のもう一つは言葉の意味を突き詰めて考えることにある。もちろん本来は、対話の中で哲学上の概念を明確にすることなのだが、日常的な会話の中で応用してみてもいい。

「みんなが君のことを○○○っていってるよ」

こういう言い方は誠実ではない、と僕は思う。間違ったことしているのなら、きちんと教えてくれればいい。こう、質問してみてはどうか。

「みんなって?」

多分、具体的には教えてくれない場合が多いと思う。いたとしても2、3人だろう。職場の対人関係に悩む人たちを相手にしていると、”みんな”を拡大解釈いている場合が多い。人類を敵にまわしているわけではあるまいし、蓋を開けてみればそんなもんだ。

問題の本題に切り込みを入れるのなら、

「あなたはどう思ってるの?」といえばいい。そうすると、相手はおのずと物事の是非に応える立場になる。

気の利いた職場では、やれコーチングやロジカルシンキングだとか研修を受けるかもしれないが、僕の意見では、その源流はプラトンにあると思う。

プラトンの哲学は、2千数百年読み継がれてきた。その中身のほとんどはソクラテスを主人公とする対話の創作的記録である。まあ、古代小説みたいなもの。ところが2千数百年の時を隔てても、臨場感が豊かで登場人物たちはとても生き生きをしている。このため、哲学書としてはダントツに面白い。あの手この手の対話のテクニックにあふれているので、日常場面でもとても応用がきくと思う。

新社会人のためのプラトン主義入門 その1

桜も終わったし、こんな企画を考えてみた。なんでプラトンかといえば、このブログの題名にあるエリウゲナはプラトン系だし、今の世の中でこそ、プラトン的発想が結構使えると考えるからだ。

社会人になるということは、当たり障りなく、妥協をする処世術を身に着けていくことでもある。きれいに言えば、円滑なコミュニケーション能力を備え、組織に期待される人材になっていくことである。まあ、悪いことではないが、過剰適応という問題もある。

つまり、組織とその成員は利益が相反することもあるから、期待されるまま染め上げられていくことが必ずしも自分にとって善いことではないということ。

うつ病に追い込まれる人や、さらには自殺に追い込まれる人の中には、過剰適応型の人が多い。僕のかつての職場の例でいえば、研修所の教官がいきなり首吊りというショッキングな事件があった。若手の手本とならなければいけない重圧、そして組織特有の理不尽さなど、その背景にあったようだが、妻と幼い娘二人が棺桶にしがみつき号泣なんて、実に壮絶な葬儀だった。

組織のすごいところ、というか恐ろしいところは、彼の遺書まで研修に都合よく使ってしまうことだった!これには、まったく恐れ入ってしまったが、組織にとって成員とはやはり手段なのである。また、よくある例では、組織犯罪の尻尾切りにされてしまう場合もある。

自殺者にされたり、犯罪者にされるケースはまれとしても、メンタル的に自分を守ることは、やはり必要だと思う。

プラトン主義の基本は、物事の良し悪しをガツンと決める姿勢にある。これを組織の個人に応用すれば、「自分が立つ普遍的根拠を確立すること」だ。あまり前面に出すと、困った意固地な人にされそうだが、「これ以上は譲れません」といった基準は大切だと思う。その裏づけは「普遍的」ということがミソ。1000人のYESに、一人でNOといえる自信である(やりすぎか)。

プラトン主義とは、プラトニックラブという使われ方のように、きれいごとばかり言っている印象がある。けど、本当はペシミズムだ。イデアなもの、理想的なものは、本来あっちの世界のもので、こっちの現実世界にはそのまま実現できないことが前提なのである。

だから理想論ばかり振りかざして煙たがれても仕方がない。いざというときの最後の切り札にとっておけばいい。また、むやみにブレない態度で表現してもいい。僕が経営者だったら、「コイツ、使い勝手は悪いが、信頼を置いてみよう」と考える。

アイルランド旅行資金を欧州から調達する話

最近、ギリシャの財政危機によりユーロ圏がガタガタしているが、ユーロの導入当初も、ひどいものだった。

投資信託の話である。ITバブルがはじけたころ、少しづつ買い進めた欧州株投資をテーマとした投資信託を持っていた。この投資信託、為替連動型のBコース、為替ヘッジにより円に連動するAコースがある。最初はAコースに投資していた。欧州の株価上昇により、そこそこの値上がりとなった。

さて、導入当初のユーロは評価が低く、値下がり傾向にあった。つまり、Aコースが有利である。ユーロ安の足かせがないからである。

ところが、ユーロが反転、上昇しだした。このためBコースに資金を変更、その結果、株価上昇とユーロ高の二重効果により、実に良好な投資結果となった。

アイルランド旅行を計画したので、この投資信託を一部換金、旅行資金に充てることにした。お金は天下の回り物だし、欧州(アイルランド)に還元することになった。

そして、このブログにより、旅行経験を皆さんにも還元しようと思っている。

坂本龍馬の育った環境~封建主義再考

その家族は、酒造業、衣類販売業、貸金業など多角経営のファミリービジネスを営む裕福な一族で、国学の素養を持ち、茶道をたしなみ、和歌を詠むことを楽しんでいた。娘の一人は、ピストルの射撃まで趣味(今だったら大変だ!)。その弟は、革命家となり、若くして暗殺された・・・

