ラテン語の世界 その41 リブラ/Libraと帝国主義

英語の辞書では、古代ローマの重量単位。

ラテン語の辞書では(つまり大元の意味では)、重量単位、はかり、天秤、水準、象徴的な意味で、正式な手続による所有権の移転とある。

よくぞこんな言葉を選んだものである。フェイスブックの野心を明確に表現した恐るべきネーミングである。

解せば、この世界の取引の基準を創設する基軸通貨であろうとするわけだ。

ドルは基軸通貨というけれど、一企業がこんなたくらみを描くとは、、、かつ、描くだけでなく規制がなければできちゃう。

別な角度からみると、アメリカ中心の世界秩序が次第に崩壊しつつあるのだろう。

その背景には、中国の台頭とか国家間の競合ばかりでなく、民間?企業自体がそれにエントリーし始めていることが判明した。

仮想通貨は、すでに金融資産の段階を超えてしまった。

 

 

 

 

イヤフォンする人、しない人 知覚の統合性について

スマホの普及がそうさせているのだろうけど、少し書いておきたい。

街中でイアフォンを聴く、すると聴覚だけ別な世界に分離する。BGM的に整合することもありうるけど、場違いな知覚を気にする人、気にしない人がいるはずだ。

一つの例。

アイリッシュ・ダンスを習っていた仲間のことだ。この、アイリッシュ・ダンス に重要なことは、ダンス曲の種類に応じたリズムの感覚を体に取り込むことである。彼女は、とにかく音楽を聴こうと思い立ち通勤時間を活用しようとした。そこでイヤフォンである。

ところが、「気持ち悪くて、挫折」ってことになったそうだ。思うにダンサーは、音楽と身体感覚の統合が大切だ。それは、通勤電車の環境とダンス曲との整合性にも関係あるのだろう。

で、気持ち悪い、と感じたと思う。

もう一つ。

ある企画で、出版社の人、写真家とスコットランドの壮大な渓谷をドライブしたときのことだ。

出版社の人は、電子音楽系のCDをかけ続けていたが、あとから写真家の先生が苦言を僕に述べていたことを思い出す。「あの景色の中で、あの種の音楽普通聴くか?変だろ!」

という具合に、その人の感受性が知覚の統合性を求める場合がある。

この違いは、個人の性格特性に関わっていると思う。また気にしない人は増えているだろう。それがその人の生き方や社会の在り方にどんな影響を与えるのだろうか?と僕は関心を持っている。

どなたか、心理学系の研究題材にしてくれないかな。「知覚の統合度と人格特性の関連について」とか。

 

子どもとの会話 宇宙人の存在その2

私:で、チンパンジーは人とほとんど同じ、大腸菌だって結構ダブってる。DNAで見ればね。

娘:いきなり何の話なの?

私:宇宙人ネタの続きだよ。つまり、地球の生命って、そもそも元が同じで遺伝子の表現の仕方でこれだけ多様ってことだ。

とすると、地球外の生命は、「人」がどうだとかのレベルではなくて、ある意味大腸菌より別物、ということになる。知的生命体としても、「人」なんて”それを”とても呼べないだろ?

娘:まあね。理屈じゃそうだけど、結局知的生命体として、よその星に行けるくらいの文明を持つほどの生物なら人間型に”収斂”するって聞いたことあるよ。

私:収斂ってか?やるね。これもありってことで進めてみよう。

宇宙のどこかに地球と似た環境の星がある、、そして人類みたいなものが進化して宇宙に進出する文明レベルに到達する。

これだけ星があればね。確率的に認めよう。その意味で(形はこだわらないとして)宇宙人はいる、と認めよう。

娘:でしょ!

私:ついでに特別な科学力で、100億光年でも到達しうるとも仮定しよう。

ごめん、訂正を思いついた。さっきの話、正確には、「いる」というより、「いた」とか、「これからいる」、だけど。

娘:一体何を考えてるの、ブキミよ、その言い方。

私:ごめんな。お互いに接触できるほど、文明って長続きするのかってことだ。

宇宙レベルの時間感覚でいえば、今の人類史なんて一瞬のキラッの1万分の一だよ。

この人類を基準にすれば、核兵器増えまくり、環境汚染深刻、ホーキンス先生はAIが人類滅ぼすと言ってたし、文明存続のネガティブ情報が増え続けてる。そう考えると、お互いに確率的に同時に存在できないため、別な人類=宇宙人に出会える可能性はまずない。

 

 

 

子どもとの会話 宇宙人の存在

娘:宇宙人っていると思う?

私:そこなんだ、この場合の「人」ってどんなものが人なんだい?

娘:またきた、ほんと素直じゃないね。

私:最初が肝心だ。言葉で答えてくれたまえ。人といえるのはどんなもの?

娘:言葉を話して、、、立ってあるいて、、

私:妖怪みたいなのでもいいのかね?

