« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007年12月

年の暮れ

今年も残り少なくなりましたが、一年は早かったでしょうか?

同じ瞬間は二度とありませんが、一年が繰り返し循環していくという感覚は大きな節目になります。この節目によって、去年はどうだったとか、今年はどうなるとか、過去を振り返り、未来にプランを立てることができます。

一年という感覚がなくなったら、私たちは年齢すらわからなくなります。たぶんそうなったら、未来も失うでしょうね。経験の世界はずっと灰色の「今」だけ。

一年であれ、一月、一週、24時間であれ、そこにはしなければならない課題が発生します。面倒ですが、これがあるから「生きている意味」が発生するわけです。全く時間が自由な人は、何かを達成するという楽しみにおいて、多くを得られないでしょう。

子供のころ読んだ本の話です。これは子供の質問に答えるという趣旨の本でしたが、今なお、記憶しているものは、「人間はなぜ死ぬか?」というものでした。

その答えは、「人間は、寿命がないと何もしなくなるから」というものでした。やはり期限というものは大切です。夏休みが永遠でしたら、誰も宿題などやらないでしょう。

今年の予定の多くを成し遂げた人たちへ、ご苦労さまでした。更なる躍進を期待します。そうではなかった皆様へ、早く人生の元をとりましょう。

古代ギリシャの詩人は言いました。サッフォーだったかな?

「不死の生にあこがれてはならぬ。この世の可能性のすべてを汲み尽くせ!!!」

では、皆様によいお年を!

魂について

先ほどテレビで「幽体離脱」の実験を見た。具体的には、深い催眠状態にある人によって、別な部屋の光景をレポートできるか、ロウソクの灯の燃焼状態に影響を与えることができるか、というものだったもちろん、テレビで放映されるくらいであるから、それらしいことがあった(とされた)からである。

ところで、このブログは、アイルランド中世の哲学者エリウゲナの名前に由来し、先立つ古代の哲学者プラトンも話題にしてきた。

で、プラトンの著作の主題の一つも、ずばり魂である。ところが、先の魂とはとことん異なている。プラトンの著作の中で、魂がこの現実世界の空間のどこかに位置を占めるとか、物質的なものに影響を”直接”与えるといった発想は絶無なのだ。古代に行くほど常識がまかり通るのか?

そもそも魂はこの世のものではない、とプラトンは考えている。この前提があって、有名なイデア論の話につながるわけである。

プラトンにとって魂の故郷=イデア界とは、この世の全てを形づくる数学的ソフトそのものといったらよいだろうか。物理学者が数式でこの世のことを記述しようとするならば、全く正統なプラトンの弟子なのだ。プラトンなら、魂にイデアを想起させる作業というだろう。プラトンにとって魂とは、実にピュアで清明なものである。

忘れてはならないことだが、正しいことそのもの、美しいことそのもの、プラトンによればこれらもイデア界の住民である。かつてこれらの住民に出会ったことがある私たちの魂はその片鱗をどこかに留めているとされるが、これらは私たちが幸せと呼ぶものの源ではないだろうか。

もしそうならば、たぶん、隣の部屋のロウソクを揺らすことに魂を使うより、こっちの方を探索するために魂を使った方がいいと思う。

樹について

この季節、クリスマスツリーが目立ってきた。

しかし、クリスマスを過ぎれば街の光景は一転、お正月モードに突入する。洋から和へ、なんという無節操?とはいえ、クリスマスツリーは本来キリスト教とは直接関係がない。また、お正月の象徴の一つでもある門松が、そのまま神道の儀礼に即したものでもない。

そこに共通するものは、「樹」を神聖視する感覚だ。クリスマスにキリストの誕生を祝うことにも、新年に歳神を迎えることにも、樹が媒体になっている。人と樹との関わりはかくも深い。

聖から生へ、樹は私たちの生を投影する媒体にもなっている。たとえば、男性の名前に樹という文字を使うことが日本では普通に行われている。また人生の接目に樹を植えることもある。

近頃は樹木葬というものさえあるらしい。墓標の代わりに樹を使うというもので、ヨーロッパが始まりらしい。特定の宗教的ではない。しかしそこには、原初的な聖なる感覚がある。

簡単で、しかし奥の深い心理テストとして、「バウム・テスト」というものがある。課題は樹を描くということ。樹に人の心が投影されるという根拠に基づいている。創始者は、エミール・ユッカ-(Emil Jucker)、職業相談に従事していた人で、今でいえばキャリア・カウンセラーであるが、一方で行っていた神話の研究からこのテストの着想を得たという。

このテストは補助的な心理テストとして日本の心理臨床現場でもよく使われている。私の以前の職場で、重大な少年事件の当事者、つまり加害少年のバウム・テスト結果を知る機会を得たことがあるが、なるほど本人の心象世界そのままといってよいものだった。しかし、重要なことはどのように変化していくかということだ。樹は生きているのである。

社会復帰をめぐって相当な議論があったが、その後事件が再発した事実は報じられていない。今の彼ならどんな樹を描くだろうかと思う。

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »