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2009年12月

新春企画の公示 ゲール語のテイストを学ぶ

来年1月から1年の間、このブログ上でゲール語講座を開設します。ただし、僕自身たいしてできるわけではないので、あくまでイメージをつかむ程度です。

基本指針

実用には程遠くても、ゲール語を題材に、広くケルト系文化の素養をつかむこと

たとえば、アイルランドの音楽の題名を考察する、他のケルト系言語=ウェールズ語やブルトン語と比較をする、とりあえず挨拶ぐらいはできるようにする、このようなコンテンツを予定します。

できれば・・・来年末に参加者オフ会でも開催したいものですね。

クリスマスのこと

クリスマスとは、本来はイエス(=歴史上の実在の人物)の生誕を祝うミサのこと。もちろんキリスト教の教義に根ざしているが、イエスの生誕を根拠にして西暦ができているのだから、これはすごいことである。宗教面を度外視しても、西暦をまったく無視して生活できる日本人なんていないだろう。

ところでなんで今日なのかといえば、はっきりしない。イエスの伝記を伝える新約聖書にもはっきりした記載がないからだ。少なくとも、羊飼いたちが野外、夜中に星を見ていた夜とされているので、この記述からすれば冬ではないはず。

通説的には、ヨーロッパの土着の風俗が影響したとされる。つまり、ケルト人やゲルマン人などが、新年や冬至のころに行っていた儀式が影響と与えたとされているようだ。神聖なクリスマスツリーを飾ったり、冬の精霊、サンタクロース(元は聖人の一人だった)が訪れる夜とされるように、オリジナルのキリスト教が土着の信仰を取り入れたおかげで楽しい年中行事となることができた。アイルランドの守護聖人、聖パトリックもこの点に配慮した一人。立派である。

ケルティック・クリスマスなんて言葉があるが、もともとケルト的な要素がクリスマスにはある。もっとも、とても原理主義的なキリスト教のセクトにすれば、ケルト=異教的な要素であるから、とんでもないことであるが。

津村記久子の妖精論(カウンセリングへの応用)

小説家の津村記久子さんが、昨日の日経新聞にエッセイを載せている。彼女が妖精本を愛読しているとは知らなかった。このエッセイは、妖精(ゴブリン、バンシーその他妖怪も含む)の何たるかを述べたものというより、”対人関係上の距離のとり方”を教えてくれるものだと思う。

日常生活上、ぶっとんだファッション、常軌を逸した他人の行為、理解不可能な振る舞いに遭遇することはある。倫理上見過ごせないことはあるにせよ、必要以上に巻き込まれる必要はないのでは。

ところが、人ごととは考えず、自分が重要な当事者であるかのように悩んでしまう人も多いと思う。なまじっかカウンセリングの素養があったり、対人関係に敏感な人たちがそうだ。いちち悩まず、「もしかして妖精?」と考えて気持ちを楽しくするのが津村流とのこと。ぼくも同感だ。

仕事の対人関係の悩みなどを聴く場合、対処方はいろいろあるが、自己理解を深め、他者を共感的に受け入れるなんて回りくどいことが多々ある。「納得できない!」と怒っている人などがそうだ。納得できないっていうけれど、すべての人が自分の常識の範囲内で行動するなんて前提の方が成り立たないはず。ならば、あの人は妖精みたいなものだから、と距離を置くほうが望ましい。一見冷たく感じるが、異質なものは異質として別な世界に分離してしまえば、余計な憎しみも消えるものだ。これは相手の立場をとりあえず認めるということにもなる。

僕は「その困った人、一緒に見に行きましょうよ」と提案することがある。もちろん冗談だが、見に行こうか的な発想をぶつけてみると、クライエントの視点を変えることができる場合が多い。

生命について

健康診断に行った。初めて訪れた病院だったが、産科のある病院だったので、元気な赤ん坊の声で一杯だった。「がんばって生きろ!」と応援したくなった。

生物学者R.ドーキンスの本にこんな言葉がある。

「あなたの祖先のうち、子孫を残さず死んだ者はいない」

理屈上、あたり前のことだが、この言葉、深い。今生きているすべての命は、すべての生命の始原から数億年続く過酷なサバイバルの結果である。ドーキンスは、改めてこの事実に注目している。私たちの祖先は、とにもかくにも生き延び、今の私たちを残してくれた。