娘:そう言われると困るなー。でも、今っぽい服とか、未来っぽい服着てたら人でしょ。

私:昔の絵に描かれた妖怪だって、今は普通の服を着てるかも知れないよ。宇宙服みたいなファッションが好きなのもいるかも。

妖怪ウォッチには、ほぼ宇宙人のイメージの妖怪も出てるぞ。

娘:でもやっぱ、宇宙人の方が、妖怪よりリアルなものでしょ。そうそう、科学的な。

私:こんな説明はどうだい?昔の人は妖怪をリアルに感じていた。今ほど、科学が発達していなかったから。今の人たちは、科学を信じているので、妖怪はリアルでなくなり、その代わり宇宙人がリアルになった。

結局、たとえ同じものであっても、その時代背景によって、妖怪と解釈されたり、宇宙人と解釈されたりしうる。

 

子どもとの会話 妖怪の存在

娘:妖怪っているの?

私:うちの、かまちゃんやかぶちゃんみたいには「いない」ね。

(うちで飼っている虫たちのこと)

娘:もし見たら信じる?

私:見るだけで「いる」ことになるのか?

娘:確かに、それだけじゃね、、。

私:そうなんだ、「いる」とか、「ある」ってことどうやったら確実にできるのだろうね。

いや、「いる」とか、「ある」 って実際いろいろなパターンがあるんじゃないかな。

娘:うーん。けど、昔の人は妖怪を信じていたよね。

私:かなり本気で信じていた人は多かったと思うよ。文献があるし。

娘:いなくなったとしたら?

私:そういう説明もアリだけれど、そのころとは、信じる背景が変わってしまったと思うよ。

今は、妖怪より宇宙人を信じている人が多くなったみたいだね。将来は、また別物になったりして。

 

 

子どもとの会話 エロス神の降臨

(やれやれ、くそ面倒な思春期か、、)

娘:「エッチ」と「エロ」の違いって何?

私:エッチの元の由来は知らないけど、エロならわかるよ。元々、「エロス」っていう古代ギリシャの神様の名前だよ。

娘:その神様ってヤバくない?

私:ってどんな神様想像してるんだか。理想、真理、美とかに憧れ、近づこうとする強い気持ち、つまりこれこそピュアな愛とされていたのだけれど、この気持ちを具現化した神様なんだ。

昔、ギリシャのアテナイという国で、この神様について議論をしあった記録も残されているよ(実際は、ほぼプラトンの創作で「饗宴」と記されているもの)。なんなら、うちにもこの記録があるから後で見せてあげてもいい。

娘:へー、今とずいぶん意味が違ってるね。

私:このころにくらべ、人類はずいぶん知的に退化したからね。

(補足)

最近、ほぼ最高度な学歴を有し、かつ、民間人としてほぼ最高度な社会的地位を有する日本人(立派な学歴の衆議院議員)が、こともあろうに、北方領土を公の立場で訪問中、夜中にこの神様(かなり劣化してる)に取り憑かれ「性的買い物」に行くと騒いだ事例がある(世界の注目)。古典的教養の重要性がよくわかる例。

 

 

 

人間化する機械と機械化する人間

最近の新聞記事の件。外国人向けの公共的な表示なのだが、スゴイ英語翻訳が結構あるらしい。

例1 小人→dwarf

例2 3両目→eyes3

例1、でいえば、日本はファンタジーワールド?この場合、小人とはしょうにん、で、こびとではないだろう。 子ども料金の表示の中の表現だとおもう。日本の街中に、白雪姫を助けるようなこびと族が身近にいるとは思えない。

普通は、小学生以下をどうやって翻訳するか、が問題(国によって学校制度が違うから意外に難しいけど)。

例2、でいえば、肉眼のことではない、列車の乗り方ことだろうから、Trainの列車ではなく、個々の車両って何といえばいいのだろうか?と普通考える。

これらは、英語力とかの問題ではなく、機械的翻訳をチェックする人がだれもいなかった、その必要も考えてなかったことが問題なわけだ。印刷物や掲示板に載せるのだろうから変更が大変だ。

言葉の意味はその背景から推測しようとするわけだし、こういった感覚は本来人間的なものだ。でも、機械化してしまった人が増えているのだろうか。

だからAI!ってことで対処。それはそうかもしれないが、ますます人間らしい思考力が低下していくことだろう。

今日の新聞記事によると、

「全学生をAI人材に」、なんて記事がある。AIを使いこなし、できれば開発しうるグローバルリーダーを育成しちゃうって理念なのだが、そもそも難しいことはAI任せの風潮の中で、大学の存在意義自体が怪しくなっていると思う。

AIが人間を超えるとき、世の中どうなってしまうか?と、心配するのもいいけど、意識して人間的であり続けることがもっと大切だと思う。

 

