山頭火と、存在と時間

山頭火お決まりの、ぼそっとした句の一つとして、「まっすぐな道でさみしい」。

なんだか、分かる、としても鋭い解釈もありそうだ。

「なるほど!」と、川上未映子のエッセイで知ったので書いておきたい。

そこで何が起きようが、だれが何をしようが、永続的に刻々と、冷徹に流れていく時間を「まっすぐな道」と考えればよいのだろう。

人の生は、後ろのどこかでなんとなく始まり、その死はその先にある。

ゴチャゴチャした日常にとらわれていると、そんな事実はかすんでしまうが、視界を超えるほど先のある道に出くわすと根源的なさびしさが沸き起こる。いつか自分はこの道を下りるが、道はでもずっとある。

M.ハイデッガーの存在と時間/Sein und Zeit この題名を思い出した。

幼児の経験世界 園庭とお散歩

あの事件、以後保育園の子どもたちのお散歩中の安全に関心が高まっている。

当然、その安全性についてである。より実効的な安全性の確保が必要であることは当然として、この場では、お散歩の意義について書いてみたい。

自身の例から述べると、子どもに決まった保育園が園庭なしであったことは、がっかりであったが、その分積極的に外に連れ出すと聞き、その配慮に安心はできた。

幼児が遊ぶ公園って、規模が全く問題がない。なので、天気が良ければ、大小さまざまな公園にツアー旅行のようなものである。

また、行きつくまでの過程も、この”世界”にすれていない子どもたちにとっては、心躍る新鮮な経験の場である。この経験は、担当者の適切な方向づけがあればさらに充実したものになる。

その裏付けといえば、メモがあるからである。できるだけ子どものエピソード(保育園からの連絡も含め)、子どもが語ることを記録してきたが、はっとする記録の多くのうち、保育園の外で体験したものの割合はかなり大きいと今更に納得した。

幼児の経験からの視点でいえば、遊具が充実していればよい、というわけでなく、つまり、そのような場所に交通量の多い交差点をいくつも超えていかなくても、雑草の茂る草地程度であっても、子どもにとっては神秘と驚異にみちたドラマの場でありうる。

トコトコとテントウムシさんが、子どもの小さな指先を駆け上がり、天道虫の名前そのままに、薄い飛翔用の羽をカッと開いて天空に飛び立つさまに歓声が応えるなら、子どもたちに貴重な子ども時代の体験を加えることになるだろう。

「つぐみの想像の中ではこの小さな漁師町は無限の世界であり、砂のひとつぶも神秘のかけらだった。」

吉本ばなな TUGUMI から

 

 

 

PTAと日本の社会、ボランティアの本当の意味

朝からメールが携帯電話に入る。その趣旨は、「明日、子どもにPTA会費を持たせるべし」。

もちろん、持たせる。が、支払を怠ったとしてもPTAから退会を強いられることはない。というか、任意団体という発想が欠落している。

新学年が始まると、子どもがPTA役務の申し込み用紙を持ってくる。通年のPTAの役職、これは6年間に一度が「義務」とされ、毎年就く必要がないものの、より軽微な役務として、子どもの農作業を手伝えとか、盆踊りを運営せよとか、その他学校間のイベントを手伝えとかである。

それらが、良いこととは理解している。つまり、しないより、した方が望ましいという意味で。しかし、人件費の予算、のような歯止めがない。

ここで、僕なりに信じる健康な見解を述べておきたい。

保護者が、子どもをきちんと学校に通わせ、狭義の勉強以外に、学校主体の運動会とか遠足とかにも保護者なりの関与をすることは義務である。

しかし、PTAがPTAの名のもとに行うオプション的な活動は、ボランティア活動である。

さて、、、ボランティアの意味なのだが、今の日本では、「タダ働き」の意味が前面にあるようだ。そこで、このサイトらしく語源を確認しよう。

その語源は、ラテン語のVolo~私は望む、である。つまり、自ら「それ、私やりますよ!」って気持ちが重要なのだ。

ところがPTAなどでは、極めて念入りに、全ての関係者に、有無を言わせず、できる限り均等に役務を割り振る仕組みが確立している。

これ自体、社会学の研究対象になりそうだが、それはさておき苦役の度合いが高まっていると思う。

PTA って、一見洋物だが、日本古来の村落共同体を基盤にしたものだろう。それは、等質な家庭の集まりを前提条件にしていた。また、戦後昭和の時期には、専業主婦の活躍も期待できた。

だからうまく動員できたのだが、共働きの家庭、一人親の家庭、日本的な暗黙の前提にうとい外国人の家庭なども昭和の時代に比べぐっと増えている。だからいつまでも昔ながらってわけにはいかない。

