愛について 戦国編
今年のNHK大河ドラマの主人公は、直江兼続だ。直江兼続といえば、「愛」。兜にきらめく「愛」の文字をかたどって戦場を駆け抜け、民政にも手腕を発揮した名将である。
彼に着眼したNHKはよくやったと思う。今風にアレンジすればすばらしいヒーローだろう。ただし、このブログの主要テーマの一つが精神史なので、この点、少しコメントする。
原則、日本の精神史上では、愛はむしろネガティブな言葉である。本来の意味では、「性愛」に近い。これは、仏教でいうところの大きな煩悩の一つだ。つまり、人を迷わせる根源という意味。ところが、今私たちが使う意味で、愛とは、非常にポジティブなイメージになっている。これは、明治以降のキリスト教の影響が大きいといってもいいだろう。
戦国時代に初めてキリスト教が伝わったころ、入信した日本のキリスト教徒たちは、あえて「愛」の言葉を避けて、この宗教の言葉を翻訳していた。今は神の愛、というべきところ、デウス(神)の御大切とか、言いまわしていたらしい。愛では、性的なニュアンスが強いので、使用を躊躇したのだといえよう。
ただし例外は、仏教の中でも密教。なぜなら、密教では、性愛のエネルギーをあえて受け入れ、むしろこの力で悟りを得ることができるとも考えるからだ。この点は、理趣教という経典にも言及があるほか、歓喜天や愛染明王など、意味深な名前の仏をまつる修法が密教にはある。
また、密教は、呪術的な色彩が強い教えでもある。戦国武将の中にも特定仏を崇拝し、そのパワーを後ろ盾にしようとする者も多かったが、これは密教的な発想だ。
特定仏を崇拝したことで有名な武将は、何といっても直江兼続の師である上杉謙信である。僧形で描かれることが多いが、それもそのはず、特定の仏への信仰が異様に激烈だったからだ。彼が信仰した仏は「毘沙門天」だが、これはまさに武将向き戦闘系の仏といってよいだろう。このため、「毘沙門天」の「毘」は、彼の旗頭にもなっている。
では、直江兼続は?彼にもファンの仏様があったはず。つまり、愛といえば、「愛染明王」である。彼の兜の印は、愛染明王のパワーをもらって戦うぞ!という意志表示と考えることが妥当だ。愛の仏様とはいえ、その姿は戦闘モード全開である。牙を生やし、弓まで持った激怒の姿で描かれる。武将にとってこんな仏様が後ろ盾だったら、さぞかし頼もしいだろう。ただし、毘沙門天のようなストイックなイメージはない。
愛染明王には、目が三つあるが、真ん中の目が何を象徴するか、これに性的な解釈がなされることが多い。興味のある方は、調べてみてはいかが?
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