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裁判員制度とプラトン主義

裁判員制度の実施が近づいているので、この制度について哲学の味付けで少し書いてみよう。

この制度、広く一般国民に司法への参加を促すことで(強制である)、適切な司法判断がなされることが期待されている。いわばより民主的な裁判の形だろうか。

民主的といえば、文句なしに正しいこと、と私たちはいつの間にか信じ込まされているが、善悪の問題、あるいは科学的な真理の問題など、多数決で判断されるものであるとはいえないだろう。多数決とは、正しいことを発見する手段ではなく、政治的妥協の方策にすぎない。

カンボジア、ポルポト政権下での大量虐殺は、全くもって「民」主導の司法判断の結果であった。中国、文化大革命下でも人民裁判も同じく民主主義の「成果」である。時代をぐっとさかのぼり、古代ギリシャ、アテナイのソクラテス裁判も世界史的な元祖民主主義政権下でのできごとだ。この顛末を描いたものがプラトンによる「ソクラテスの弁明」。

この古代の裁判記録、人類最古の裁判記録かも知れないが、今なお人類史上最も重大な裁判記録である。このソクラテスの弁明から、西洋文明が始まったといったら言い過ぎだろうか。

結局、民の力に押し切られ、ソクラテスには死刑判決がなされる。その反動としてプラトンの有名な哲人政治の主張があるのだろう。つまり、真理に最も近い人間=哲学者が主導者となることが最適であるという考えだ。これもまた極論であるから、現実にプラトンは政治家として失敗している。

当然、裁判員が哲学者や法学者になる必要はない。当局も法律知識は要らないと述べている。”だから大丈夫、あなたにもできます”といいたい感じなのだが、司法判断にはどうしても抽象的な判断の基準が必要となるものだ。これぞプラトニックなものである。裁判員制度に基づく裁判が人民裁判になってしまわないためには、少なくとも正義とは何かと問うセンスが欲しいとは思う。

そもそも、わが国の司法制度は西洋からの外来のものである。その意味でいえば、プラトン主義とも無縁ではないのだ。

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