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2008年4月

愛の博物学

初夏になった。彼らが戻ってきた。彼らとはツバメたちである。

去年巣があったあたりにまた巣を作っている。このツバメは去年のカップルかといえば、たぶん違うだろう。雛が巣立ち、子育てが完了すれば、鳥たちのカップルは解散となることが通常だ。それでもこの協力関係にはほほえましいものがある。

鳥類と異なり、子育てについて交尾以上の雌雄のパートナーシップをほとんどの哺乳類はもたない。雌雄の愛が交尾以上のものだと定義すれば、ヒト族を除き、地球上の雌雄の愛はほぼ鳥類が独占しているといってもいい。

科学の視点からすれば、人間外の生物の「愛」を語ることは、擬人化しているのではないかという非難があるかもしれない。先のツバメの例であっても「所詮、刺激と反応に基づく生得的な行動の連鎖である」といえないこともない。

しかし、アジサシ(Tern)に確認された例は興味深い。もともとこの海鳥は雄が雌に採った魚をプレゼントする求愛行動で知られているが、特定のカップルが毎年巣づくりする例が確認されている。さらにこのようなベテランカップルの雛は、出来立てカップルより生存率も高いという。つまり、この愛の絆は、生存競争上有利に機能しているわけだ。

また、雄アジサシは特定の雌アジサシを選びうることが重要だ。繁殖期の度ごとに同じパートナーを選ぶということは、固体の識別がなされていることを意味する。この点、愛の第一条件はクリアだろう。

なぜなら「博愛」という別物の愛を別にして、愛とは”特別な選択”だから。良くある男の失敗は、「君が一番好きだ」とくどくことである。多くの場合女性から「私だけではないの?」と切り返されるだろう。この例は「源氏物語」にもあるし、アニメ「うる星やつら」の主題歌にもある。

以上は動物行動学。以下、アイルランドに関したおまけ。

日本に棲む二種のアジサシ(ターン)=アジサシ(Sterna hirundo)とコアジサシ(Sterna albifrons)はアイルランドにも生息している。ただしアイルランドにはもう二種類いる。

今日のテレビで、コアジサシの保護活動を放映していたが、多くのみなさんがこの鳥のことに関心をもってくれることを私は望んでいる。

アジサシが主人公の美しい絵本もある。「リトル ターン ブルック・ニューマン作、五木寛之訳、リサ・ダークス絵 集英社」はお奨めだ。

ヒューマニズムと刑罰

最近、凶悪犯罪とその裁判について話題になることが多い。そこで、少しコメントしてみたい。

人はだれでも間違いを犯す。だから寛大であることも必要だ。罪を犯した人を正しい道に導くことが第一である。と、考えることはヒューマニズムである。

この観点からすれば、犯罪者の更生に配慮しようとすることが人道的に正しいといえるだろう。しかし、目線が上から下に向いていることに注目してみよう。ある意味、この発想は高慢である。助けて「あげる」わけだから。

哲学者E.カントの視点によればもう一つのヒューマニズムの形がある。彼にとってのヒューマニズムとは、自律した個人間の人格的尊重である。この観点にたてば、大人といえる対等な個人間で、あなたは間違っていますから強制的に教育してあげましょう、と考えること自体、相手の人格をおとしめることにほかならない。

刑罰論的にいえば、絶対応報主義である。罪には相応の報いを与えることが、相手の人格を尊重することになる。

かなり古い事件だが、残虐な殺人事件を犯した高校生の例がある。彼は医療少年院に送られ、「治療」を施されたうえ社会に出た。そして自殺した。今の世の中自殺が蔓延しているが、これほどマトモな自殺の例を私は知らない。

彼の自殺の理由は、このようなものだ。

「僕は大変悪いことをしてしまいましたが、まだ罰を与えられていません。その代わりに気が狂っているとされ、治療を受けました。僕はとても惨めな気持ちになりました。僕は自分のしたことの重大さを良く分かっています。誰も罰してくれませんから、自ら自分を罰します」

