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裁判員制度と量刑問題

前回、裁判員制度について書いたが、さらにもう一つ。

裁判員制度は、アメリカの陪審員制度「みたいなもの」だ。しかし、根本的に違うことは、無罪か有罪かだけではなく量刑の判断も行うことにある。つまり、「この人有罪!」アメリカだったらこれで済むが、日本の裁判員は、刑の重さも判断しなければならない。殺人罪なら、懲役5年から無期、死刑までさてどれにするか、となる。このように日本の刑法は実に融通がきく。

実際は、どれにするか、なんて定食のコースを選ぶようにいくわけがない。よくテレビの報道を見て、「こんな悪いヤツは死刑だ!」と憤慨している人がいるが、裁判員は直接本人に会い、質問もできる。相手は目の前にいるのだ。評議のうえ決めることにせよ、自分の判断如何で人を殺すこともできる。この判断を軽く済ますことができるとすれば、凶悪犯罪者の感覚と大差ないだろう。

有罪、無罪の問題だけなら、ある程度感覚で対処できる。「これだけの証拠があれば黒だろう」と判断すればいい。ところが、量刑となるとその人の「哲学」が如実に出る、と思う。そもそも刑罰の意味とは何か、と考えざるを得ない。刑罰とは、悪を断罪する正義の実現か、犯罪者に更生の機会を与える教育なのか、犯罪者を隔離し社会を防衛することなのか、裁判員となるまで考えたこともなかった人が大半だろう。マスコミ報道で知るよりも、生のおぞましい犯罪記録を知ることにより、厳罰傾向が高まるとは思う。百聞は一見にしかず、というが本当の現場を知るインパクトは大きい。一方、被告人の生い立ち、犯罪に到る経緯を知ることにより、むしろ被告人に同情する例もありうるはずだ。

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