山頭火と、存在と時間

山頭火お決まりの、ぼそっとした句の一つとして、「まっすぐな道でさみしい」。

なんだか、分かる、としても鋭い解釈もありそうだ。

「なるほど!」と、川上未映子のエッセイで知ったので書いておきたい。

そこで何が起きようが、だれが何をしようが、永続的に刻々と、冷徹に流れていく時間を「まっすぐな道」と考えればよいのだろう。

人の生は、後ろのどこかでなんとなく始まり、その死はその先にある。

ゴチャゴチャした日常にとらわれていると、そんな事実はかすんでしまうが、視界を超えるほど先のある道に出くわすと根源的なさびしさが沸き起こる。いつか自分はこの道を下りるが、道はでもずっとある。

M.ハイデッガーの存在と時間/Sein und Zeit この題名を思い出した。

幼児の経験世界 園庭とお散歩

あの事件、以後保育園の子どもたちのお散歩中の安全に関心が高まっている。

当然、その安全性についてである。より実効的な安全性の確保が必要であることは当然として、この場では、お散歩の意義について書いてみたい。

自身の例から述べると、子どもに決まった保育園が園庭なしであったことは、がっかりであったが、その分積極的に外に連れ出すと聞き、その配慮に安心はできた。

幼児が遊ぶ公園って、規模が全く問題がない。なので、天気が良ければ、大小さまざまな公園にツアー旅行のようなものである。

また、行きつくまでの過程も、この”世界”にすれていない子どもたちにとっては、心躍る新鮮な経験の場である。この経験は、担当者の適切な方向づけがあればさらに充実したものになる。

その裏付けといえば、メモがあるからである。できるだけ子どものエピソード(保育園からの連絡も含め)、子どもが語ることを記録してきたが、はっとする記録の多くのうち、保育園の外で体験したものの割合はかなり大きいと今更に納得した。

幼児の経験からの視点でいえば、遊具が充実していればよい、というわけでなく、つまり、そのような場所に交通量の多い交差点をいくつも超えていかなくても、雑草の茂る草地程度であっても、子どもにとっては神秘と驚異にみちたドラマの場でありうる。

トコトコとテントウムシさんが、子どもの小さな指先を駆け上がり、天道虫の名前そのままに、薄い飛翔用の羽をカッと開いて天空に飛び立つさまに歓声が応えるなら、子どもたちに貴重な子ども時代の体験を加えることになるだろう。

「つぐみの想像の中ではこの小さな漁師町は無限の世界であり、砂のひとつぶも神秘のかけらだった。」

吉本ばなな TUGUMI から

 

 

 

PTAと日本の社会、ボランティアの本当の意味

朝からメールが携帯電話に入る。その趣旨は、「明日、子どもにPTA会費を持たせるべし」。

もちろん、持たせる。が、支払を怠ったとしてもPTAから退会を強いられることはない。というか、任意団体という発想が欠落している。

新学年が始まると、子どもがPTA役務の申し込み用紙を持ってくる。通年のPTAの役職、これは6年間に一度が「義務」とされ、毎年就く必要がないものの、より軽微な役務として、子どもの農作業を手伝えとか、盆踊りを運営せよとか、その他学校間のイベントを手伝えとかである。

それらが、良いこととは理解している。つまり、しないより、した方が望ましいという意味で。しかし、人件費の予算、のような歯止めがない。

ここで、僕なりに信じる健康な見解を述べておきたい。

保護者が、子どもをきちんと学校に通わせ、狭義の勉強以外に、学校主体の運動会とか遠足とかにも保護者なりの関与をすることは義務である。

しかし、PTAがPTAの名のもとに行うオプション的な活動は、ボランティア活動である。

さて、、、ボランティアの意味なのだが、今の日本では、「タダ働き」の意味が前面にあるようだ。そこで、このサイトらしく語源を確認しよう。

その語源は、ラテン語のVolo~私は望む、である。つまり、自ら「それ、私やりますよ!」って気持ちが重要なのだ。

ところがPTAなどでは、極めて念入りに、全ての関係者に、有無を言わせず、できる限り均等に役務を割り振る仕組みが確立している。

これ自体、社会学の研究対象になりそうだが、それはさておき苦役の度合いが高まっていると思う。

PTA って、一見洋物だが、日本古来の村落共同体を基盤にしたものだろう。それは、等質な家庭の集まりを前提条件にしていた。また、戦後昭和の時期には、専業主婦の活躍も期待できた。

だからうまく動員できたのだが、共働きの家庭、一人親の家庭、日本的な暗黙の前提にうとい外国人の家庭なども昭和の時代に比べぐっと増えている。だからいつまでも昔ながらってわけにはいかない。

学校の教育現場も大変だ。いじめを根絶するために道徳教育、グローバル化だから英語教育、日本の伝統を見直す教育、地域とのつながりを深める活動、自然にもっと触れ合おう、、続々課題が増え、子どもたちのランドセルは重くなるばかり。PTAへの期待も大きくなる。

さてどうなるPTA。根本的な発想の転換が期待される。

おまけの話。以上に関連し、スマホの普及は、生活の利便性に貢献しているというより、より仕事を増やすことに活用されている。動員に便利だからね。

 

 

 

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