学校の教育現場も大変だ。いじめを根絶するために道徳教育、グローバル化だから英語教育、日本の伝統を見直す教育、地域とのつながりを深める活動、自然にもっと触れ合おう、、続々課題が増え、子どもたちのランドセルは重くなるばかり。PTAへの期待も大きくなる。

さてどうなるPTA。根本的な発想の転換が期待される。

おまけの話。以上に関連し、スマホの普及は、生活の利便性に貢献しているというより、より仕事を増やすことに活用されている。動員に便利だからね。

 

 

 

西浦田楽、田峯田楽の国立劇場公演

日経新聞に「西浦田楽1300年夜通し舞う」と記事、そういえばと思いついた。明日、田峯田楽も含め、国立劇場で公演がある(今回の公演には行けないけれど)。
このご時世、継承する人たちのご苦労をまず讃えたい。
田峯田楽については、昨年レポートしたが、西浦(にしうれ)の方は見たことがない。
こちらも松明の明りを伴う神事のようだが、この点は、演出で再現されるそうだ。
西浦田楽は、曲芸的身体芸としての所作が特徴のようだがどんな技なのだろう。
唄や調べにも興味がある。
そして春が来る。どちらにも、一年の豊穣祈願の意味合いがあるが、この時期に奉納される理由は、自然が春に向け動き出す始まりだからだ。
そのテーマは、春を先駆ける舞、なんてね。

書評1 子どもの読書 「ソフィーの世界」

就寝前のひとときに読ませているもの。北欧の10代の女の子が主人公で、日常の謎めいた出来事から、何と!西洋哲学史の全貌が語られていく。
この本は、相当なボリュームではある。でも、それなりに子どもを意識した語り口であり、食いつきは悪くない。なんとか、読破させてやりたく思っている。
今のうち、これだけの一貫したストーリーを読んでおくなら、本について恐いものなしにもなることだろう。
こっちも付き合いで、拾い読みしかしていなかった、B.ラッセルの「西洋哲学史」をもう少し真面目に読むことにした。「ソフィーの世界」に、エピソードとか、解説を付けるうえで役立つこともあるだろう。
余談だが、今日トイレで読んだ部分は、ローマ帝国の崩壊のあたり。これ、他人事ではないよ、まだ、アメリカの政府機関の多くの部分が停止したままだろう。アメリカ中心の秩序が、少しづつ崩壊に向きつつある。こんなときだから、しっかり考える習慣を鍛える。それは多分変化に適応するうえで有効だ。

子どもとの会話 論理階系をずらす

(久しぶりにシリーズ再会)
娘:おとーさん、超能力を一つ使えるようになるとしたら、どんな超能力がいい?
やれやれ、”斉木楠雄のΨ難”見すぎだよ
私:超能力を無効化する超能力!
娘:こわっ!
ところで、
新聞で読んだ。天才少年が人工知能の開発に関わる話だ。
人工知能が、天才が関わらなくてもより高度化していく傾向に変わりはない。
産業的利権が関わっているからだ。
”天才”と呼ばれる人たちは、これを加速するだけである。
単純にいえば、できなかったことを、できるようにしていく。より早く、できるようにしていく。
で、その先に、何があるか?
こういった月並みな”天才”、というのも変だが、もっと面白い天才が現れないかな?
人工知能・AIの効果を無効化する天才とか。
とてもイメージできないが、だから本当の天才なんだ。
PS:先の私の答えは、あとで考えてみたところ、藤崎竜の封神演義、老子のパオペエがネタ元だったかも。

A.E.ハウスマンの詩集 シュロップシャーの若者 から

秋が深まってきたので、しっとりと心に沁みる詩をご紹介したい。
...
From far,from eve and morning
And yon twelve-winded sky,
The stuff of life to knit me
Blew hither; here am I.
...
Now-for a breath I tarry
Nor yet disperse apart-
Take my hand quick and tell me,
What have you in your heart.
...
Speak now,and I will answer;
How shall I help you,say;
Ere to the wind's twelve quarters
I take my endless way.
...
私なりに解釈すれば、
wind's twelve quarters、/この十二方位の風とは神秘的だが、神様ではない。
一時も休まず変化を続ける宇宙の原理の描写だ。この風が万物を織りなしている。
東洋の思想として、一番近いものは、「造化」だろう。
そして、私たちの心ある出会いは、その中の一期一会である。
...
このような訳がある。
遥か彼方から、夕べの方、朝の方から
 十二方位の風ふきめぐらす彼方の空から、
私を織りなす生命のもとが、
 ここへ吹き寄せた、私は今、ここにある。
...
さあ-----一息の間、私はとどまる
 まだちりぢりにならずに----
疾く私の手をとり語りたまえ、
 君の心のうちを。
...
さあ話したまえ、私が答えよう、
 君の助けとなるように、さあ、
風の吹きめぐりゆく十二の方位へ
 果てしない道へ私が旅立たぬまに。
...
****************************************
小尾芙佐他訳
風の十二方位 早川書房刊
アーシュラ・ル・グインの小説集冒頭から

