2009年6月18日 (木)

アイルランドの百合

初めてアイルランドに言った時のこと、遅く到着した宿の玄関には真っ白な百合が生けてあった。長旅を終えて初めての外国の一夜を出迎えてくれたのは、圧倒的な芳香を放つこの百合の花々だった。

エキゾチック?いえ僕にとっては全然。しかしアイルランド人ならそうだろう。なぜならこの百合の品種は、カサブランカ、すなわち日本の百合を交配して作られたものだったから。もともとアイルランドには、日本でいうところの百合に該当するような植物は自生していない。この芳香は紛れもなく、ヤマユリ、僕が昔からなじんだものだった。つまり、西の果ての国で、もっとも懐かしいものに出会うことができたわけだ。おそらく、においとか香りは、五感の中でも一番過去に結びついているものだと思う。

こんなことを書くのも、仕事で訪問した老人ホームで、カサブランカの花に出合ったからである。今日の依頼人は、90歳を過ぎたご婦人であったが、玄関の百合の花に気づいていただろうか。この人は、慣れないホーム暮らしで、自室に引きこもりがちだった人。僕が仕事を終えたら、「やっとこの付近を見て歩きたい気持ちになりました」と行ってくれた。もしそうなら、もうすぐこの花の香りを楽しんでくれるに違いない。

アイルランドと百合について余談を一つ。アイルランドはカトリック色の強い国だ。聖母マリアが出現した村さえある(バチカンの認定済み)。聖母マリアは、白百合のイメージと結びついているので、おそらく百合はグレードの高い植物だと思う。

多くのアイルランド人は、日本にも飢饉があったというと大いに驚くが、飢饉の時には百合の球根食べてましたといえば、仰天するかも知れない。ただし、相当ばちあたりなイメージではある。このことは日本人さえ忘れているが、その名残は今もある。たとえば、古い田んぼの脇には、オニユリが咲いていることがある。つまり、代用食の残りなのだろう。ヒガンバナ、英語でいえばスパイダーリリーだが、これはオニユリよりずっと多い。こっちの方が飢饉の代用食として有名だが、本当に使えたのか、疑問視する説もある。トライしてみた人の話では、とても食えたものではないそうだ。だからこんなに残っているのか・・・

2009年6月 5日 (金)

足利事件と裁判員制度

当然ながら、冤罪とは深刻な問題である。真犯人は野放し、無実の人が刑を受ける。そして、無実を訴え続けると、量刑では圧倒的な不利、そして仮釈放の機会も失う。このケースの場合、一生刑務所で過ごすことになっただろう。

ところで、始まったばかりの裁判員制度であるが、おそらく厳罰に傾く傾向が明らかになると思う。このケースの場合、初犯であっても反省がないとされ、有期刑のはずが無期刑になったと考えられる。もし、これから裁判員制度だったら、死刑判決の可能性もあるだろう。そうしたら、無罪を訴える当事者自体がいなくなり、判決が見直される機会はさらに少なくなる。

DNA鑑定をはじめ”最新の科学”は、信頼に足るものだと理解されやすいものだ。ただし、どんな時代にも”最新の科学”はある。

2009年5月29日 (金)

電車の中でデカルト

電車に乗ったら、前の席の大学生がデカルトの方法序説を読んでいた。

透明なかばんの中には簿記検定の本も見えた。教養と実務、なんてバランスがとれているのだろうと関心した。

僕も学生時代に方法序説を読んだ。今でも印象に残っているところがある。簡略にざっくり言えば、こうなる。

人間は頭の良し悪しはあるけれど、理性(ポンサンス)はだれにでもある。これを元に、きちんと方向づけて自分なりの思考を積み重ねていくことが大切だ。なまじっか頭が良くても、間違った方向に突っ走るよりずっといい。

いわば、普遍的な良識をデカルトは述べているのだ。こういった思考のベースライン(教養)を学び、自分なりに消化することが大学生の仕事の半分だと思う。反対に、既成の思考プログラムを丸ごとパッケージにして人の頭に入れようとするのが新興宗教の方法。

もう古い話かも知れないが、オーム真理教事件とは、頭がよくても教養の足らない人たちの犯した事件だったと考えている。ところが今の大学教育は、脱教養に傾きつつあるようだ。地味な教養分野より、実務直結の勉強を重視し、すぐに使える人材を育成した方が大学の経営にもよいとか?なんだか、危ういなあ。そういえば、昨日のこと。オーム真理教がライバル視した某宗教団体が、政治団体を名乗って駅前でチラシを配っていた。「20世紀少年」は21世紀でもアリ?

