日大学を始めよう その3 体育会系とは (まだ途中まで)

おそらく日本独自の暗黙の制度だと思う。私立大学では、一般の学生とは別個に体育会系の学生の枠がある。

あたかも非公式の経済学部体育学科、文学部体育学科といった具合に、通常の仕方の単位取得が軽減されるかわりに、特定のスポーツ分野に専念することが推奨されている学生枠である。

元より大学の卒業には、体育の単位が必須で(多分今も)ある。これは、いわゆるリベラルアーツの伝統だろうが、そのため通信制の大学生でもスクーリングとして大学を訪れる必要がある。

学生によって、この体育が特段に比重を持っているわけだ。その背景には日本的な文化の背景もあるのだろう。それは、体育会系の社会学としてテーマ性すらあると思う。体育会系であることのメリットは、就職上有利とされていた経緯もあろう。

 

 

ラテン語の世界 その51 パトリシアさんとパトリック君、そして貴族とは何か

パトリシアさんとパトリック君、割とよく聞くヨーロッパ系の名前と思う。僕自身、アイルランドのホームステイ先で、日本名は、呼びにくいのでパディじゃだめ? とか、尋ねられたことがある。とりあえずパディ、すなわちパトリックの愛称としておくのは、アイルランドの流儀らしい。

パトリックといえば、アイルランドの守護聖人なので、ありがたいといえばありがたいが、あまりに普通なのである。そこらにどっといる。

とはいえ、ラテン語的には、軽い名前ではない。貴族という意味なのだから。patricius/パトリキウス=貴族であり、女性ならpatrocia/パトリキアが本来の語源である。

英語の派生語として、patriot=愛国者があり、ウクライナではこの名前の防空システムがどっと押し寄せるロシアのミサイルを迎え撃っている。そこで疑問なのだが、どうして貴族が愛国者なのか?

NHKの”光る君へ”はまさに平安貴族の社会描写だが、戦う愛国者のイメージからずいぶん遠いように感じる。

たぶんこれは、藤原鎌足のせいなのだろう。つまり、彼が成し遂げた大化の改新のおかげで、貴族と呼ばれる人たちはその後は直接の力技なく、ずいぶん長く謀略と権威で地位を継続できたのだと僕は解釈している。

この点、古代ローマ時代の貴族は、軍事の中核として働き、帝国の存続を支えてきた階級なのである。だから敬意を持たれる地位が裏付けられるといえよう。この伝統は、例えばイギリスの貴族の子弟たちが率先して第一次大戦、第二次大戦に出向いた様子に関連している。特段の名誉ある地位のない庶民なら、徴兵として受動的に参戦する形となる。

こうしてパトリシアさんとパトリック君の由来は、日本型の貴族の特異性を明らかにしてくれるわけだ。

ところで、2月、この時期中学受験が盛り上がっている。この中高一貫校とは、特に学生寮を主体とすらならイギリスとかの貴族系の子弟の通うパブリックスクールをモデルとしているはずだ。

ならば、日本のパトリシアさんとパトリック君は、国家への貢献も問われるはずだけどどうなのだろう。幹部自衛官をめざせとは言わないが、恵まれた地位には、相応の社会的責任を、庶民以上に果たす役割があるはず。けれども、現状は自己実現とか個性の発揮とか、関心は自分自身に向けれているように感じる。

ローマ帝国の衰退期は、外国人傭兵頼みの軍事が当然のようになっていた。つまり、面倒でつらそうなことは外国人に任せる風潮である。これは今の日本の状況と重なる。

 

 

 

桐島容疑者と中二病

当時の彼らの主張を、私なりに再現するとこんな具合だ。

日本は悪の体制(=資本主義、ないしは国家独占資本主義)そのものだ、それを支えているものは巨大資本である。この巨悪に戦う組織これこそが東アジア反日武装戦線であり、その下部組織として狼、大地の牙、さそりがある(桐島容疑者はさそり所属の戦闘員)。この悪の体制を打倒し、日本の人民を、ひいては世界を解放するため、我々は武力闘争を決行する。この狼煙を見た人民よ立ち上がれ!ともに世界革命を実現しよう、、、とか何とか。