子育ての技法 その10 Sensory Awareness/センサリーアウェアネス

夜、帰宅途中で子どもを塾に迎える。そして、徒歩で帰る。
近頃、こんな遊びをせがむようになった。
「目を閉じて家まで帰るので、誘導してほしい。」
で、こちらの肩に手を載せたままで歩く。
子ども的には、今、どこを歩いているかを言い当てる遊びだったが、もう一ひねりしてみた。
Sensory Awareness/センサリーアウェアネスの技法的応用である。
そもそも、第一に体感することは、信頼感である。
それは、信頼をゆだねること、信頼を受け止めることだ。
そして、感覚が研ぎ澄まされるように誘導する。
一瞬頬をなでる風の形
雨音が、地面の状態でどのように異なるか
キャベツ畑の脇を通り過ぎるときの土のにおい
道路の微妙な高低の差と誘導サイン
視覚を制限するから感じられる、この世界の姿がある。
今改めて感じ直すリアル。

ラテン語の世界 その40 愛の形、AmorとCaritas

どちらも「愛」と訳され得るけれど、amorは色っぽい要素も含む。情事という訳もある。一方、caritasは、慈愛と解するするべき。
宗教的表現では、隣人愛となる。これらの語の形は、現代語にも受け継がれている。
イタリア語の、amoreとcarità。これは、意味的にもよく継承されている。
スペイン語の、amorとcaridad。
フランス語の、amour。
英語の、charityなど。
ついでに、長い余談。
caritasは、日本の私立学校の名前にもなっている。
見学する機会があったので、気が付いたことを述べておこう。
入口のシンボルツリーは、立派な桂(かつら)であった。
なぜ?と見ていたら学校の人が教えてくれた。
葉の形が、ハートだから。なるほど、分かりやすい!
ハートは、Forma Caritatis=愛の形だ。
理科エリアには、大きな水槽があって、近くの多摩川の生き物たちがいる。
鉢植の植物も元気であった。慈愛があるね。
図書館の蔵書は、フランス語関連が充実している。
これもよし。けど、ラテン語関連は見当たらなかった。
校名がラテン語なのに、これはちょっと残念。
このブログ的には、
”ラテン語で、始めてみようグローバル”。

女性学長と被篭絡公務員

あの!東京医科大に初の女性学長が就任した。林由起子先生おめでとうございます。
社会的、文化的にも健康なバランスを保って、立派なお仕事ができますように願っています。
一方で、あの!篭絡された政府高官のみなさんだが、”篭絡”されるなんて、公務員として最大の恥辱であるのに切腹はしていないらしい。
”切腹”なんて大げさな表現かもしれないが、幕末に訪れたあるヨーロッパ人が驚いたそうだ。
「この国の役人は、賄賂を受け取るなど切腹に値すると本気で考えているらしい(当時の中国とは似て非なる国として)」、とか。
ところで医学部への女性合格者抑制措置の根拠は、医師としての女性は出産、育児とかあるので使い勝手が悪い、ことにあった。
男の方が使い勝手がよい?のか。というより入学の段階から使い勝手か!医師といえば、最高位の資格の一つだが、入学の段階で労働者としての選別が行われていたわけだ。
男社会は、それほど効率がよいのだろうか?一見効率的のようでも社会総体ではマイナス面が大きいように思う。
厚労省の事例は、をぢさん特有のねちっこい接待文化である。
篭絡とは、最悪の結果であるが、事実上酒席が仕事の裏側として機能し、正当な手続を踏まないやり取りの場になっている。
ほんとに、いるんだよね。酒席が本業以上に重要だと信じているをぢさんが。
仕事が終わったら、とっとと家に帰って、家族に尽くしたらどうか。最近の事例にあったように、大学に圧力をかけて子どもを入学させるより、正当に入学できるように教育すればいい。
そもそも、「仕事が終わっても、まだをぢさん仲間の顔を見ていたい。夜中の2次回までずっと一緒に遊びたい」なんてどういった美意識なのだろう。
もちろん、性的少数派なら特段の考慮をするけれど。
余談、おじさん→をぢさん とした理由は、特有のキモさの表現としてである。
2018.10.03 追記
厚労省といえば、、あの、村木厚子さんが、本を出した。
「日本型組織の病を考える」。
こういった動きを歓迎したい。

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