2009年4月24日 (金)

アイルランドに亜麻の花の咲くころ

うちのシャムロックが花盛りだ。亜麻(リネン・フラックス)も咲いている。

アイルランドの象徴としてのシャムロックは宗教的な意味そのものである。ただ、花はほとんど問題とされない。その三つ葉がキリスト教のオーソドックスな教義=三位一体を表現した聖なるものとして重要なのだ。

この点リネンは、もっと実際的。アイルランドの地場産業として、リネンの生産があるから。そういえば、去年のアイルランドからのクリスマスプレゼントはアイリッシュ・リネンのテーブルクロスだった。

リネン(Linen)つまり亜麻は、「亜麻色の髪の乙女」といった表現がなされるが、それは繊維としての亜麻であり、亜麻の花は薄青色が主である。アイルランドでは7月ころ咲く。アイルランドの彩りは緑に限るべきではないと思う。リネンの青もその一つに挙げたい。

繊維としてのリネンと花としてのリネンは別物だ。かつて、アイルランド中央部、ミース県で一面花盛りの亜麻畑を見た。このころのアイルランドといえば、白夜に近い。昼でもない夜でもない長い長い黄昏時の時間がある。この妖しい時間帯に、薄青色のリネンの花が地上にたなびく霞のように広がって、天と地の境目も茫々としていた。

夜と昼の境目は、この世とあの世の境目とイメージされるもののようだ。日本で魔性のものに出会う時間とされるように、ある伝承によれば、アイルランドでも妖精に出会う時間とされている。このとき、妖精に出会った記憶はないが、束の間の妖精の贈り物を目にすることができた。黄昏時のリネン畑を見るだけでも、十分に妖精の賜物だと思う。

2009年4月15日 (水)

アイリッシュダンスとタップダンスについて

先の記事に書いた僕のダンス仲間とは、実はタップダンスを学んだ仲間である。今日はアイリッシュダンスとタップダンスの違いについて書いてみよう。

タップとは、そもそもコツコツ音を立てるという意味だ。結局のところ、タップダンスとは、金属のチップのついたタップシューズで踊るダンスのこと、としか定義のしようがない。このため極めて自由度の高いダンスの様式といえる。普通はジャズが多いにせよ、どんな音楽にも乗せられるし、達人ならばたとえ音楽なしでもいける。

このように自由度が広いため、流派によってその内容は相当に異なっている。A先生のところで学んだ人が、B先生のグループの中ですんなり踊れる保障はない。先の記事では、アイリッシュダンスの普遍性について書いたが、この意味でタップは実際に踊るという場面での普遍性はない。

僕は、発表会ステージに出るために特定の振り付けを学ぶ必要があったが、これは師匠のオリジナルか、師匠の属する団体内部で共有しているものだろう。その分、タップダンス関係者が一同に集う大きなイベントでは、まさに百花繚乱の趣で楽しむことができる。

一方、アイリッシュダンスの様式の多くは、まさにコツコツとタップする打撃系ダンスだ。金属チップは使わないにせよ、この意味でタップするダンスなのだが、革製のソフトシューズを使う様式もある。

決定的な違いは、まず音楽ありき、ということ。アイルランド音楽のリズムの基本形、すなわちリール、ジグ、スライド、ホーンパイプなどの違いが聞き分けられなければ話にならない。そして、これを身体にシンクロさせること、これがアイリッシュダンスの第一歩となる。反対に、ダンスを想定しないアイリッシュ音楽というものは、本来ありえない。アイルランド音楽において、唯一の例外は、歌唱を目的としたエアーと呼ばれる形式である。

最近、アイルランド音楽を楽しむ人が多くなっていることは、喜ばしいと思う。ただ、残念なことは、少しでもダンスを学んでくれたらなぁということ。ほんのちょっとステップが踏めるだけでいい。それだけで魅力倍増だと思う。そもそも、ボディに反応させることを主眼に進化してきた音楽なのだから。

2009年4月14日 (火)

アイリッシュダンスのこと

最近昔のダンス仲間に会う機会があったので、今日の話題はダンス。

数年前のこと、アイルランド西南地方の海辺のパブでセットダンス・ケイリーに参加する機会があった。セットダンス・ケイリーとは、音楽を主体としたイベント(ケイリー)で、セットダンス(アイルランド式の社交ダンス)を楽しむ集いのこと。