約50年後の醒めた目で見るために、この件を現代の中学生に尋ねてみたところ、悪性の中二病との診断をえることができた。また下部組織の名称がそもそもダサいし互いに関連性もないとの印象であった。ただの中二病なら、いつかは治るだろう。まあ今は好きにやらせておけばいい、わけだが、その結果が連続爆弾テロであった。大人の中二病は恐ろしい。

とはいえ、現実と遊離した集団妄想に全くはまり込んでいたというわけでもなく、差別され抑圧された社会的マイノリティが解放されるべきといった価値観持っていたわけで、この価値観はいまもこの社会の中に引き継がれている。実際のところ、当時に比べこの少数派の立場は改善されてきた、そのように努力されてきたことは確かだ。ただし、当時の彼らは、性的マイノリティを考慮してはいない。

先立つ連合赤軍の一連の事件に続き、社会への扇動が目的の派手な事件であった。結果、標的となった上場企業が上場廃止となったわけでもなく、解散したわけでもなく、無関係な通行人が巻き添えで死傷するなどしている。改めて当時の状況を確認しようと、書棚にあった「新左翼二十年史」など開いてみたが、その掲載写真では、路上に倒れている人たちが痛々しい限りである。中二病なら勝手に自己愛自己満足して済むことなのだが、この中二病は、組織的な爆弾製造から始まる悪質さがある。このごっこ的組織性の危険さは、まったく思想はことなるものの、後のオーム真理教事件にも当てはまると思う。

ところで、この件の新聞記事を見てみると、その横にあったのは、京アニ事件の記事であった。同じくテロ関連の記事とはいえ、こちらはより現代的かも知れない。

宗教学のフィールドワーク その9 正直不動産と地霊

悪徳不動産営業担当の長瀬財地が売地の祠を破壊し、そのたたり?悪行を止めることがたたりかは知らないが、嘘がつけなくなったことがこの漫画の基本設定である。

みなさんはこういった祠に気づいたことがあるだろうか。気にすれば結構あるものだ。それは、土地の精霊に、つまり地霊に、土地の利用者が敬意を示した証である。

長瀬財地はこれを販売にマイナスな気味の悪いものとして破壊したわけだが、伝統的な感性をもった者なら、むしろこれを歓迎する購入者でありうるだろう。なんたって、土地の利用者の守り神みたいなものだから。

また、そういった呪術的な視点ではない売り込み方もある。つまり、古い祠は、その土地に長い人の生活があった証でもある。長い、歴史的な居住地ということは、それだけその土地が安定した安全な土地であったということだ。これは、重要なセールスポイントだろう。

当然いい加減な宅地造成地ではなく、これまで土砂に埋もれるとか、洪水に流されるとか免れてきた土地として、僕ならお勧めする。

ラテン語の世界 その50 中二病とラテン語

「ハイパーサンダードラゴニスってカッコよかね?」と聞かれたのでラテン語に翻訳を提案する。

”ドラゴニス”自体ラテン語の名詞変化っぽい。

まず英語的に記述してみると、hyper thunder doragonis かな。そもそも、意味的には、竜の超絶雷撃としてみよう。

ネット上のゲームでドラゴンを召喚し、雷技を使うような場面を想定しているのだろうね。

ラテン語で竜は、doraco. これが辞書の見出し語だ。先の意味では、”竜”なのでラテン語の名詞変化では、doraconis(ドラコーニス),となる。この変化形を属格という。雷撃はちょっとわからないので、雷として→fulmen(フルメン)。これは中性名詞であると辞書で分かった。

名詞の性別は、名詞につく形容詞の形を決定するので情報として必要なのである。

hyper は、superと置き換えてみる。意味はたいして変わらないから。super に近いラテン語を探してみるとそのままの綴りであった。ただし、読みはスペール。

この形容詞、中性名詞fulmenを修飾するためには、superum(スペールム)となる。

というわけで、fulmen superum doraconis(フルメン スペールム ドラコーニス) となった。まさに召喚呪文のようだ。





 

 

 

 