って、どこの国の家族かといえば、土佐の国、坂本龍馬の実家である。これは、今日の日経新聞、企業広告内の記事(津本陽さん筆)を参考にしている。

武家でもない近藤勇の実家が剣術道場経営をしていた話もあるが(おまけに苗字・帯刀、いいのか?)、龍馬の実家はもっとすごいのだ。

NHK大河ドラマもそうだが、江戸時代=身分制度によって人々がひどい抑圧を受けていた受難の時代、というのは建前を本気で信じているにすぎないのでは。確かに、坂本家は下級武士として上級武士に頭を下げなければならないようなことがあったろう。しかし、下級である分、自由な経済活動が許されていた側面もある。これが格式の高い上級武士だったら商売なんてできない。つまり、身分的な不平等があるからといって、当然に経済的な格差があるわけではない。

言い換えれば、封建主義社会とは、身分に応じた経済的な保障のある社会である。少なくとも、江戸時代のような完成された封建主義社会ではそうだ。おまけに、武士の身分を買うことさえできた。身分を買えば、身分に応じた義務、禄高が決まる。

勝海舟の父はこうして御家人株(後、旗本株まで値上がり)を買っている。また、龍馬の盟友、岩崎弥太郎の家では、一旦売った郷士身分を買い戻しているが、相当な身分でない限り、こんなことは結構普通のことらしい。

武士の身分まで株式のように売買できるのだから、いっそのこと脱藩してフリーランスで商売をしようなんて武士がいてもおかしくないが、これをやったのが龍馬。しかしその経営資金は土佐藩からしっかりせしめている(窓口は岩崎弥太郎)。

幕末に活躍した志士の多くは下級武士である。おそらく当時としては、これが”おいしい”身分といえるのだろう。公的権威の裏づけ、経営者的環境、教養水準の高さ、自由度のバランスが取れているからである。

認知行動療法について(脳と心)

今日の日経夕刊では、認知行動療法とうつ病について大きく紙面が割かれている。薬物の投与に加え認知行動療法を加えることが効果的という記事である。

もう一歩掘り下げてみると、とても哲学的な課題でもある。薬物は脳内の生理現象に関わる。つまり、物質的レベルの問題だ。また、認知行動療法をはじめ心理療法とは、心レベルの問題である。物も心も相互に関連しあうリアルな存在という意味で、哲学上の二元論を裏付ける例だと思う。

認知行動療法を一言でいえば、見方、感じ方を変え、行動に反映されれば、現実は変わりうるというもの。まず、心が起点となっている。

ゲール語の党名 Sinn Fein(シンフェイン)

最近日本では、「みんなの党」なんて、政党ができた。ぬるいネーミングだ。ぬるいというか、いわゆる愚民思想ではないかとも疑われる。

そもそも、政治とは、異なる利害関係の調整の場である。露骨にいえば、税金の配分をどうするかというような問題の綱引きをするわけだ。当然、得をする人たちもいれば、損をする人たちもいる。だから、本来ざくっと「みんな」なんていえない。

アイルランドの政党、Sinn Fein(シンフェイン)の意味は、「我々自身」。ということは、我々ではない人たちの存在を前提としている。これは、北アイルランドの深刻な民族対立を前提としているのである。

このような問題を抱えていない日本は恵まれている、と考えることは正しいと思う。とはいえ、世代、職業、地域など異なる立場を前提に物事を考えるのが大人である。そこに”主義”というものが当然できる。その上で、妥協を重ね、国全体の利益を考えることが筋。

昨日、「たちあがれ日本」なんて党もできた。気分としてはわかるけど、政党の名に値しないと、僕は思う。これだけでは、具体的に何をしたいのかわからない。

ただ、政党の名前にふさわしい”主義”が手詰まりなのも事実だろう。民主に対抗したいのなら、”共和”党でもつくるのか、国家社会主義党ではきわどいし、いっそのこと日本封建党とか、、、

ゲール語のテイストを学ぶ5 私のともだち

うちの娘はもうすぐ2歳、使用単語数が急激に増加し、時折二連語も使うようになった。未知の言葉を学ぶには、こんな調子でいけばいい。

この娘のお気に入りは、小鹿のぬいぐるみだ。その名前は、Cara(カーラ)、ゲール語で友だちの意味。自分でもそのように呼んでいる。

ところで、小鹿=小(こ)+鹿(しか)なのだが、日本語では、こかである。そのように発音した方が発音しやすいので、”し”が”じ”になる。英語では文法上こんなことがない。

ところが、ゲール語を含め、ケルト語の特徴は、このような緩音化が規則的に発生する。ある意味、高度な音声言語なのだ。

では、cara(友達)が私の友達だったらどうなるか、mo(私の)+caraは、mo chara(モハラ)となる。

さらに形容詞を付けてみよう、たとえば、小さい、英語の語順では、my little friend、日本語と同じ。ところが、ゲールの形容詞は後につく。小さい=beag(ベアグ)が最後に付き、

mo chara beag となる。ついでにいえば、大きいは、mor (モー)。

以下余談。CCEとは、アイルランドの伝統音楽・ダンスを学ぶ団体であり、日本でも支部がある。

では、Ull Mor CCE とはどこの支部。

ヒント、ull (ウール)はゲール語のりんご。つまり大きなりんご。

ニューヨークのことを、別名Big Apple というので、これは、CCEのニューヨーク支部です。

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