適当に自由参加、ミュージシャンでもダンサーでも、単なる観客でもいい。これがアイルランド式である。セットダンスでは、ペアになった男女4組で踊ることになるが、厳格に動き方の様式が決まっている。この動き方は、○○セットと呼ばれるものがたくさんあり、メジャーなものや地域特有のマイナーなものまでさまざまである。ダンスに個性があるとすれば、あくまで足技にある。一定の基本に則しながら、さらに上級の技を披露してもかまわない。このアイリッシュダンス特有の激しいビートをバタリングという。バタリングまでできるようになれば、アイリッシュダンスを本当に堪能できるといえるが、僕はその域まで達していない。

僕はこのときまで、海外でアイリッシュダンスを踊ったことはなかったが、よく知ったダンスセット(この時はプレーンセット)に参加できたこともあり、あっさりと参加できたことに我ながら驚いた。日本で学んだとおりに踊ればよかったからだ。

このとき僕のパートナーをしてくれたのはドイツ人の女の子だった。「へぇー、どこで習ったの?」と彼女はいうが、それはお互い様だろう。アイルランドではどっちもガイジンである。

アイリッシュダンスは、もともとコテコテの民族系、伝統系のダンスである。でも、ものすごく普遍的でもある。アイリッシュダンスの基本書を空港で売っているくらいだ。また、これだけできれば何とかなるという敷居も低い。ヨーロッパの端っこの国の、端っこの半島の先っちょでたまたま会ったガイジンどうしで、いきなり踊れてしまうものなのだ。

2009年4月10日 (金)

法律のファンダメンタルについて (ヨハネス ドゥンス スコトゥスのこと)

最近、裁判員制度についてこのブログの記事を書いているので、同じく法律の関連でヨーロッパ中世哲学についてすこし書いてみよう。

刑事訴訟法の渥美東洋という著名な法学者がいる。僕は、彼の講義に一度だけ出席したことがある。まさか、いつもこうだとは思わないが、近代的自我の話、デカルトに始まって刑事訴訟法につなげるくだりは圧巻であった。まさに、哲学とは基礎学なのだ。

非常にマクロな視点であるが、近代的自我なくして現代の法体系は成り立たない。教科書的には、デカルトに話が始まるが、中世の末期、その基盤を考えた哲学者がいる。それが、ヨハネス ドゥンス スコトゥス(Johanes Duns Scotus)である。

この意味で彼は中世を終わらせる幕引き役の一人であった。余談であるが、このブログの表題にあるエリウゲナ(Johanes Scotus Eriugena)は、中世の幕開けをもたらした哲学者の一人である。つまり、ヨーロッパの中世の始まりと終わりに、二人のヨハネスがいて、一人はアイルランド人(エリウゲナ)であり、もう一人はスコットランド人(ドゥンス スコトゥス)だ。

エリウゲナについてはまたの機会にお話してみたい。で、ドゥンス スコトゥスなのだが、この人が自由意志(意思)について精緻な理論を展開した。これは、人類史上画期的なことだった。つきつめれば良くも悪くも、人間は自由な意志で行動できるということ。現代の私たちにはあたりまえのように感じるだろう。しかし、それはそれだけ根深く知らない間に、私たちが過去の歴史を受けついでいるからだと思う。

故意とか過失、錯誤など基礎的な法律の概念は、すべてここから発生してくる。個人主義や自己責任の源なのだから。

もしあなたが、裁判員になって殺傷事件を担当することになったら、殺意の有無が重大なポイントになるはず。また、被告人の精神状態(責任能力)が問題にあることもあるだろう。ドゥンス スコトゥスが700百年前に考えたことを、改めて私たちが日本の法廷で取り上げられることになるのである。

今日はこれまで。

最近、硬いネタが続いたので、次回は柔らかくいこう。ダンスの話とか。

2009年4月 6日 (月)

裁判員制度と量刑問題

前回、裁判員制度について書いたが、さらにもう一つ。

裁判員制度は、アメリカの陪審員制度「みたいなもの」だ。しかし、根本的に違うことは、無罪か有罪かだけではなく量刑の判断も行うことにある。つまり、「この人有罪!」アメリカだったらこれで済むが、日本の裁判員は、刑の重さも判断しなければならない。殺人罪なら、懲役5年から無期、死刑までさてどれにするか、となる。このように日本の刑法は実に融通がきく。

実際は、どれにするか、なんて定食のコースを選ぶようにいくわけがない。よくテレビの報道を見て、「こんな悪いヤツは死刑だ!」と憤慨している人がいるが、裁判員は直接本人に会い、質問もできる。相手は目の前にいるのだ。評議のうえ決めることにせよ、自分の判断如何で人を殺すこともできる。この判断を軽く済ますことができるとすれば、凶悪犯罪者の感覚と大差ないだろう。