花と愛とイデアについて

花の季節になった。

今年の春は、アイルランドの野草を咲かせて楽しんでいる。アリッサム、ストック、デイジーなど園芸植物の原型を発見する楽しみもある。

自然にある野の花を人間の好みで改良した結果、園芸植物がある。

では、そもそもオリジナルな花、それが虫媒花なら誰がつくったのか。進化論が答えてくれる。それは虫たちだ。

人は花に「美しさ」を観る。虫たちが人間のように「美しさ」を感じているとは到底思えないが、そこに何かを感じてきたことは明らかだ。ともあれ地質学的時間を費やして、虫たちが選び続けた結果(審美的な自然淘汰?)、地球は花咲く惑星になった。

プラトンにとって「美しさ」とはイデアの筆頭であるが、どうやら生物種を超える普遍性があるらしい。この世の現象界の裏側に「何か」があるというプラトンの洞察は、このように進化論が補強している。

エリウゲナは、自然の階梯を記述し、段階を経てこの世に流出し続ける「至高な存在」を示唆した。これも、「この世」の裏側である。

そして現代哲学。A.N.ホワイトヘッドにおいては、プラトンのイデアに相当するものを「永遠的対象(永遠的客体)=eternal object」と呼んだ。それはプラトンのイデア界のようなはるかな高みにあるのではなく、いま、ここに「進入=ingression」しているものであるとされる。この視点、なかなかダイナミックである。

花についてもう一つ。

イラクのシャニダール遺跡はネアンデルタール人の墓であるが、埋葬時に沢山の花々が手向けられていたことが判明している。虫だって花に何かを感じていたのなら、いわば隣の人類=ネアンデルタール人なら当然のことだ。この死者は、愛され、惜しまれていたのである。

いま、ここの花は全くの固有物であるが、普遍的なイデアに感応することができれば、時間を超えた共感が波紋のように広がる。それは「善いこと」。これもイデアである。

花束をあげる人は、もらう人と同じく幸せである。普遍とは、結びつけるものだから。

A.N.ホワイトヘッドのこと

A.N.ホワイトヘッドは、私が長く関心を持っている哲学者。

元数学者、英語で書かれた最も難解な哲学書を残し、プラトンの正当な後継者でもある。

以前、大学の哲学科の学生たちと、晩年の著作「観念の冒険」の原書にチャレンジした思い出があるが、ものスゴイ重い手ごたえを感じた。

解説書もいろいろ読んだが、先週買った「ホワイトヘッドの哲学」中村昇著、講談社メチエはすぐれものだ。面白い!かつ原書の100倍のスピードで読める。この解説本の著者は、21世紀をA.N.ホワイトヘッドの世紀にしたいそうだが私も同感。

彼の哲学の効用は、生きた宇宙を感じさせてくれること。この世の森羅万象のとてつもない深みを知らせてくれることだ。つまり、生きることに退屈しない。

彼の「有機体の哲学」にとって、夕雲の茜色、ミツバチの羽音、雨上がりの土の香り・・・私たちが経験するもろもろの事象は、個人の主観的経験を超えたリアルな「できごと」なのである。

今日生まれた新生児が初めて感じた初々しい「この世」のように、大人も驚きと畏敬でもってこの世を体験できないのだろうか。

このビジョンは命の織物でもある。かつてケルト人の修道士たちが描いた万物が紡がれる文様といってもよいし、密教僧が描く「胎蔵界曼荼羅」といってもいい。

ホワイトヘッドはウェールズ系だったそうだ。ライバルであるB.ラッセルとの思想の違いを出自で説明することは実に乱暴であるが、このブログの趣旨からしてこの点、少しコメントしてみてもいいだろう。