魚類や爬虫類のレベルだったら、卵を残して完了、というわけだが、哺乳類、まして人類だったら子どもの養育の様子にもイメージが浮かぶだろう。

歴史上、あなたの先祖がどうやって生き延び子どもを育てたか、イメージできたとしたらとても劇的なものであるはずだ。自然災害、飢餓、戦乱など、そのすべては想像を絶すると思う。子ども手当がもらえるとかもらえないとか、とてもそんなレベルではない。東京大空襲の最中であろうと、沖縄の地上戦の最中であろうと、生まれて育った子どもはいるはずである。

もし気軽にライフスタイルの選択として、非婚を選ぶとしたら、罪深いことではないだろうか。近代的な個人主義は、一見ありがたいもののように見える。しかしことさらに個人を際立たせると、生命の流れと深みを無視する思想にもなりうる。

ただ、ヒトの場合、哺乳類の中でもとりわけ出産だけでもリスクが大きい。不測の事態が発生しやすいので、アメリカ的な訴訟社会では産科は格好の標的になってしまうようだ。これは、本来のヒトの出産リスクを考えれば、とても野蛮な状況ではないだろうか。”産婆”とは、生物としてのヒトの根本に関わるので人類史上最も古い職業の一つである。格段の配慮が必要だと思う。

ところで今日の日経新聞によると、産科医10年ぶり増。がんばって続けてほしい。

クリスマス・キャロルを読む

書庫を整理したらディケンスのクリスマス・キャロルを見つけた。昭和41年版、80円で買った古本である。クリスマスも近づいたので、ちょっと読んでみることにした。

当時の英国、ロンドンが舞台である。日本でいえば幕末にあたる。当時のロンドン市民の生活の描写がリアルであるが、まぎれもないファンタジーでもある。

強欲意地悪老人、主人公スクルージは、共同経営者の幽霊に会い、警告を受ける。これから3人の精霊が彼を訪れるのでしっかり回心せよというのだ。

コンテンツ的に、こういった超自然の存在が出現する点でファンタジー文学なのだが、主題的にもファンタジー的だ。人間にとって幸福とは何か、こういったベタな問題をストレートに扱う点は、ファンタジーらしさだと思う。

ところで、この話の中でスクルージは生身の人間なのだが、こういったキャラクターは日本の昔話にも登場する。つまり、個性を超えて普遍的な存在をディケンスは描いている。この点、スクルージ自身も、ユング的な観点からすると現世のものではない、原型(アーキタイプ)的な要素を多分に含んでいるといえる。

とすれば、ユング的には、スクルージは私たちの心の奥底の住人でもある。こういったわけでも、この物語は、世代を超えた普遍性を持つものだといえるだろう。だからいつの時代にも、リメイクされ映画にもなるわけだ。

アイルランドの光と虹

太陽が低く昇る季節になると、太陽の光にオレンジ色の配分が多くなる。日本では、晩秋のトーンだが、アイルランド旅行では真夏であってもこんな具合だ。アイルランドは、緯度の高い国なので、年中太陽の光にオレンジ色が含まれている。日本人にとって、この点だけでも、感傷を感じさせるものになっているだろう。

アイルランドでも、とりわけ海辺の田舎の地方、つまり高い建物や高い山のない空間が広がっていると、天気のよい日など夕日、朝日にとても長く照らされているように感じる。短時間の雨も多いが、雨上がりのキラキラ光る情景は実に美しい。

ただし、自動車を運転するにはこれが曲者にもなる。路面の反射は悩みの種だ。ましてや広い平原を太陽に向かって進む状況など、サングラスなしでは少し後悔するだろう。

反対に、太陽を背に進む場合、すばらしいものを見るチャンスがある。それは、地平線から立ち上る雨上がりの大きな虹。その虹の真ん中を道路が貫いていたら?うそみたいな状況設定である。僕はドネゴール県の平原でこれに近い経験をしたことがあるが、みなさんもアイルランドに行ったらぜひ虹に注目だ。

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