有罪、無罪の問題だけなら、ある程度感覚で対処できる。「これだけの証拠があれば黒だろう」と判断すればいい。ところが、量刑となるとその人の「哲学」が如実に出る、と思う。そもそも刑罰の意味とは何か、と考えざるを得ない。刑罰とは、悪を断罪する正義の実現か、犯罪者に更生の機会を与える教育なのか、犯罪者を隔離し社会を防衛することなのか、裁判員となるまで考えたこともなかった人が大半だろう。マスコミ報道で知るよりも、生のおぞましい犯罪記録を知ることにより、厳罰傾向が高まるとは思う。百聞は一見にしかず、というが本当の現場を知るインパクトは大きい。一方、被告人の生い立ち、犯罪に到る経緯を知ることにより、むしろ被告人に同情する例もありうるはずだ。

2009年4月 2日 (木)

裁判員制度とプラトン主義

裁判員制度の実施が近づいているので、この制度について哲学の味付けで少し書いてみよう。

この制度、広く一般国民に司法への参加を促すことで(強制である)、適切な司法判断がなされることが期待されている。いわばより民主的な裁判の形だろうか。

民主的といえば、文句なしに正しいこと、と私たちはいつの間にか信じ込まされているが、善悪の問題、あるいは科学的な真理の問題など、多数決で判断されるものであるとはいえないだろう。多数決とは、正しいことを発見する手段ではなく、政治的妥協の方策にすぎない。

カンボジア、ポルポト政権下での大量虐殺は、全くもって「民」主導の司法判断の結果であった。中国、文化大革命下でも人民裁判も同じく民主主義の「成果」である。時代をぐっとさかのぼり、古代ギリシャ、アテナイのソクラテス裁判も世界史的な元祖民主主義政権下でのできごとだ。この顛末を描いたものがプラトンによる「ソクラテスの弁明」。

この古代の裁判記録、人類最古の裁判記録かも知れないが、今なお人類史上最も重大な裁判記録である。このソクラテスの弁明から、西洋文明が始まったといったら言い過ぎだろうか。

結局、民の力に押し切られ、ソクラテスには死刑判決がなされる。その反動としてプラトンの有名な哲人政治の主張があるのだろう。つまり、真理に最も近い人間=哲学者が主導者となることが最適であるという考えだ。これもまた極論であるから、現実にプラトンは政治家として失敗している。

当然、裁判員が哲学者や法学者になる必要はない。当局も法律知識は要らないと述べている。”だから大丈夫、あなたにもできます”といいたい感じなのだが、司法判断にはどうしても抽象的な判断の基準が必要となるものだ。これぞプラトニックなものである。裁判員制度に基づく裁判が人民裁判になってしまわないためには、少なくとも正義とは何かと問うセンスが欲しいとは思う。

そもそも、わが国の司法制度は西洋からの外来のものである。その意味でいえば、プラトン主義とも無縁ではないのだ。

2009年3月12日 (木)

アイルランドの曲 キャロランのコンチェルト(Carolan's Concerto または、Mrs.Power)

アイルランド最大の作曲家にしてハープ奏者、オキャロラン(Turlough O'Carolan)の代表曲がこれだ。この季節、小鳥たちの声が賑やかになってくると、この曲を思い出す。

バロック音楽、これが当時大陸では優勢だったのだが、アイルランドの音楽家たちもこの音楽の影響をうけ、オキャロランの作曲にも影響を与えている。この曲は、オキャロランの曲の中でも特にバロック調ではなかろうか。

僕にとってバロック音楽とは、宗教的でかつ抽象的な印象があるが、この曲にはとても生き生きとした自然の具象を感じる。それもそのはず、小鳥の声でオキャロランがインスピレーションを受けたという伝承がある。本当だと思う。いわば、小鳥たちから学んだ曲なのだ。

オキャロランはハープ弾きだったから、元はハープ曲である。でも、ティン・ホイッスルで演奏した方が本来の曲のイメージに合うと感じる。

僕がティン・ホイッスルを学んでいるからとはいわない。本当に、小鳥はティン・ホイッスルに反応するからだ。以前、東京都檜原村の行きつけのユースホステル(山の中にある)で、ティン・ホイッスルのカセットテープを流したことがあるが、辺りの小鳥たちのさえずりがとたんに盛んになったことには驚いた。このときのテープはアイルランドの著名なティンホイッスル奏者、メアリー・バーギンのアルバムだったが、ジャケットにはしっかり小鳥の絵が描いてあった。

小鳥たちと演奏を競い合うなんて、お伽の世界のようだが、可能だと思う。そのときはやはりこの曲だろう。

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