王子の狐

王子に行った。東京都北区王子だ。

ここは江戸の名所飛鳥山の桜で有名、私的にいえば、王子といえば狐である。広重の絵のインパクトが強いから。

広重の錦絵、江戸名所百景に大晦日の狐火を題材にしたものがある。大晦日に、ある榎の樹の下に狐たちが集まるという伝承を扱ったものだ。ここが王子だ。

今は東京の街であるが、江戸時代の北区はかなり郊外である。この絵の中では、冬の広大な畑の中に冬枯れた樹が一本立ち、満天の星空が広がっている。この冬空のもと、沢山の狐たちが狐火を点して群れ集う・・・・。耽美で、かつ妖気が充満する絵だ。

広重はもちろん東海道五十三次の広重。 もちろんデフォルメはあるが、とりあえずこれらは現実の描写だ。しかし、この王子の絵はこのようになかなかブッ飛んでいる。

北区役所で「錦絵に見る北区」という冊子を買ったが、表紙は狐の嫁入り、1Pはこの絵である。北区は狐によほど縁のある土地らしい。いっそのこと妖狐をイメージキャラクターとしたらどうだろう。杉並区なんて、恐竜タイプの妖精だし。

萌えのこと

秋葉原を歩いた。萌えていた。

秋葉原とは、本来、秋葉権現の原っぱのこと。江戸時代に大規模火災が続発していたので、建物のない地域を作って、火災の延焼をくい止めるための原っぱが政策的に作られたのだ。秋葉権現とは、火災封じの神様である。

現代では、かつての燃えないための地域が萌えることになったというわけ。白黒コスチュームのメイドが名物になるなんて、未来のことはほんとに分からない。

十数年ほど前、東京・原宿に、1840年開店のアイルランド名門カフェ・ビューリーズのコピー店がオープンし、アイルランド愛好家の集いの場になっていた(今はもうない)。

店員の女の子たちが、ビューリーズの伝統あるコスチュームを着ていたことが印象的だったが、この由来はまさにモンモノ、かつ日本の元祖メイド喫茶だったと思う。別に「ご主人様」とは言われなかったが、アイリッシュ・コーヒーやギネスにこのコスチュームは似合うんだよね。どちらも白黒だし。このお店のアイリッシュ・コーヒーは絶品でした。

桜について

桜の季節になった。

私的には、種類が気になる。

日本の桜の筆頭、染井吉野は私の好みではない。山桜が好きだ。その次は鬱金桜。

山桜の渋い薄紅色の葉がなんとも好きである。水気をたっぷり含んだジューシーな葉がまさに花とともに萌え出でる。花を加えたこの繊細な色彩の取り合わせがなんともそそられるのだ。

日本の伝統に則して言っても、染井吉野はなんとも浅い。江戸時代にできたばかりの品種だから。日本の詩歌に詠われた桜とは、ほとんど山桜と言ってもよいだろう。古来詩人の霊感をそそってきた桜なのだ。

それに比べ染井吉野は花見の酔っ払いたちの桜と思う。花見の習慣が庶民に普及した江戸時代にぴったりだ。私の偏見によれば、吐寫物を肥やしにしているようなイメージがある。

また染井吉野は軍事的なイメージも強い。その究極は「桜花」。この兵器、分かる人なら分かるだろう。この「桜」は、散り際を売る染井吉野が必然だ。

梶井基次郎は、「桜の樹の下に屍体が埋まっている!」と書いたが、これは山桜がふさわしい。巨木になれば、それ位の凄みを持つものだ。なにしろ有史以前から日本に咲く桜である。老木も多い。

鬱金桜は、洋風のイメージが強い。染井吉野の底の浅い華々しさにくらべ、濃厚なゴージャスがある。新宿御苑の大きなそれは感動モノである。

萩尾望都の漫画で見たような記憶?があるが、洋館の庭に咲き誇るような光景が似合う。事実欧米で人気があるとも。少しレアな桜なので、発見する喜びもある。

私は見聞をレポートできないが、アイルランドにも桜が咲く。別に日本からの輸出ではない野生である。その名はまさに、wild cherry。小さな赤い実をつける。ただし、日本のように特別な意味が与えられている様子はない。

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