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2009年1月

アンドリュー・ワイエスのこと

ワイエスは僕の好きな画家だ。というと、僕のHPを知っている方なら、笑って納得するだろう。ただし、最近更新をしていないので、HP自体が廃墟になりつつある。

昨年の暮れ、アンドリュー・ワイエス展を都内で見たが、今月16日にワイエスは亡くなったと新聞記事で知った。91歳の大往生である。

落ち着いた色彩が僕の感覚になじむ。そして材質感のリアルさに圧倒される。また、廃墟めいたものにストーリーを織り込む画風もとても好きだ。

以下4作品をご紹介。

「クリスティーナの世界」は代表作。野辺を這いずる女性から劇的な印象を受ける。これは彼が数十年かけて描きつづけたオルソン家のストーリーの一コマだ。大邸宅(オルソン・ハウス)が主を失い、廃墟となっていく姿をワイエスは追い続けた。このクリスティーナの墓石を描いた絵もあるとは知らなかった。

「幻影」(Revenant)は、若き日のワイエスを描いた作品でもあり、またオルソン家の過去の追想でもある。オルソン家の開かずの間を空けた際、大きな鏡に映った自分の姿を描いたというもの。その姿は、過去の住人たちの幻影でもある。

「そよ風」(Fair Wind)は、裸婦を描いたもの。窓から差す日の光がまばゆい。ワイエスが裸婦も描いているとは意外だった。古びたがらんどうの木造の建築物と、窓からの風に髪をなびかせる女性の生命感が強烈なコントラストを演出している。

「火打ち石」は海岸の岩を描いた作品。あたかも永遠を象徴するような巨岩と、浜辺に散らばる海の生物たちの痕跡(カニの甲羅など)が、対比されている。神話的なイメージが感じられるが、それは、巨岩を敬う古代人の畏怖の念に関連するだろう。

「いないいないばあ」について

「いないいないばあ」、これは赤ん坊をあやす一発芸であるが、NHKの子ども番組の名前でもある。「いないいないばあ」を楽しむことができる子どもは生後6月以降といわれるが、つまりこれが最年少から楽しめるテレビ番組である。

実にわかりやすい。大人だって楽しめると思う。いちいち考えるものがない。ランクを一つ上げると、「おかあさんといっしょ」になるが、「おかあさんといっしょ」にはある程度のストーリーの展開がある。この点が、「いないいないばあ」との違いだ。そもそも「いないいないばあ」とは一発芸のようなもの、ストーリー抜きの一瞬の展開にすべてがある。

されど、いないないばあ、この芸ほど深い芸はないと思う。大切なものを失っても、大切なものは必ず期待どおりに戻ってくる。この喜びが「いないいないばあ」の本質なのだ。大切なものとは、大概の場合母である。たとえ今見えなくなっても、消えてしまったのではない、だから大丈夫、この原初の信頼関係があってこそ、この世に生を受けた者にとって、人生の最初の確たる一歩が踏めるのだ。

オバマ大統領の就任演説

オバマ大統領の就任演説についてコメントしたい。

扇動的な選挙演説とは趣きを変え、彼の就任演説は、地に足の着いた堅実な倫理性を強調するものとなった。地に足がついたという意味は、建国の歴史を踏まえ、現状認識を明確したということである。

私なりに、これはと思うフレーズを選んでみた。

So let us mark this day with remenbrance,of who we are and how far we have traveled.

(今日という日を記憶にとどめよう。私たちが何者であるか、そのために、どれほどの道のりを歩んできたかという認識とともに)

僕の哲学の師匠の言葉を思いだした。アフリカの発展途上国がなぜ行き詰っているのか、それは、歴史認識が作られていないからだと師匠は述べていた。どのようにして今の自分たちがここにいるのか、これがはっきりしないと、これからどうしたらよいのか目標が見えないのだ。

植民地支配の影響で、過去の歴史が断絶し、国境線も地域の歴史性と無関係に引かれている現状がそこにはある。だから、いくら物的援助をしても次のステップが踏めない。本当に大切なことは、理念のある歴史教育だと彼はいっていた。

幸い日本という国には、あり余る歴史の蓄積がある。というかありすぎか。邪馬台国から先の敗戦まで包括的なビジョンを造るわけにはいかないだろう。日本の政治家に歴史哲学者になれとはいわないが、歴史に学ぶ深みのあるビジョンをもっと提示してもらいたいものだ。それは今この国が何を耐えなければいけないか、正当な根拠を与えるものである。

脳科学と刑法

最近、脳科学が話題になっている。このブログでも話題にしてみよう。まず手始めは、刑法と脳科学。

私たちの心の働きは、人間の臓器である脳に関連している。これは、全くそのとおりだ。ただし、脳=心といった野蛮な発想には同意できない。これが私の基本的な主張である。そもそも、物質としての脳と、経験の主体としての心は密接に関連しているとはいえ、全く別次元の存在なのだから。これは、自由意思の問題にも関わる。