宗教学のフィールドワーク その8 初詣とキリスト教

まさか、これほどまでとは、、これは川崎大師に(初の)初詣に出かけた感想である。驚いたのはその門前街も含めた規模、出店の数だ。

大師=空海→日本の正当な密教の祖、日本の宗教学の基礎知識といえる。密教といえば、手の込んだ特別な儀式のイメージがあるが、一般人からすれば願をじゃんじゃん叶えましょうっといった面もある。家内安泰、交通安全、商売繁盛などなど。寺院の中には、写経や写仏など一般向け修行のコースもあったが、とりあえずお賽銭でお参りだ。密教はそんな俗な面を包み込む寛大さを併せ持っている。

その膨大な売り買い、乱れ飛ぶ賽銭をイメージすれば、上空に札束が渦を巻いているようだ。

境内までの長い長い道のりのなかで、鮮烈な対照を見せる宗教活動も見ることが出来た。

悔い改めよ、神の国近い

人は死後裁きに会う

と、拡声器や手持ちの看板で、列になった参詣客を教え諭すキリスト教の団体、おそらくプロテスタントの一派も目にすることができた。

現世と来世関心の比重の違いが印象に残った。

 

宗教学フィールドワーク その7 しめ縄作り

町内会の恒例イベントとして、成行き的にしめ縄を作りに参加してみることになった。

この経緯はいかにも日本的なのでご報告したい。

この町内に神社がある。というか神社があるから町内会があると言った方が適切かも知れない。

神社があって、町内の関連施設もそこに付設して、ここが町内活動の拠点となっている。お祭りがあったり、その他子ども会のイベントやら役職の割り振りの会合とか要は公民会って呼ばれる施設だ。

宗教と自治活動の境目があいまいだし、そもそも町内会に加入するうえで、自律的な加入意思がいちいち問われない。そういうものだとあっさり決めれれている。そのうえ、神社の祭礼への参加も当たり前に期待されている。

そこそこ都会なのだが、日本の伝統的地域感覚ってこんなものだろう。町内会の規則について「神道教徒であること」なんて条文はないが、事実上町内会は神道教徒の組織になっている。神道教徒というのも異様な日本語だが、理屈上そのように表現されるはずだ。多くの日本人は、海外で、英語で貴方の宗教は、と聞かれたらとりあえずシントーイスト兼ブッディスト?となろう。あえてこのように自己表現する機会があって、信仰?を自己認識したりするものだ。

ところで、しめ縄作り。これ鳥居の下にドンとぶら下げるものでそこそこでかい。どうやって作るかといえば、わら縄を用意して、9本に分ける。3本をそれぞれ一つに編んでゆき、この太くなった3本を仕上げの1本に編み込むというものだった。このプロセスは、古老の指導のもと9人のおじさんが必要なのであった。

その共同して編む作法は、理屈では表現しにくい体感的なもので、わかったときにには終わってしまった。来年機会があっても、再学習となろうだろう。神道の、賽銭を入れた後の作法は身についているつもりだが、それ以上はなかなか難関であった。

 

 

アニミズムについて その2 手袋の落物

人の手は、左右同じで同じではない。自分の手をぴったり合掌して合わせることが出来ても、同じ方向でぴったり上下に重ねることはできない。

だから、手袋もそうなっている。対の手袋は、とても強いきづなの相棒どうしってところか。

冬がきた。手袋を使う機会が増えたけれど、その分、町の路上で片方だけ落ちてる様子は冬の風物詩のようだ。

これを見て落ちてる方もかわいそう、残った方も役立たずとされてしまいそうでかわいそう、、、と考えるのはそこに心性を投影するアニミズム的感性だ。

この題材で、誰か童話の題材にしてくれないかな。対の手袋の離別と再会のストーリーとして。

そして、靴も同じようなもの。

さねよしいさ子の「ペクレナトルホポワ」には、こんな歌詞がある。

”表に出ると足が軽い、僕のレフトシューとライトシューがどちらが早いか競争してる”。

そりゃ、走るときは交互に足が前に出ているわけだが、こんなありきたりの動作を靴の競争と感じた彼女の言語感覚には恐れ入る。

ここにあるのは見事なアニミズムの感性だ。

日大学を始めよう その2 アメフト部の廃部と希望の芽

最初に総括すると、”漠然とした世間を目を過度に忖度し、学問の府たる大学の独立性を大学自ら放棄した失態である。”