今日は、刑法を題材に少し考えてみよう。毎日報道される凶悪犯罪。これは、人間の行動の類型なのだから、当然に脳内の物理的働きの結果である。この働きは、生理学的な化学反応と言ってもよいだろう。生理的な化学反応、たとえば、神経伝達物質がニューロンの間で電気的な信号を媒介するようなこと、これがとてつもなく複雑な形で脳内で起こっていると考えればいい。ただし、あくまで物質界の出来事なのだ。

凶悪犯罪者の脳内で起きていることと、その他大多数のまっとうな人たちの脳内で起こっていることは、物理的な、すなわち必然的な出来事である。当たり前のことだが、化学的な反応に善も悪も存在しない。そして責任も。

しかし、刑法が想定する人間とは、自由な意思を持つ人間だ。だから責任が問える。重大犯罪の被告人に心神喪失で無罪、なんて判決が下ると、「とんでもない、こんな悪いヤツが何で無罪なんだ!」という話になるが、脳=心と全く信じるならば、もともと責任の所在なんてこの世のどこにもないのだ。やっぱりそれは変、と考えるのは、私たちの日常経験のレベルだと思う。

とりあえず、私たちの日常経験の世界に納得してみるなら、脳と心は分けて考えよう。これは、哲学上、物心二元論と呼ばれる。哲学者K.ポッパーはさらに第三の次元を考えたが、いずれ題材にしてみたい。

書評:聖(セイント)☆おにいさん(講談社モーニング、中村光)

僕が今年初めて読んだ漫画である。面白かったので紹介いたい。

設定がズバ抜けて奇抜。イエスとブッタが天界から下り、東京の安アパートでバカンスを過ごすというもの。イエスはブログも書いているが、「神の降臨」なんて題材を書いても、嘘にはならない!

とぼけたイエスと生真面目なブッタのボケと突っ込みが絶妙。ただし、ただのコメディではない。両宗教の題材をしっかり押さえているので、ある意味とても格調高いギャグである。サンタクロースの題材となった聖人とは?こんなことも、ネタになりうる。

彼らの安アパートでは、クリスマス会もお誕生日会になる・・・。スーパーに聖(セイント)な二人を、ベタベタに俗な状況設定に置いてみたらどうなるか、作者の発想には脱帽する。

仏教とキリスト教の基礎知識が問われるともいえよう。ギャグの内容を逐一解説していけば、大学の宗教学の講義一年分にはなると思う。読み方によっては立派な教養書だ。

愛について 戦国編

今年のNHK大河ドラマの主人公は、直江兼続だ。直江兼続といえば、「愛」。兜にきらめく「愛」の文字をかたどって戦場を駆け抜け、民政にも手腕を発揮した名将である。

彼に着眼したNHKはよくやったと思う。今風にアレンジすればすばらしいヒーローだろう。ただし、このブログの主要テーマの一つが精神史なので、この点、少しコメントする。

原則、日本の精神史上では、愛はむしろネガティブな言葉である。本来の意味では、「性愛」に近い。これは、仏教でいうところの大きな煩悩の一つだ。つまり、人を迷わせる根源という意味。ところが、今私たちが使う意味で、愛とは、非常にポジティブなイメージになっている。これは、明治以降のキリスト教の影響が大きいといってもいいだろう。

戦国時代に初めてキリスト教が伝わったころ、入信した日本のキリスト教徒たちは、あえて「愛」の言葉を避けて、この宗教の言葉を翻訳していた。今は神の愛、というべきところ、デウス(神)の御大切とか、言いまわしていたらしい。愛では、性的なニュアンスが強いので、使用を躊躇したのだといえよう。

ただし例外は、仏教の中でも密教。なぜなら、密教では、性愛のエネルギーをあえて受け入れ、むしろこの力で悟りを得ることができるとも考えるからだ。この点は、理趣教という経典にも言及があるほか、歓喜天や愛染明王など、意味深な名前の仏をまつる修法が密教にはある。

また、密教は、呪術的な色彩が強い教えでもある。戦国武将の中にも特定仏を崇拝し、そのパワーを後ろ盾にしようとする者も多かったが、これは密教的な発想だ。

特定仏を崇拝したことで有名な武将は、何といっても直江兼続の師である上杉謙信である。僧形で描かれることが多いが、それもそのはず、特定の仏への信仰が異様に激烈だったからだ。彼が信仰した仏は「毘沙門天」だが、これはまさに武将向き戦闘系の仏といってよいだろう。このため、「毘沙門天」の「毘」は、彼の旗頭にもなっている。

では、直江兼続は?彼にもファンの仏様があったはず。つまり、愛といえば、「愛染明王」である。彼の兜の印は、愛染明王のパワーをもらって戦うぞ!という意志表示と考えることが妥当だ。愛の仏様とはいえ、その姿は戦闘モード全開である。牙を生やし、弓まで持った激怒の姿で描かれる。武将にとってこんな仏様が後ろ盾だったら、さぞかし頼もしいだろう。ただし、毘沙門天のようなストイックなイメージはない。

愛染明王には、目が三つあるが、真ん中の目が何を象徴するか、これに性的な解釈がなされることが多い。興味のある方は、調べてみてはいかが?

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