個人的な感覚として、大学の特段の庇護があった運動部を庇う気持ちはない。けど、このスポーツをしたい、続けたい学生がいるのなら、非公認サークルとして始めればいい。ぼくは、これを、これがあるなら応援したい。

幸い、広大な使用のあてのなくなった練習場があるはずだ、これを有志で、有料でもいいから大学から借用すればいいのだ。

フェニックス、つまり日大アメフト部の別名のことだが、いまさらになって意味がある。文字どおり不死鳥になればいいのだ。

大学の学生が、ただの教育サービスの消費者ではなく、大学の主体の一部であるなら、その気概を見たいものだ。

日大学を始めよう その1 アメフト部を廃部にしてはいけない

日大学とは、日大、すなわち日本大学を研究する学問である。ご存じない?仕方ありません、今ここに始まったのだから。

数ある大学の中でなぜ日大かといえば、今の日本を理解する糸口がいろいろありそうだからである。その名のとおり日本の大学の代表のようなものだから歴史、規模、偏りのない学部構成によって日大を選ぶことが当然だ。

では、まず日大学の手始めに、なぜアメフト部を廃部にしてはいけないかを述べたい。

そこで地味すぎて恐縮だけれど、原理・原則から確認してみたい。

原理・原則、、
大学とは学問の場である。具体的には、シラバスに従って講義を聴いたり、実験したり、実技したり、ゼミで議論し合ったり、卒論を書くなどして単位を取り学位を授与される場なのだ。

で、オプション的に部活・サークル活動があり、これは学業に必須のものではない。しかし、大学側からの、特段の肝いりによって至れり尽くせりの設備を提供したり、集団の寝起きの場まで用意されることもある。あまっさえ単位の取得も形骸化させ、部活動にいそしむよう非公然に計画されることさえある。これは私立大学によくみられる状況だが、大学の道に外れた状況だ。

部活動は大学運営の本筋ではない。この点外国の大学では、学業を疎かにせぬよう一定の歯止めがあると聞いたことがある。たとえば、それなりの成績がなければ対外試合に出場させないといった具合だ。

もう一つ、原理・原則を確認しよう。

犯罪に該当することをした者は、処罰の対象となりうる。原則その対象は個人ごとなので、大学生がやらかした犯罪は、その学生個人が処罰されたり非難され、ことの解決が図られる。大学も近代市民社会の一領域ならそのはずでしょ?

薬物犯罪の場合、大学ぐるみで非難されるとしたら、違法な植物の栽培や薬物の化学的精製の場を安易に提供する背景があるならそうだろう。日大には、化学に関わる実験施設もあり、農場もある。しかし、今回は一部の学生が勝手にしでかしたことであり、その学生が加入した部活動と関連づけることは難しい。また、本来は、学生の本分として、部活先より所属の学部の方が、より正規の学内所属先とみなされるべきでもある。学部より部活が重きをなしてはならない。

また今どきの大学なら、違法薬物禁止のポスターくらいそこかしこに貼ってあるはずだ。大学生なら大人扱いが当然なので、いちいち校長先生の訓示のような教育まで必要とされるべきではなかろう。それでも薬物問題をやらかすのなら当該学生の問題である。

以上のように整理してみると、特定の部活を廃止するか否かといったこの騒動は、いわゆる全体責任論前提にしているので、個人主義でなりたっている現法制度、市民社会の前提とは相いれないものと考えられる。林理事長は、日大の現状に「強固なムラ社会」という言葉を使っているが、むしろ日本の社会がそういった風土なのだろう。いやむしろ、こう言って欲しかった。”うちの学生を刑事被告人とするなら大学の権限外として仕方ないが、大学の組織自体に介入するのなら大学の自治をもって拒否したい”と。

この問題をさらに深く考察するのなら、大学の運動部の特異性と考えているので、これを次回に続けてみたい。

 

 

 

 

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